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2026年2月28日 (土)

下保谷の二十三夜塔(西東京市下保谷)

都道234号線が西武池袋線をアンダーパスで潜るのが西東京下保谷トンネル。2015年に開通し、踏切の渋滞を緩和したが、車での通行は便利になったものの南北の断絶感が強まったように思う。地下道のスロープも老人や自転車にはきつい。このトンネルの東側、保谷駅寄りのマンションの敷地内に珍しい石塔がある。

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門扉が閉じているので門扉の上からのぞいてみる。自然石で造られた二十三夜塔である。正面に「二十三夜塔」の大きな文字があり。造立年は昭和8年(1933)7月建之と比較的新しい。ただ二十三夜塔は割と近代のものが多いように思う。施主名は「蓮見半曹」とある。

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この時代の二十三夜塔は念仏講とともに祀られる。月待塔の中では二十三夜塔が最も多い。資料の伝承によると「この家に木曾の御嶽山の信仰者が食客におり、この家を出たときに金を預けて、もし自分が帰ってこなかったら石塔を建ててほしいと頼んでいった。その後家では子孫が育たなかった。占い師に問うと、一人の男が水面に浮き沈みしていて、これは御嶽山の信仰者の要望通りに石塔を建てないからだという。預かった金は使いこんでしまったため、工面してこの二十三夜塔を建てて供養すると、子供が生まれ無事に育った…それが私です、と蓮見時子氏が語った。」という話。わずか百年足らず昔の話である。

場所 西東京市下保谷1丁目1-15

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2026年2月25日 (水)

路傍の題目塔(西東京市北町)

西東京市(旧保谷市)北町1丁目、都道234号線沿いの小さな交差点にメディカルビル(医療関係のテナントが入ったビル)がある。都道の拡幅工事が終わったのは数年前だが、このビルはそれ以前から建っていた。2009年にはまだ酒屋と100均のダイソーがあったが、立退きが進みビルが建った。

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交差点から側道を20mばかりはいったところに小さな区画があり、角柱型の石塔が立っている。昔の写真を見ると、この石塔はダイソーの前にあり、位置は変わっていないようである。これは題目塔で、正面には「南無妙法蓮華経奉唱満壹千部成就處」と記されている。側面にも左右それぞれに「南無妙法蓮華経」の文字がある。

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正面の題目の脇には、「武刕新倉郡下保谷上村 本願本橋清兵衛、増田七良左衛門」の銘と、享保8年(1723)11月の造立年が刻まれていた。紀年の下には「同十人」の文字がある。当時の下保谷村は法華信仰が極めて強かったようだ。

場所 西東京市北町1丁目6-1

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2026年2月22日 (日)

上通り三又の馬頭(西東京市北町)

都道234号伏見通りは新しい道路で、南は武蔵野市の五日市街道、北は埼玉県境の新座を結ぶ広い幹線道路。大泉インターから西に都道24号線を進むと、伏見通りにぶつかった所で都道24号練馬所沢線が終わる。この丁字路は西東京北町6丁目とある。この南北東西の幹線道路は近年のもので、それと絡まりあうように古い道筋が走っている。

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西東京北町6丁目交差点の西側を南北に走る上通りという古い道の三叉路に堂宇が立っている。この辺りの以前の地名は上前。堂宇は比較的簡易なもので、堂宇の中には面白い石仏が祀られている。馬頭観世音の座像で丸彫の石仏である。道標も兼ねているようで、円光の一部が破損しているのは昭和時代かららしい。

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台石の銘文は摩滅が激しく読み取れないので、資料を参考にした。造立年は明治5年(1872)11月。下保谷、上保谷の地名がある。右面には「引又道」、左面には「所沢清戸道」の文字があり、道標を兼ねていたようだ。台石正面には「へ」の下に「や」の文字があるが、これはやまやと読む増田家の屋号。かつて増田家では病人が絶えないので、占ってもらうと、家の鬼門に汚物があり、馬頭観音の怒りに触れていると言われ、それを取り除いて馬頭観音を祀ったらしい。その後は病人はいなくなったという。

場所 西東京北町6丁目3-31

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2026年2月19日 (木)

下保谷天神の石仏(西東京市北町)

下保谷天神社は天正年間(1573~1591)の初め頃に創建されたと伝えられる。法華宗の盛んだった下保谷村の鎮守として、菅原道真を祀るとともに題目塔もある。

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明治維新後の神仏分離令によって、仏教色が消されて純粋な天神社となったが、境内には昔も今も題目塔がある。おそらく氏子の間での信仰に由来するものだろうと思われた。2基の題目塔は、右が自然石のもので、左が背の高い角柱型である。自然石の題目塔は安永2年(1773)9月の造立で、角柱型の題目塔は安永9年(1780)8月の造立と刻まれている。

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説明によると、この2基は造立依頼ここにあり続けているという。明治政府の圧力に対して、他の祭神などを別当寺であった福泉寺に移して守りつつ、この2基の石塔は守り続けた。そういう迫害ともいえる時代を切り抜けてきたことを知る人はもう少ないだろう。

場所 西東京市北町6丁目7-19

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2026年2月16日 (月)

福泉寺の石仏(西東京市下保谷)

西東京市の福泉寺はもともと下保谷天神の別当寺で、創建年代は不詳。日蓮宗の寺院なので、題目塔が多数ある。江戸時代以前は蓮蔵坊という草庵で、年代的には江戸時代初期からあったようだ。

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山門脇にも複数の題目塔があるが、山門前に立っているのは文政13年(1830)3月造立の大きな題目塔。左面には保谷山33世日通、題目一千部太右エ門母とある。世話人として記載されているのは房谷戸講中の銘で、これは「坊谷戸の題目講中」を意味するらしい。

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山門右にある題目塔のうち上の写真の題目塔は、明治25年(1892)5月の造立で、多数の願主名が刻まれている。蓮見家、本橋家、加藤家、高橋家、高田家が目立つが、山梨の身延山詣でを満願した題目塔である。

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山門をくぐり本堂の手前に祀られていたのは、笠付角柱型の庚申塔と角柱の馬頭観音。右の笠付角柱型の庚申塔は題目塔を兼ねたもので、正面には「南無妙法蓮華経妙見大菩薩」の文字があり、側面には「大梵天王」「帝釈天王」の文字がある。造立年は元文元年(1736)8月で、願主は下保谷村の蓮見氏、武州新座郡の銘がある。左のくし形角柱型の馬頭観音は摩滅が激しく文字が読めない。造立年も不詳で、正面には「南無妙法蓮華経 馬頭観世音」とあり、願主名は本橋新五郎。日蓮宗と民間信仰の交じり合ったものの楊である。

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山門の脇、裏手には大きなくし形角柱型の馬頭観音がある。造立年は明治35年(1902)12月と比較的新しいものだが、馬頭観音坐像の彫刻は素晴らしいものである。三面六臂の座像が蓮葉の上に鎮座し、馬頭観世音の文字も格調高い。施主は高橋作之助。

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本堂横の堂宇の中に祀られていたのは駒型の庚申塔である。日月、青面金剛像で、右下には「南無帝釈天王」の文字がある。造立年は大正6年(1917)5月と比較的新しい。資料によると、この帝釈天庚申塔の前身は下保谷新田鐘塚上の堂内に納められていた「新田の庚申様」だという。「鐘塚の帝釈天」とも呼ばれ、村人に親しまれていたようだ。松ノ木424番地にあったが昭和30年に福泉寺に遷座された、と堂宇脇の石碑には刻まれていた。

場所 西東京市下保谷3丁目11-17

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2026年2月13日 (金)

下保谷3丁目馬頭観音(西東京市下保谷)

西武池袋線保谷駅周辺の都道25号線は複雑なルートになっている。もとは早稲田通りから伸びて西進しているのだが、旧街道の細い道で北上し、保谷駅の北で左に曲がって西に向かった広い道路になる。保谷駅の北でこの16m幅の広い道路に出る交差点にセブンイレブンがあって、その北の端に馬頭観音がある。

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西東京市になる前の保谷市の資料を見ると、この馬頭観音は畑の中に立っている。昔は今のセブンイレブン前の交差点辺りにあったと思われる。古い地図と今の地図を見比べると道路付けが全く変わっている。

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正面に「馬頭観世音」の文字が刻まれた角柱型の馬頭観音の造立年は、大正14年(1925)12月とある。当時はこの辺りは南荒屋敷~中荒屋敷と呼ばれた土地であった。願主名には高田七郎右衛門、弥助の名前がある。当時死んだ飼馬の供養に建てたという。

場所 西東京市下保谷3丁目17-20

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2026年2月10日 (火)

平安院角の馬頭観音(小平市仲町)

平安院の塀は筋塀である。青梅街道に面して、長い筋塀がとても綺麗だが、西の端でいったん筋塀が切れている。その場所にあるのは、大きな角柱型の馬頭観音である。

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寺などの塀には築地塀や筋塀があるが、平安院の筋塀は三本線。この線の本数で寺格が示されるという。五本あるのは東京では高野山別院と東小岩の善養寺だろうか。善養寺は徳川家との関係が深いらしいが、高野山別院は分からない。

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この豪快な馬頭観音は表面の摩滅が激しく、文字がほとんど読めない。資料によると、造立年は享保2年(1717)らしく馬頭観音としてはかなり古い。正面には「馬頭尊」の文字、願主はこの地の小川新田の小川家らしく、小川弥一の銘があるという。この馬頭観音の西側が広くなっているのは、江戸時代にはここに馬継場があったからだと言われる。

場所 小平市仲町675

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2026年2月 7日 (土)

平安院の石仏(小平市仲町)

小平市仲町の平安院は新宿区河田町の月桂寺境内にあった平安院を引寺して、元文4年(1739)に小平の現在地に創建したと伝えられる。当時のこの辺りは小川新田と呼ばれる土地で、村の菩提寺としての創建であった。

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山門前にも石仏があり、上の写真は笠付角柱型の庚申塔。日月、青面金剛像、三猿が描かれており、側面には蓮葉がある。正面には「奉〇造庚申石造一躰」とある。〇の部分は読めない漢字。また下部には、「武刕多摩郡 小川新田村 願主小川弥一郎ほか2名」が刻まれている。当時の名主は小川弥一と伝えられるが、この小川氏は同一人物だろうか。開山は元文4年(1739)で、この庚申塔の造立年は享保2年(1717)9月とあるので、河田町の月桂寺から移設したものだろうか。とすると小川弥一郎は小川弥一の親か祖父ということになりそうである。

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山門の向かって左手には丸彫の六地蔵が並んでいる。造立年は寛政2年(1790)秋とあり、小川新田村が出来てからしばらく経ってからのもの。小川新田村念仏講中の銘がある。

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山門をくぐると右手に3本の石柱が立っている。ひときわ背の高い石柱は明治21年(1888)のもので、「光明遍照十方世界念仏供養塔」と書かれている。その右の低い角柱型の石塔は明和3年(1766)の供養塔、右は同じく明和年間の供養塔だが年号が読み取れない。

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本堂の近くにあったのが2基の丸彫地蔵菩薩立像。左は享保13年(1728)10月のもので、基壇には「念仏講中」の文字と多数の願主名がある。右の地蔵菩薩は文化13年(1816)7月の造立で、こちらも台石に「念仏講中」の文字と願主名が刻まれている。やはり小川姓が多い。

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その脇には少し背の低い舟型光背型の地蔵菩薩立像。墓石のようだが、本体には元禄13年(1700)9月の年号があるが、基壇には「奉納百番供養仏」の文字と、天明2年(1782)正月の紀年が刻まれている。隣の丸織野地蔵菩薩は詳細不明。右端の舟型光背型の地蔵菩薩坐像には万延元年(1860)とある。

場所 小平市仲町676

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2026年2月 4日 (水)

小平天神入口庚申塔(小平市仲町)

小平天神は小平熊野宮といい、瑞穂町の阿豆佐味天神社の摂社を一本榎の地に遷座して宝永元年(1704)に創建した神社。明治42年に猿田彦神(元庚申社)を合祀した。

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都道の青梅街道に面した大鳥居があるが、この大鳥居の脇に広い境内を有する庚申塔が祀られている。かつては大鳥居の足元にあったようだが、今はこの不思議なほど広い境内に鎮座するのが特徴でもある。

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庚申塔は櫛型角柱型で、「庚申供養塔」の文字とその下に三猿が描かれている。造立年は享保15年(1730)初冬とあり、武州多摩郡小川村の銘がある。小川村の由来は、もともとこの地は小川新田の東端で、明暦2年(1656)に多摩郡岸村(武蔵村山市岸)の小川九郎兵衛安次が自費で小平の開発を請願、この辺りの開発が許され小川新田と呼ばれた。のちに別の場所に小川新田が出来たので、ここは小川村と名を変えたという。

場所 小平市仲町349

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2026年2月 1日 (日)

延命寺の石仏(小平市天神町)

小平市天神町にある延命寺は真言宗の寺院。延命寺という名前の寺は比較的多く、全国に235寺あり、寺名としては第15位のメジャーな名前である(ちなみに一位は観音寺で断トツの839寺)。小平の延命寺は武蔵村山市の真福寺の塔頭から引寺され、野中新田の中心的な寺院となった。

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この地は野中新田善左衛門組という集落で、開発後善左衛門が名主を務めていたが、元文元年(1736)に検地の折、善左衛門は名主役を下ろされた。しかし村の人望が厚く後々の代まで子孫が村の世話をしたようだ。上の写真の山門脇には立派な庚申塔が祀られている。

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笠付角柱型の庚申塔で、造立年は嘉永3年(1850)10月とある。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、青面金剛はショケラを下げている。側面には「武州多摩郡野中新田 延命寺」の銘があり、ここに当時から祀られていたことが分かる。

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山門をくぐり本堂にお参りする。本堂寄りにあったのは、丸彫の合掌の地蔵菩薩立像。基壇には「奉造立地蔵菩薩」の文字。造立年は文化5年(1808)7月の紀年が刻まれている。

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その手前には、中央の聖観音を挟んで六地蔵が並んでいる。聖観音は丸彫の座像で、嘉永元年(1848)4月の造立。基壇には「聖観音菩薩」の文字が刻まれている。六地蔵も同じ造立年月で、嘉永元年(1848)4月と記されている。聖観音の基壇には「多摩郡野中新田両組」の文字があるが、これは善左衛門組と与右衛門組のことだろうか。

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さらに山門寄りに立っていたのは錫杖を持った地蔵菩薩立像で、本堂寄りの合掌地蔵菩薩と同じく、文化5年(1808)7月の造立。おそらく2基の地蔵菩薩は同時に造立されたのだろう。

場所 小平市天神町3丁目5-1

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