« 2025年11月 | トップページ | 2026年1月 »

2025年12月30日 (火)

滝之院の石仏(2)(国立市谷保)

滝之院は現在は広い墓所となっており、滝之院墓地管理組合が管理している。入口を入るとすぐに堅牢な建物があり、滝之院という扁額がかかっているが何の建物かは分からない。

Img_9337

この建物の裏側一帯が墓地になっている。墓地の中ほどにあったのが背の高い2基の地蔵菩薩で、かろうじて屋根がついている。

Img_9339

左の丸彫の地蔵菩薩立像は合掌姿のもので回国供養塔。「奉納大乗妙典六十六部之塔」の文字がある。造立年は正徳2年(1712)である。右の丸彫の地蔵菩薩立像も同様に回国供養塔で、こちらも「奉納大乗妙典六十六部之塔」とあり造立年は正徳6年(1716)で、おそらくは対のものをして建立されたのだろう。

Img_9344

少し奥にある歴代住職の墓石が並ぶところに古い石仏があるという。この聖観音像がそれらしい。舟型光背型で「當住寛永19年4月 施主敬白」とあるが、これは命日なので造立は寛永19年(1642)以降の可能性が高い。

Img_9346

また墓地の中ほどには多数の板碑が並べられている場所がある。11枚の板碑は鎌倉時代から室町時代にかけて造られたもので、ここにあるのは建武元年(1334)から宝徳2年(1450)にかけて造立されたものだという。重なっていて読めないが資料によると、遠藤家のもので古いものから、建武元年(1334)が2基、康永3年(1344)、貞治2年(1363)、貞治5年(1366)、応安5年(1372)、明徳4年(1393)、応永24年(1417)、応永27年(1420)、宝徳2年(1450)で1枚は不詳とのこと。鎌倉末期から南北朝時代、そして応仁の乱の前までのものである。

場所 国立市谷保5217

東京:時代の痕跡を歩く(ぼのぼのぶろく)

| | | コメント (0)

2025年12月27日 (土)

滝之院の石仏(1)(国立市谷保)

甲州街道沿いの谷保天満宮の北側の向かいにある滝之院は墓地で、すでに寺はない。もとは滝の坊といって、谷保天満宮別当の安楽寺の六坊のひとつだった。安楽寺は長和3年(1014)の創建だが、明治の廃仏毀釈でダメージを受けさらに火災に遭って廃寺になってしまい、六坊はすでになく、残されたのは滝の坊(滝之院)のみ。私は甲州街道から細い路地の坂を上って入ったが、脇の道のほうが現在は正門になっている。

Img_9298_20251221103201

滝之院の敷地に入ると大きな石塔が建っている。上部に阿弥陀が陽刻され、「血文阿弥陀如来」と書かれた私の背丈ほどのもの。谷保天満宮中興の津戸三郎為守が割腹した際、その血でしたためた妻子宛書簡を木造阿弥陀如来の胎内に入れたという言い伝え。本尊は谷保天満宮に保存されているらしいが、これはそれを記念して建てられた石塔で、安永7年(1778)の造立。

Img_9300

血文阿弥陀如来石塔の脇には覆屋があり、4基の石仏が祀られている。左から、駒型の不動明王像で文久2年(1862)4月の造立。このお不動さんは内藤定エ門の夢枕にお不動さんが立ち、お告げで滝之院の境内を掘って現れたものと伝えられる。左面には「越中国富山佐竹入道海詮」とある。隣の大きな舟型光背型の地蔵菩薩像は念仏講によるもので、寛文8年(1668)10月の造立。「念仏誦逆修同行男女65人現生安穏後生善生処」「府中谷保下村・・・」の文字がある。右の丸彫地蔵坐像のうち大きいほうは石橋供養塔で、宝暦11年(1761)2月の造立。これも念仏講中の造立で「奉納扶桑巡国 當三ケ所石橋建立供養塔」とある。右の像は文字が摩滅していてわからないが資料によると寛政7年(1795)のものらしい。

Img_9317

血文阿弥陀如来石塔の向かいには庚申塔を中心に4基の石仏が並んでいる。左端の小さな舟型光背型の石像は馬頭観音、寛政元年(1789)8月の造立年が刻まれている。笠付角柱型の庚申塔は、日月、青面金剛像、基壇に三猿が描かれており、宝暦13年(1763)8月の造立。「武刕多摩郡下谷保村講中」の文字と願主名が刻まれている。右から二番目の角柱型の馬頭観音文字塔は文久2年(1862)11月のもので、「願主北嶋辰五郎」の銘がある。右端は馬頭観音だが文字が欠けていて詳細は不明。これ以外にも多くの石仏石塔がある貴重な滝之院で、千年の歴史を感じられる石仏が他にもある。

場所 国立市谷保5217

東京:時代の痕跡を歩く(ぼのぼのぶろく)

| | | コメント (0)

2025年12月24日 (水)

五智如来(国立市谷保)

旧国道20号線(甲州街道)の北側に小さな堂宇がある。脇には小川が流れており、「矢川」という川名がある。矢川は立川段丘の崖線下の湧水を水源とするすこぶる水のきれいな小川で、2kmほどで府中用水に合流している。上流には矢川緑地という自然豊かな公園がある。甲州街道のすぐ近くにも昔は毎日のように使われたと思われる個人宅から川に降りる踊り場がある。この川を甲州街道を越えるところ、堂宇はその川岸に建っている。

Img_9286

この辺りは昔は「はしば」と呼ばれ、大正時代の初めころまでは矢川橋という橋が架かっていた。橋のたもとには五智如来の祠があり、江戸時代に八王子から移住した人々が四軒在家を開き、それまで信仰していた五智如来を祀ったのが始まりらしい。ここには実は3基の石塔があり、うち一基は脇の電柱の影にひっそりとある自然石の石橋供養塔で、半分近くが土に埋まっている。造立年は嘉永3年(1850)4月。1600年代後期に永福寺の和尚が私財を投じて石橋を架け村人に感謝された。橋は宝暦10年(1760)に架け替えられ、その石橋を嘉永3年(1850)に架け替えたことが判っている。

Img_9294

堂宇内には2基の石塔があり、大きいほうは角柱型の文字塔。「奉請五智如来 此の橋車禁制」の文字と道しるべ(古れよ利南く ま道)がある。造立年は宝暦10年(1760)2月だから車は牛馬の車だろうか。

Img_9292

脇にある尖塔型の角柱には仏形が彫られており、これも五智如来らしいが造立年などは不明である。昭和30年代までは五智如来の前には燈明や線香、献花が絶えなかったという。今も「おこもり」という儀式が毎年10月12日に行われるらしく、人々は念仏を上げてお祈りする。

場所 国立市谷保6792

東京:時代の痕跡を歩く(ぼのぼのぶろく)

| | | コメント (0)

2025年12月21日 (日)

南養寺の石仏(2)(国立市谷保)

南養寺のある谷保の地名の由来は、地域の南部にあって川が近く、水田を切り開いて稲作をできる地域だった、つまり丘の上に対して谷を充てたという。鎌倉時代後期には谷保郷という地名が成立し、江戸時代になって甲州街道沿いに民家が増え、谷保村を形成した。その後本格的な発展は大正末期からで、国立音大や一橋大学が出来たのもこの時期である。

Img_9257

庚申塔の少し奥、墓所の入口脇に大きな地蔵堂がある。堂宇の中には大きな舟型光背型の地蔵菩薩像と六地蔵が祀られている。堂宇の手前には対の宝篋印塔が建ち、堂内には燈籠がこれも対で立っている。燈籠の竿部には「万人講」の文字が見られる。同様に「万人講」の文字は主尊の地蔵菩薩像の光背にもあった。

Img_9258

中央の地蔵菩薩像は慶安2年(1649)7月の造立で、高さは2m余りある。周りには万人講の願主名が多数刻まれていた。六地蔵は主尊を挟んで左右に三体ずつ並んでいる。丸彫で造立年は明和5年(1768)のもの。主尊の地蔵菩薩像は元は現在の久保公会堂付近にあったもので、江戸時代は今の矢川駅から南養寺を通る道を地蔵街道と呼んでいた。今の矢川通りである。

Img_9270

堂宇の脇には角柱型の三界万霊塔が建っている。「萬霊等」となっているのは意図的なのか誤字なのかは分からず、調べてみると、All living thingsの意味で生きとし生けるものを意味して「等」の字を使うらしい。造立年は寛政3年(1791)9月とあるが、この塔の願主名は佐伯氏とある。前述の馬頭観音も佐伯氏、山門の総門製作も佐伯氏だった。

場所 国立市谷保6218

東京:時代の痕跡を歩く(ぼのぼのぶろく)

| | | コメント (0)

2025年12月18日 (木)

南養寺の石仏(1)(国立市谷保)

国立市谷保にある臨済宗建長寺派の南養寺は山号を谷保山という。鎌倉建長寺の立川入道宗成が開祖となり、南北朝時代に創建した。山門、本殿など貴重な建築物が多く、山門は安永9年(1780)に、本堂は文化元年(1804)、大悲殿は寛政5年(1793)、鐘楼は天明8年(1788)に建立されたもので、見る価値が高い。

Img_9239

山門の手前にも長い参道があり、甲州街道から続いている。山門は地元の大工佐伯源太によって建てられた。国立市の資料では開創は南朝暦正平元年(1346)、北朝暦貞和2年とされているから、果たして何代目の山門だろうか。

Img_9241

山門をくぐると本堂と反対側の塀沿いに大きな自然石の馬頭観音がある。「馬頭観世音」と刻まれたこの石仏は大正12年(1923)2月に佐伯源左衛門によって造立されたもの。この佐伯源左衛門は山門を建てた佐伯源太の子孫だろうか。ただこの大きな玉石は多摩川の砂利を運搬していた馬の供養塔で、大きな多摩川の石に願主が彫ったものである。左隣の御影石の石塔も馬頭観音で「馬頭観世音菩薩」と書かれており、昭和59年(1984)9月に堀江俊典建之とある。どちらも外部からの移設らしい。

Img_9247

その先にあるのが3基の塔だが、左右は笠付角柱型の庚申塔で、中央は燈籠である。右の庚申塔は、日月、青面金剛像、二鶏、三猿の図柄で、享保5年(1720)10月の造立。右側面には「奉養供庚申青面金剛」の文字があり供養が逆転している。左の笠付角柱型の庚申塔は古いもので、貞享3年(1686)9月の造立。日月、青面金剛像、三猿が描かれており、「奉供養庚申二世安楽祈所」の文字がある。この2基の庚申塔は、もともとは甲州街道から石神道を北に入ったところにあったものを移設したらしい。石神道は国立市役所の西側を南北に走る道で、現在の甲州街道の国立市役所入口交差点から北に入った辺りにあったものと思われる。

場所 国立市谷保6218

東京:時代の痕跡を歩く(ぼのぼのぶろく)

| | | コメント (0)

2025年12月15日 (月)

杉田家馬頭観音(国立市谷保)

甲州街道(旧国道20号線、現在は都道256号線)に面した広い旧家の門に立っている駒型の馬頭観音がある。旧家は杉田家。昔は甲州街道沿いに民家が張り付いており、谷保村の中心に近いところにあたる。

Img_9238

花崗岩で造られた駒型の馬頭観音は、正面に「馬頭観世音」の文字があるシンプルなもの。昭和28年(1953)の造立だが、再建とあるので以前の古い馬頭観音があったのだろう。それがどんなものなのかはわからない。

Img_9237_20251213113701

杉田家の前を通る甲州街道は、平成19年(2007)に南の方に日野バイパスが開通すると、そちらが国道20号線になり、もともとの国道20号線は都道256号線となったが、こちらが甲州街道であることに変わりはない。この甲州街道は車道としては4車線だが大型車と並んで走るのは難しい狭い4車線である。1964年の東京オリンピックの際に多摩川の砂利を運搬するのに2車線を4車線にしたが、旧街道筋の為家が立ち並んでおり、結果歩道を削って無理矢理4車線にしたという改悪道路の典型である。行政は失敗を反省することなく、改善もせず、結局国が都に放り投げた形になっている。

場所 国立市谷保7078-1

東京:時代の痕跡を歩く(ぼのぼのぶろく)

| | | コメント (0)

2025年12月12日 (金)

江戸街道庚申塚(国立市西)

国立市は武蔵野に開発された都市で、大正時代の末期に箱根土地(株)によって谷保村北部の山林が開発された折に、国分寺と立川の間なので国立という名前を付けた。紛らわしいが、国立音大は国立市ではなく立川市にあり、国立市からかなり離れているが、もとは谷保村にあったことで今も国立音大と名乗っている。国立市に今もある有名大学と言えば国立(こくりつ)の一橋大学である。市内の小学校も幼稚園も「国立」と地名を冠すると知らない人には「この街には国立の学校が沢山ある」と勘違いさせそうである。

Img_9231

そんな国立市も開発前の大正以前は武蔵野の山林でおおわれて、一部甲州街道や村街道である江戸街道が東西に延びる人口過疎地帯であった。今は北に学園通り、南にさくら通りという生活幹線道路が通る間に、昔の江戸街道があった。その道筋は今も健在である。江戸街道が分岐する角の家に覆屋があり、風化した庚申塔が祀られている。

Img_9234

笠付角柱型の庚申塔は摩滅が激しく、現在では文字はほとんど読めない。情報は国立市の資料から参照する。かつての江戸街道に面したこの庚申塔には、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれており(今は視認困難)、造立年は寛保元年(1741)とある。「奉造立庚申一躯」と書かれ、「是右(江戸)街道、左矢(川)」と記され道しるべにもなっていたようだ。

場所 国立市西3丁目6-3

東京:時代の痕跡を歩く(ぼのぼのぶろく)

| | | コメント (0)

2025年12月 9日 (火)

円成院の石仏(小平市花小金井)

小平市花小金井にある野中山円成院は珍しい黄檗宗の寺院。野中山の由来はこの土地がかつての野中新田であったことで、江戸時代の武蔵国多摩郡上保谷村に創建されたのが宝永2年(1705)である。享保年間に幕府が周辺の新田開発を命じ、そこで尽力した矢沢大堅という人物が開基となった。

Img_9188

江戸時代はまだまだ未開墾の武蔵野台地であったが、江戸時代も後期になると桑畑などが広がる農村地域になっている。円成院の北側には青梅街道が通っており、野中新田善左衛門組という土地である。立派な山門をくぐり本堂にお参りする。

Img_9189

本堂脇に並んでいる石仏は7基、入口寄りの4基は小さな石仏。一番右は男根信仰の石棒で「根勢大権現」と書かれている。根勢は金精の意味だろう。この手の金精様には紀年などの文字がないことが多いがこれもない。その隣の地蔵菩薩像は摩滅が激しく詳細は不明。左の2基のうち、道側は墓石で享保7年(1722)と延享2年(1745)の日付がある。左端は舟型の地蔵菩薩像で、寛政2年(1790)5月の造立。

Img_9193

本堂横に並ぶのは大きな3基の石仏。左の舟型光背型の聖観音菩薩は立派な石仏だが、詳細は不明。右の屏風風のものも描かれているのは施無畏印の聖観音っぽいが、側面には「當庵開祖…」の文字があるので違うかもしれない。これも詳細は不明。中央の駒型の庚申塔は素晴らしい彫りで感心する。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれており、青面金剛はショケラを下げている。ただし小太りの青面金剛像である。造立年は嘉永元年(1848)9月で江戸末期。「多麻郡野中世話人村役人 同善蔵」「願主講中」の文字がある。

Img_9203

少し墓所よりの一角には石橋供養塔があった。文化5年(1808)3月のもので、願主は川里徳兵衛。「同所念仏講中」の文字もある。現在は完全に暗渠化されているが、青梅街道に並行していくつかの用水路が開削されていた。正面には「石橋四か所供養塔」とあるので、その水路に架けた石橋を供養して安全祈願したものだろう。

場所 小平市花小金井1丁目6-29

東京:時代の痕跡を歩く(ぼのぼのぶろく)

| | | コメント (0)

2025年12月 6日 (土)

円成院前の地蔵堂(小平市花小金井)

西武新宿線花小金井駅から北へ向かうと円成院という大きな寺院があり、その向かいに地蔵堂がある。駅前通りからは緑地帯を渡るような橋があり、その先に堂宇がある。10年ほど前までは空地の中にある堂宇だったが、その後後ろの空地の半分が整形外科になった。

Img_9207

堂宇の中に祀られているのは大きな丸彫の地蔵菩薩立像。基壇の正面には「南無・・・」という文字が6行、つまり六地蔵分の銘がある。左面には「武刕多摩郡野中新田」の文字、右面には文化3年(1806)3月の造立年が刻まれている。

Img_9208

野中新田というのは青梅街道沿いの古い地名で、おおよそ現在の天神町、花小金井、花小金井南町、上水南町にあたる。興味深いのは野中新田村が、与右衛門組・善左衛門組・六左衛門組(国分寺市の青梅街道沿い)の三つの組に分かれており、それぞれが村請制の単位で名主や組頭などの村役人もそれぞれの組に置かれていたことである。「組」という単位でありながら、村の機能を果たしていた。

場所 小平市花小金井1丁目27-15

東京:時代の痕跡を歩く(ぼのぼのぶろく)

| | | コメント (0)

2025年12月 3日 (水)

東京街道の馬頭観音(小平市花小金井)

都道227号線の通称は東京街道という。もとは江戸街道と呼ばれていたが、その名が徐々に東京街道に変わっていったのだろうか。並行して南には旧青梅街道、北には新青梅街道があり、その間の道。東大和で新青梅街道と分岐してから、萩山を経て、田無で旧青梅街道に合流するまでの道で、なぜ江戸街道や東京街道と言った大それた名前になったのだろうと疑問を覚えた。

Img_9179

東京街道の花小金井に民家の一角を境内にして一基の角柱型の馬頭観音が立っている。正面には「馬頭観世音」の文字と造立年が刻まれ、文久元年(1861)11月の紀年が見られる。文久年間は幕末の3年間、福沢諭吉が欧州に向かい、薩摩藩がイギリス人を殺した生麦事件と薩英戦争、長州藩が起こした下関戦争など、西洋の先進諸国にボコボコにされた時代である。

Img_9180

そんな時代であったが、庶民は江戸の中心部へ作物などを牛馬で出荷するために、街道筋を通っていた江戸時代然とした風景が想起できる。馬頭観音の右面には「武州多摩郡の中村 世話人村役人中」の文字、左面には「施主辰五郎」の銘がある。

場所 小平市花小金井3丁目1番地先

| | | コメント (0)

« 2025年11月 | トップページ | 2026年1月 »