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2025年10月31日 (金)

米津寺の石仏(東久留米市幸町)

東久留米市幸町はかつての前沢村や小山村の地域。明治22年(1889)に神奈川県北多摩郡久留米村として10カ村が合併。4年後に多摩地区全体が東京府に移管された。東久留米町になったのは1956年、市政を引いたのが1970年であった。幸町は東久留米市の中では中央北部に位置している。

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米津寺は臨済宗の寺院で江戸時代の初期に地頭米津出羽守田盛が開基となり創建した。米津氏は徳川の御家人で、幕末まで徳川幕府に仕えている。両側に民家の立った長い参道を進み本堂にお参りすると、向かって左手に石仏が並んでいる。

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畜魂供養塔、鰻之供養塔が並んだ右に覆屋があり、角柱型の石仏が祀られている。上部には馬頭観音が陽刻されており、馬頭観音塔と思いきや、その下には石橋供養塔と書かれている。造立年は安永4年(1775)5月で、「武州多摩郡前澤邑」の銘があり、「念仏講中 願主浄圓」の文字がある。この供養塔は昔は小山村と前沢村の境の楊流橋のたもとにあったもの。昭和40年代に道路改修を行った折に米津寺で預かることになったという。

場所 東久留米市幸町4丁目2-40

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2025年10月28日 (火)

旧延命寺石仏群(東久留米市八幡町)

東久留米市八幡町にある旧延命寺跡、ここは江戸時代には前沢御殿(楊柳沢御殿)という将軍御三家尾張家の宿泊所であった。少し北側にある北浦通りはかつてここに流れていた黒目川支流の楊柳沢(ようりゅうざわ)の暗渠。東久留米一体のかなりの地域がこの鷹狩場に含まれていた。ここに延命寺があった江戸時代初期、寛永18年(1641)~延宝4年(1676)まで35年間前沢御殿が続いた。

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旧延命寺の開山閉山については不詳。明治時代の地図には寺院の印ではなく墓地の印になっている。明治維新の際の廃仏毀釈で閉山に追い込まれたのだろうか。この辺りは前沢村という村で、延命寺は前沢八幡神社の別当寺ということからすると、神社が300mほど南にあることからこの辺りが前沢村の中心だったと思われる。

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旧延命寺跡は広い墓所になっていて、その入口左の万年塀沿いに丸彫の六地蔵が並ぶ。造立年は宝暦10年(1760)11月、基壇にはそれぞれ「當村講中」の文字があり、施主中宿とある。かなり傷んではいるが、市内の六地蔵としては古いものとされる。

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六地蔵と向かい合うように5基の大きな石仏が並んでいる。一番道路側は丸彫の地蔵菩薩立像、造立年は寛政7年(1795)11月。損傷摩滅が激しいが、基壇には「武蔵国多摩郡前沢(村)念仏講中建之」とある。左は天保年間の地蔵菩薩立像で、「施主 前沢村中女念仏講中 延命寺亮孝」とある。5人の戒名と没年月日が記されているが、市の資料では天保6年(1835)~天保9年(1838)のものとしている。

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5基の中央は笠付角柱型の庚申塔。摩滅が甚だしい。日月、青面金剛像、三猿の痕跡は見て取れるが、その他の情報は分からない。隣の丸彫の座像は大日如来像らしい。「法印大僧都亮孝墓塔」とあるので、一番道路側の女念仏講中の地蔵を建立するのに尽力した僧侶の墓石だろうか。造立年は天保9年(1838)正月の没年と同じだろう。一番左の上部が欠損した舟型光背型の地蔵菩薩像についても文字はほぼ読めない。

鷹狩全盛期には賑わった村も徐々に衰退し、明治維新においては墓地を残して消滅した時の流れを感じる場所であった。

場所 東久留米市八幡町2丁目11

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2025年10月25日 (土)

阿弥陀堂の石仏(東久留米市下里)

東久留米市下里の阿弥陀堂は大圓寺の境外墓所。前を通る道は下里本邑通りというが、この「邑」を用いる通り名は極めて珍しい。阿弥陀堂を中心としたこの境外墓地は正式に大圓寺下里墓地という。この辺りは昔は下里村本村という地名で、村の中心はこの阿弥陀堂と、北を流れる黒目川の間に多くの民家が集まっていた。

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墓所の入口を入ると両側に覆屋があり、それぞれ地蔵菩薩が祀られている。入って左側には丸彫の地蔵菩薩坐像があり、立派な光背がある。子供を抱えており、地元では子育地蔵尊として拝まれている。造立年は天保11年(1840)3月で、基壇には下里邑の銘がある。また「奥刕会津若松産 願主 貞心」、「武刕多摩郡下里邑 惣村念仏講中」の文字があり、江戸時代の村と邑の使い分けは何だろうと思わせる。

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一方、右側の覆屋には地蔵菩薩立像があり、面長の頭部が特徴的。造立年は明治14年(1881)5月とあり、基壇には「地蔵大菩薩」と「念仏講中13人」の文字がある。発起人島崎四郎左衛門母の銘がある。下里村には嶋崎姓の刻まれた石仏が多い。

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資料によると以前はこの地蔵の裏側に江戸時代の地蔵があり、その再建ではないかと書かれていた。江戸時代の地蔵は同じように面長で丸彫、享和元年(1801)3月の造立だったらしい。

場所 東久留米市下里1丁目14-2

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2025年10月22日 (水)

大島家墓所の馬頭観音(東久留米市下里)

東久留米市下里の都道4号線(旧所沢街道)から少し北に入ったところに小さな墓所がある。墓石を見る限り大島家の墓所のようだ。この墓所の裏手にこじんまりと、角柱型の馬頭観音菩薩が祀られている。正面には「馬頭観世音菩薩」の文字。左側面には造立年、昭和9年(1934)3月建之とあり、続けて願主名がある。施主大島倉吉、六蔵、萬蔵の名前が刻まれている。

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大島家はおそらくこの北側にある大島農園のご先祖であろう。果樹園を営んでおられ、梨、葡萄、キウイを販売しておられる。馬頭観音の前の道は古い道で、北へ向かうと野火止用水(伊豆殿堀)に出る。野火止用水は玉川上水の分流で、小平市で分水し、村山村、久留米村を経て新座郡野火留で新河岸川に合流する。川越藩主松平伊豆守信綱が明暦元年(1655)に掘削させた農業用水で、その為伊豆殿堀の別名がある。ただ、川越藩のための堀だったので、間の村々には利権がなかったらしい。

場所 東久留米市下里7丁目2番地先

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2025年10月19日 (日)

嶋崎家庚申塔(東久留米市下里)

黒目川の左岸、旧所沢街道から少し西に入ったところに嶋崎家があり、角に庚申塔が祀られている。この辺りは昔、下里村の宮下という字名の土地であった。

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黒目川は新河岸川の支流で所沢市の狭山湖が水源。住宅地を流れる川だが意外にきれいな川である。下里辺りは昔ながらの黒目川の蛇行が残っている地域で、この少し下流で西妻川や出水川が合流する。地形的には豊かな土地で、その為昔から人が住み着いてきたのだろう。黒目川の右岸には下里氷川神社がある。

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脇に懸けてある赤い布には「奉納御庚申 島崎氏」とマジックで書かれている。庚申塔は笠付角柱型の立派なもので、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれている。また青面金剛頭部には蛇が巻いている。造立年は寛政12年(1800)6月とあり、「武刕多摩郡下里村 嶋崎庄兵衛」の銘がある。

場所 東久留米市下里5丁目18-26

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2025年10月16日 (木)

下里の馬頭観音(東久留米市下里)

東久留米市下里は北を野火止用水、南は同じ東久留米市の滝山地区にあり、中央には黒目川が流れる武蔵野台地の中北部にあたる。多摩川の大きな扇状地の一部で、東京23区を形成する武蔵野段丘の北の端になる。現在新所沢街道(都道4号線)が走っているが、もともとの街道筋は北にある所沢街道で江戸と所沢を結ぶ街道だった。

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今の石仏は新所沢街道に面して北向きに立っているが、この場所は昔は三叉路で、真北に向かうと下里村内で所沢街道に当たり、東に向かうと八幡町との境で所沢街道に出た。その三叉路上に新所沢街道が新設された形である。右の大きいほうが馬頭観音で、左の角柱が回国供養塔。馬頭観音は笠付角柱型で、延享元年(1744)5月の造立と東久留米市の馬頭観音では最古。

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中央に三面六臂の馬頭観音が陽刻され、「奉造立馬頭観世音菩薩」の文字。右側面には武刕多摩郡下里村之内とある。左の角柱には「奉納大乗妙典日本廻国」とあり、造立年は嘉永7年(1854)3月である。左面には「上州那波郡玉邑宿 栄左衛門」の銘があり、基壇には「下里西邑 世話人清左衛門 惣村中」とある。上州…はおそらく群馬県佐波郡玉村町と思われるが、下里村との関係は不詳。

場所 東久留米市下里3丁目25番地先

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2025年10月13日 (月)

老松橋脇の庚申塔(東久留米市南沢)

多聞寺境外墓所から少し東に行ったところで、東久留米市駅から南へ伸びる竹林公園通りに出合う。竹林公園は老松橋を南にわたって少し行ったところにある湧水の公園。市が設置した公園だが、落合川流域にある湧水の中でも代表的な場所で、東京の名湧水57選にも選ばれている。この竹林公園北の老松橋左岸に庚申塔がある。

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丁字路前はカーブになっていて、その一角に庚申塔と常夜燈が立っている。庚申塔は笠付角柱型で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏が描かれており、基壇には三猿が陽刻されている。左面には造立年の宝暦7年(1757)10月が刻まれ、武刕多摩郡南澤邑、願主神藤傳右衛門の銘がある。右面には「奉造立青面金剛御像講中 安全諸願成就之所 講中18人」とある。

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基壇には道標も刻まれ、「南 保谷村、田無村道、西 前沢道、東 清戸道」とある。脇に立つのは常夜燈のようで、こちらは文化元年(1804)6月の建立。正面には「青面金剛常夜燈」、右には「石尊大権現 大天狗小天狗」、左には「榛名大権現」の文字がある。また武州多麻郡南沢村下組の銘もある。

場所 東久留米市南沢1丁目2-6

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2025年10月10日 (金)

多聞寺境外墓所の石仏(東久留米市本町)

多摩郡南沢村の中心であった多聞寺の境外墓所が、多聞寺通りを東に進んだ丁字路の先にある。明治時代初期の地図を見てもここには墓地があるので、昔からの境外墓所だったと思われる。

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この墓所にはかつて黒松の巨樹があった。しかし昭和47年(1972)9月に落雷に遭い枯死してしまった。現在は傍に昭和63年(1988)に植えられた二代目の松がある。この松は『伊勢物語』の主人公である在原業平の笠懸伝説が残る黒松だが、西の方にある笠松坂の庚申塚の松も同じ由来を持つ。どっちが本当か、どっちともそうでないかはわからない。東下りした業平が、旅の途中で藤原氏の姫、花鳥とこの地で落ち合い、松の下で休憩した折に笠を枝に懸けたという、あちこちにある伝説。

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墓所には古い石仏が祀られていて、中央のひときわ大きな丸彫の地蔵菩薩立像は享保3年(1718)9月の造立。武刕多摩郡南沢村の銘があり、願主名には多聞寺の本誉利覚と下田源右衛門、講中22人とある。写真の一番左の石塔が気になったが、文字は読み取れなかった。

場所 東久留米市本町1丁目16番地

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2025年10月 7日 (火)

多聞寺通りの大日如来(東久留米市本町)

多聞寺から東久留米駅に向かって多聞寺通りを東進する。しばらく行くと、竹藪が見える。竹藪の裏には砂利敷きの駐車場があるが、何の駐車場なのかはわからない。数年前までは藪だったようだ。

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竹藪の丁字路の角に、2基の石塔が祀られている。左は駒型で「大日如来」の文字、造立年は寛保3年(1743)とある。右の上部が欠損した石塔は不明。ゼニゴケが厚くて文字がほぼ読めない。大日如来は空海で知られる密教の根本教主で、真言宗系に多い。なぜここに大日如来があるのかはわからない。

場所 東久留米市本町4丁目8番地先

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2025年10月 4日 (土)

西川家の地蔵(東久留米市本町)

多聞寺から多聞寺通りを東久留米駅に向かって歩く。この辺りは南沢村の中でも北原と呼ばれていた地域で、多聞寺通りに沿って江戸時代から民家が集まっていた。多聞寺通りの丁字路に西川家のお宅がある。この家の角に地蔵堂があり、3体の丸彫地蔵が祀られている

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調べてみると、多聞寺の文化財である嘉永年間建立の総ケヤキ造りの山門の大工のひとりに西川家の人がいたらしい。家の規模と構えからして山門建築に係わった西川家だと思われる。地蔵菩薩には文字が全く見られないが、三地蔵だと残りの三地蔵がどこかにあるのか気になってしまう。

場所 東久留米市本町4丁目7-20

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2025年10月 1日 (水)

多聞寺の石仏(東久留米市本町)

東久留米市本町にある真言宗の寺院多聞寺は、不詳ながら鎌倉時代の創建らしい。現在の住所は本町だが、もともとは南沢村に属していた。近代になって付けられる町名はダサい。本町などは初期の例で、〇〇ヶ丘などは近年の例、それに比べて昔の地名には命がある。

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多聞寺の山門は立派なもので、江戸末期の嘉永5年(1852)に建立された。総ケヤキ造りで、材料は村に生えていたものを伐採し落合川に流して江戸まで運び、江戸で彫刻をしたのちに組み上げたという。ちょうど河岸段丘を形成した場所に寺はあり、山門前と裏の墓所では5mほど標高差がある。

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本堂にお参りし、墓所に向かうと入口に立派な丸彫の地蔵菩薩立像がある。文化10年(1813)8月造立で、基壇正面には「地蔵大菩薩」とある。側面には「武刕多摩郡南沢村 願主 下田勘治郎」の銘がある。

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山門から出て南側の道路(多聞寺通り)に出る手前の塀脇に迫力のある角柱型庚申塔が立っている。正面には大きく「庚申」の文字があり、基壇には「村中安全」、側面には天下泰平五穀成就の文字と、造立年が弘化2年(1845)2月と記されている。基壇側面には多くの願主名があり、「武刕多摩郡南澤村 願主惣村中 引又町石工勝五良」の文字がある。引又町はおそらく現在の志木市本町(舘村)にあたる地域だろう。

場所 東久留米市本町4丁目13-16

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