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2026年1月29日 (木)

小平ふるさと村の石仏(小平市天神町)

小平市天神町にある小平ふるさと村は平成5年(1993)の開設。古民家などが移築され保存されている。江戸時代初期に玉川上水が開削され、その分水で開かれた新田に人が住み始めて村を形成した。江戸時代中期から明治時代にかけての家屋を見ることができる。

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施設の奥にある旧小川家住宅の玄関棟の前の植込みの中に、背の高い馬頭観音と庚申塔が祀られている。馬頭観音は背丈ほどの高さがあり、正面に「馬頭観世音」の文字がある。側面には文化11年(1814)の造立年と、「武州多摩郡堀端埜中新田」の銘がある。

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小さいほうは駒型の庚申塔で、摩滅が信仰しているが保存状態は悪くない。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、ショケラを下げている。側面には「武刕多摩郡堀端野中新田」の銘がある。堀端埜と堀端野は同じで、堀端は「ほりばた」と読む。堀端の新田は農民同士の争いが長く続いた。野中新田の善左衛門組は広く、組頭と名主の争いもあったという。紛争の中には善左衛門、善兵衛、喜兵衛などの名前が出てきて、いかにも江戸時代の農民の争いらしくて興味深い。

場所 小平市天神町3丁目9-1

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2026年1月26日 (月)

宝寿院の石仏(小平市鈴木町)

小平市鈴木町にある宝寿院は真言宗の寺院。創建年代は不詳ながら鈴木新田の開発時代、享保年間の開山とされている。府中妙光院の塔頭で、鈴木新田を開拓した鈴木利左衛門春昌が引寺をしたと伝えられる。

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現在は鈴木街道に面した山門から入るが、山門脇には小平市の設置した説明版があり、かつての鈴木用水と寺の位置関係が記されている。新田開拓とともに歴史を刻んだ寺院である。

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山門脇には標石のようにして馬頭観音が立っている。正面には「馬頭観世音」の文字があり、大正10年(1921)5月建立と書かれている。願主は池田氏の名前がある。

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山門をくぐると、両脇に対の丸彫地蔵菩薩立像がある。2基セットで、どちらも天明4年(1784)11月の造立である。「三界万霊二世為安楽也」の文字や、「講中百四拾六人 願主」の文字も同じ。新田ながら多くの人々が暮らしていたことが想像できる。

場所 小平市鈴木町1丁目129

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2026年1月23日 (金)

遺跡資料館入口の石仏(小平市鈴木町)

小平市の鈴木街道、かつては宝珠院の辺りが西の端だった。そこから南に延びる道は、今は回田中通りと呼ばれているが、実は古くからの南北の道である。鈴木街道から450mほど南へ、回田中通りを南下したところに鈴木遺跡資料館がある。小さな歴史資料館で、訪問時は閉館だった。

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資料館は旧石器時代の発掘品が中心らしいが、次回は訪問してみたい。この鈴木街道からの入口には5基の石仏が祀られている。一番左にあるのは角柱型の石橋供養塔。正面には「石橋供養塔」の文字があり、「施主 上鈴木 糟谷すぎ」と書かれている。造立年は文化13年(1816)12月である。

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その隣の少し大きな石仏は角柱の基壇の上に仏形坐像が載っている。こちらも正面には「石橋供養塔」の文字。造立年は寛政12年(1800)11月とある。左側には「左・・・」とあるが読み取れない。右面には「武刕多摩郡」の文字と願主名がある。その右にある丸彫の地蔵菩薩像は墓石かもしれないが何も書かれていない。

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右から二番目は駒型の供養塔で、正面中央上部に仏形の盛り上がりがあるが、何しろ摩滅していて文字が読めない。左面には「施主 糟谷幸右衛門」の銘があり、右面には文化13年(1816)3月の紀年と文政3年(1820)の紀年が刻まれている。右端は櫛型角柱型の馬頭観音で、正面には「馬頭観世音」の文字、左には「願主・・・」、右側面には弘化2年(1845)秋の造立年が刻まれている。

場所 小平市鈴木町1丁目502

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2026年1月20日 (火)

深谷家の石仏(小平市鈴木町)

鈴木街道と絡み合うように流れるのが鈴木用水。喜平町で玉川上水から新堀用水に分水、そこからすぐに鈴木用水が分岐して東流する。享保年間に鈴木用水が開削されたが、小平市では当時の多くの用水路を今も維持管理している。前述の鈴木街道沿いの念仏盟約塔があったのは深谷家の前の角。

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鈴木街道からは深谷家の土地を挟んで、裏手に鈴木用水が流れており、その用水脇に2基の石仏が祀られている。鈴木街道に対して斜めに接続するこの道も江戸時代からある古い道。天神町まで伸びており、青梅街道に接続する。

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左の角柱には「馬頭観世音」と書かれている。施主名は深谷隆一、大正14年(1925)8月の造立年が刻まれている。右のくし形角柱型の石塔には「庚申供養橋」と書かれていた。安永2年(1773)12月の造立で、施主名は「造立 深谷儀右衛門」と書かれている。庚申講との関わりについては分からない。

場所 小平市鈴木町1丁目136

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2026年1月17日 (土)

永代融通念仏盟約塔(小平市鈴木町)

小平市の新小金井街道と鈴木街道が交差する鈴木町一丁目交差点の30mほど西の鈴木街道路傍の駐車場角にぽつんと立つ石塔がある。山状角柱型の石塔で、「永代融通念仏盟約塔」と書かれている。この場所は江戸時代、ここが鈴木新田と呼ばれる中で、北鈴木という集落の中心であった。新小金井街道は無論存在しないが、鈴木街道と、北西から出合う村道の辻になっていた。

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石塔の造立年は天明2年(1782)11月とある。「為父母報恩」の文字があり、願主名は鈴木利衛門春昌講中と書かれている。鈴木町で困るのが鈴木が地名なのか人名なのかわからないことである。

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永代融通念仏盟約塔について調べてみたら、庚申塔研究の第一人者である石川博司氏の文章にたどり着いた。それによると、この念仏盟約塔は13か所にあり、安永10年(1781)~文化元年(1804)の20年余りの間に建立されている。小金井市貫井南町の閻魔堂墓地、国立市の滝之院などにもあるようだが、かつての訪問時には見落としている。この塔は念仏講などの中で特に「為父母報恩」として念仏を唱える回数を皆で決めて盟約として祀られるもののようである。

場所 小平市鈴木町1丁目17-6

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2026年1月14日 (水)

鈴木町の庚申堂(小平市鈴木町)

西武新宿線花小金井駅の南西、小金井街道以西は鈴木町という。江戸時代この辺りは鈴木新田と呼ばれる農村で、花小金井駅付近から周辺の道とは異なった斜めの角度で伸びる花南一丁目通りはかつての用水路脇の道である。小金井街道以西は鈴木用水だが、以東は田無用水と名を変えて流れていた。その用水路と小金井街道が交差するところに堂宇がある。

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堂宇の裏手には明治時代には水車もあったらしい。堂宇の中には2基の石仏があり、左の自然石を加工した大きなものが馬頭観音。安政4年(1857)4月の造立だが、裏側には再建の文字がある。「鈴木北通り村中 埜中新田永窪中」とある。この辺りの開発地域は、小川新田、野中新田(善左衛門組・与右衛門組)、大沼田新田などもあり、江戸時代中期に盛んに新田開発が行われた。

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右の庚申塔は駒型で、元文2年(1737)霜月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が陽刻され、「庚申供養」「講中」の文字がある。この地域の新田開発が始まったのは享保年間(1716~1736)で、徳川吉宗の時代である。

場所 小平市鈴木町2丁目146-30

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2026年1月11日 (日)

貴船神社の道標(品川区西品川)

品川区西品川にある貴船神社は和銅2年(709)の創建と伝えられる。昔は南品川宿枝郷三ツ木という地名だった。品川の神社はどれくらい古いのかはよくわからないものが多い。荏原神社も和銅2年、品川神社は文治3年(1185)といい、奈良の丹生川上神社より高麗神(龍神)を勧請し、この貴船神社の地に創建という説と、目黒川畔の荏原神社に勧請したという説があるようだが、いずれにせよ1300年も昔のことだからあてにならない。

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貴船神社は再開発が進んだ大崎の高層ビル群から見下ろされることになってしまったが、それでも標高19mの地にあり、小高い土地の上である。ちなみに品川神社は16m、荏原神社は3mである。とはいえ荏原神社も目黒川の流れに合わせて社を移転しているが、この貴船神社の場所が最初と考えるのが自然な気がする。

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貴船神社の境内にあったのが、観音道標と呼ばれる石柱。角柱型で、「左 北品川、西 めくろ、右 南品川」と刻まれている。造立年は文政11年(1828)3月で、建立は松原氏によるものらしい。明治時代以前は神社の北側が居木橋村、西が戸越村、南が下蛇窪村となっている。

場所 品川区西品川3丁目16-31

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2026年1月 8日 (木)

元上谷保村の常夜燈(国立市谷保)

江戸時代、南養寺の辺りが上谷保村だった頃、甲州街道脇にあった常夜燈が残っていて、ひとつは下谷保の本田家近くの文久3年(1863)の常夜燈、もうひとつが南養寺参道入口にあるこの元上谷保村の常夜燈である。

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こちらの常夜燈の建立は寛政6年(1794)4月で、下谷保の常夜燈よりも70年ほど古い。どちらも秋葉信仰に基づくもので、「秋葉大権現 榛名大権現 天満宮」の銘がある。竿部にはほかに「上谷保村」とも書かれている。昔は上谷保村の油屋(現在の甲州街道の北側の原田家)の東隣に建てられたものらしい。昭和6年(1931)からの甲州街道の拡幅工事で現在の場所に移された。

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対のように立っているの石塔がこちらで、千手観音読誦塔とされている。「谷保山南養寺」の文字が見られる。造立年は享和3年(1803)3月と刻まれていた。甲州街道側は「徐厄千手観世音菩薩」、東側は「奉誦観音普門品一萬巻」、南側に紀年が書かれている。

場所 国立市谷保6208-2

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2026年1月 5日 (月)

下谷保の常夜燈(国立市谷保)

国立市を東西に走る甲州街道、谷保村には下谷保と上谷保がある。西にあるのが上谷保で、東にあるのが下谷保。元来の地名の読み方は「かみやぼ」「しもやぼ」が正しい。ここの上下は京都に近いほうが上谷保、遠いほうが下谷保という由来になっている。谷保村自体の発生は、室町時代から戦国時代あたりのようなので、その通りだろうと思う。

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甲州街道に面したお屋敷(北島家)の一角に下谷保の常夜燈がある。建立は文久3年(1863)4月。別名を秋葉燈というが、秋葉は火の神様。秋葉神社に由来する火伏の守りとして、また甲州街道の明かりとして建てられたもの。昔は「ジョートミ」という進駐軍の名前のような回覧板があって、各戸持ち回りで灯火の番をした。

場所 国立市谷保5118

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2026年1月 2日 (金)

本田道庚申塔(国立市谷保)

旧甲州街道(現在は都道)を進んでいると古い門がある。この辺りは江戸時代、甲州街道の谷保の集落の中でも東の端にあたるが、この門の旧家は本田家という名家で、近年解体復原工事が始まって国立市のイベントの一つになっている。

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主屋の工事はかなり進んでいたが、表門はまだ旧態のままだった。この表門は薬医門という型式の門で、江戸時代末期の建築だという。馬に乗ったままで通過できることで「おうまもん」と呼ばれていたそうだが、明治以前の日本の馬はサラブレッドと比較するとロバ並みに背が低かったらしいから、通過できたのだろう。昭和7年(1932)に甲州街道拡幅の為に少しセットバックした現在地に移された。

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本田家旧家の表門の脇の道は本田道と呼ばれる。甲州街道から本田道に入り北進すると下谷保防災センターの前に庚申塔がある。「本田道庚申塔」と呼ばれている。資料にはもとは本田道と府中への道の角にあったとあるが、普通に考えると甲州街道と本田道の角ではないかと推測できる。造立年は寛政5年(1793)4月で、日月、青面金剛像の描かれた笠付角柱型の庚申塔である。

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側面には「左 子のごんげん ちちぶ道」「右 川ごへ道 庚申待講中」と書かれ道標になっている。ここからまっすぐ北に向かうと所沢を経て飯能に行く。根ノ権現は飯能の山奥にある大草履で有名な天龍寺。今は駐車場もあるが、少し前までは車でも厳しい細道で、半ば登山のような参詣道だったようだ。基壇には平成5年の下谷保庚申講中の名があるが、今はもう庚申構は行われていないらしい。

場所 国立市谷保5006

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