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2026年5月30日 (土)

貫井神社の石仏(小金井市貫井南町)

小金井市の貫井神社の創建年代は不詳、ただ湧水の出る弁財天として古くから知られてきた神社で貫井神社と改名したのは明治以降のことである。社殿の左手奥にある湧水は岩の下から滾々と湧き出している。

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神社の境内中央には池があり、境内に上がる手前の左手にも池がある。豊富な湧水を強調しているようだ。むかって左手の湧水の脇には細めの階段が設けられており、その近くに自然石の石塔がある。

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石の表面には大きな文字で「石橋供養塔」とある。その脇には文政9年(1826)の紀年がある。この石橋供養塔の示す石橋は野川に架かっていたものだろうか。特に記載がないのでわからないが、湧水程度に橋はないので間違いないだろう。人に踏みつけられても支えてくれる石橋に対しては江戸時代の人々は感謝して祀っていた。敷石供養も同じような風習である。

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本殿西側に貫井不動尊と愛宕神社があるが、愛宕神社に上る長い階段の下には石坂供養塔がある。これもまた踏みつけられる石坂(階段)に対するもの。角柱型の石坂供養塔は文政13年(1830)3月の造立で「世話人惣村中」の文字がある。村人が協力してこの石段を築いたのだろう。

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愛宕神社の階段を上ると2基の地蔵菩薩が待っていた。右の丸彫の方は詳細不詳である。左の舟型光背型の地蔵菩薩立像は小金井市の史料にも掲載されていた古いもの。造立年は元禄12年(1699)10月とあり、「供養地蔵講中二世安楽」の文字と「貫井村」の記載がある。講中の51人が協力して建てたものだが、上部が少し欠損している。

場所 小金井市貫井南町3丁目8-6

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2026年5月27日 (水)

不動橋の石仏(国分寺市南町)

JR中央線国分寺駅の南、国分寺街道が野川の上流を渡る橋が不動橋である。ちょうど不動橋の下で、北西から流れてきた野川に、南西から流れてきた清水川(元町用水)が合流する。

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不動橋の北側にある大きなマンションの川側にきれいなガレージのような覆屋があり、2基の石仏が祀られている。左側は自然石の石橋供養塔だが「不動明王」と刻まれている。これが不動橋の由来。造立年は天保3年(1832)で、この頃野川に架かっていた橋が木橋から石橋に代わったと考えられている。

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右側は笠付角柱型の庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。造立年は延享2年(1745)2月とある。「武州多麻郡 国分寺村講中」の銘があり、左面に6人、右面に5人、計11人の願主名が刻まれている。

場所 国分寺市南町3丁目1-2

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2026年5月24日 (日)

元町通り子育地蔵尊(国分寺市東元町)

元町通りは武蔵国分寺から東へ伸びる村道で、西の久保通りまで続いている。この二つの道は江戸時代からの道で、微妙に曲がりながら続いている。

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明治の初めころまでは、この辺りが下村集落の東端で、少し歩くと貫井神社を中心とした貫井坂下の集落になった。下村集落の北側には国分寺崖線が走っており、その崖下を野川が東流している。現在の恋ヶ窪の日立中央研究所から流れてきた野川は、村の北側を流れていた。

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堂宇の中には舟型光背型の地蔵菩薩が祀られている。子育地蔵と呼ばれているようだ。基壇の正面には「三界万霊」の文字があり、「當村願主・・」の文字がある。造立年は明和7年(1770)10月と記されている。

場所 国分寺市東元町1丁目19-14

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2026年5月21日 (木)

学園通りの庚申塔(府中市天神町)

府中市天神町のいちょう通りと学園通りの交差点(新町一丁目)のすぐ東側に大きなクスノキとともに立つ堂宇の中に庚申塔がある。堂宇の前にはなぜか鳥居がある。堂宇内はまるで神社のように幕が掛けられ、地元で大切にされている様子がうかがえる。

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南北に走るいちょう通りは古くからの道筋で府中と小金井を結んでいる。東西の学園通りは新しい道で、戦後の高度経済成長期に通された。それ以前は広葉樹と桑畑に囲まれた長閑な武蔵野だったようだ。民家が建ち始めたのは戦後のことらしい。

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ブロックで造られた堂宇にある庚申塔は駒型で、文化12年(1815)2月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、衣で見えないが史料によると「武州多摩郡府中山谷村中」の文字があるようだ。

場所 府中市天神町3丁目12-6

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2026年5月18日 (月)

内藤神社の庚申塔(国分寺市日吉町)

昭和から平成、令和にかけて、中央自動車道府中インター付近は道路工事が続いている。国道20号線は甲州街道から離れて日野バイパスとなり、東八道路は当初の計画で日野バイパスに繋がるべくもう少しのところまで来ている。東八道路と交差する、多摩市からの都道17号線は大昔の鎌倉街道が現代になって幹線道路で再現している様子で、新府中街道とも呼ばれている。

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その都道17号線は令和8年現在、内藤神社のすぐ西側まで延伸しており、その先の用地買収も進んでいる。とはいえかつての鎌倉街道は現在の府中街道筋で、新道は内藤神社方向に西よりにズレてはいる。内藤神社はかつてここが武蔵野の林であった江戸時代中期に、府中本宿村の内藤治助により内藤新田が開発され、享保19年(1734)に近江の日吉山王神社を勧請して創建された。

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入口の鳥居の脇に大きな丸石(自然石)の庚申塔が祀られている。正面には「庚申塔」と彫られ、後ろに文政12年(1819)2月の造立年と、内藤新田の銘が刻まれている。この庚申塔は元は日吉町の内藤橋(中央線の線路を越える橋)際の土手にあったらしい(日吉町1丁目39)。

場所 国分寺市日吉町4丁目11-14

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2026年5月15日 (金)

熊野神社の庚申塔(国分寺市西恋ヶ窪)

JR中央線国分寺駅と西国分寺駅の間の北側に広がる日立中央研究所の庭園(協創の森)は、日本を代表する日立製作所の研究所サイトのひとつとして1942年に開設された。多摩川に注ぐ野川の源流でもあり、それ以前は武蔵野の林の広がる源頭の谷地で別荘だったようだ。野川はここで北からのさんや谷と西からの恋ヶ窪谷の細流を合わせ池が造られていた。研究所の北側を通るのが熊野神社通りで、西武国分寺線の踏切を過ぎたところに熊野神社がある。

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神社は西向きで、鳥居前を南北に通る道がかつての鎌倉街道(府中街道)である。創建年代は不詳、鎌倉時代の末期、新田義貞軍の兵火で焼失し、その後再度火災に遭い、江戸時代の初めに再建。明治になると1877年に暴風で倒壊、1923年には関東大震災で大破、1945年には戦火でもまた破壊された。今の社殿は昭和23年(1948)に再建されたもの。なんとも不遇な社殿である。

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鳥居の脇にそれらの災難で痛めつけられた笠付角柱型の庚申塔が立っている。資料によると、造立年は安永4年(1775)とのこと。摩滅と破損が激しく、日月と青面金剛像の痕跡は見て取れるが、他は分からない。

場所 国分寺市西恋ヶ窪1丁目27-17

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2026年5月12日 (火)

本多の庚申塔(国分寺市本多)

JR中央線国分寺駅から北へ約1㎞、都道の連雀通りを渡ると黄檗宗(おうばくしゅう)の祥應寺がある。祥應寺はこの地本田新田の開発に際して、村人儀右衛門が深川海福寺の僧侶に開山をしてもらい享保11年(1726)に引寺して創建した。黄檗宗の寺院は珍しいが、近くには多摩市の禱徳寺くらいで、あとは羽村市にいくつかある。黄檗宗はやや中国らしさを持つ様式の寺院で、この祥應寺も典型である。

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祥應寺の山門の前には真新しい堂宇が建てられている。傍には銘板で造られた説明版もあって、なかなか手が込んでいる。堂宇内に祀られているのは、駒型の庚申塔。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、造立年は元文5年(1740)10月とある。

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この堂宇が出来たのは令和6年(2024)とつい最近。当時はまだ野ざらしだった庚申塔を、祥應寺の檀徒が浄財で今の状態にしたと説明板には書かれている。

場所 国分寺市本多4丁目2-2

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2026年5月 9日 (土)

薬師堂の石仏(府中市西元町)

府中市・国分寺市は江戸時代以前の武蔵国の中心。今の都心はずぶずぶの湿地帯で、東海道も未発達、主な道路は東山道だった時代、現在の府中市には国府と大國魂神社があり、国分寺市には国分寺があった。昔の多摩川は暴れ川で幅数㎞にわたって流れが右往左往していた。この辺りの多摩川河岸の標高が47m、大國魂神社と国府は55m前後、北に向かって国分寺跡は63m。

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大國魂神社は一段目の河岸段丘上にあり、そこから緩やかに標高を上げ、国分寺は二段目の河岸段丘の下にある。国分寺の裏手はその河岸段丘で、国分寺の薬師堂は段丘の上にあり標高は77mとさらに高い。今は訪れる人も少ないが、大昔はたいそう賑わっていたのだろう。堂内には国の重要文化財の薬師様が祀られている。

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石段を登り、薬師堂の前にある仁王門を望むと、左手に傷んだ地蔵菩薩像が3基、右手に3基の石仏が並んでいる。地蔵菩薩は詳細不明。右手の3基のうち一番左の石仏は破損が激しく文字が読めない。中央は笠付角柱型の庚申塔で、宝暦14年(1764)3月の造立。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、保存状態は良い。右の角柱は六十六部回国供養塔で、寛政2年(1790)10月の造立。武州多摩郡国分寺村行者小坂三郎兵衛の銘がある。

場所 国分寺市西元町1丁目13-16

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2026年5月 6日 (水)

本村八幡の庚申塔(国分寺市西元町)

国分寺は天平13年(741)に聖武天皇が全国の60余りの国々すべてに建立を命じた寺院で、国分寺と国分尼寺がセットで造られた。首都圏では多摩地区の国分寺と海老名市の相模国分寺、市川市の下総国分寺がある。埼玉県は昔は東京都と同じ武蔵国だったので多摩の国分寺が該当する。多摩の国分寺は多摩川左岸の古い河岸段丘に造られた。この国分寺の西側にあるのが本村八幡神社。国分寺の歴史が古すぎるので後年の創建だと思われるが、江戸時代には国分寺村の鎮守であった。

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河岸段丘の上に本殿があるが、登り始めの鳥居脇に新しいきれいな堂宇があった。拝んでみると、堂宇の中には笠付角柱型の庚申塔が祀られている。日月、青面金剛像、二鶏、三猿の図柄で、造立年は寛保元年(1741)11月。「武州国分寺村講中」の銘がある。

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実はこの庚申塔、もともと東元町4丁目16番地の三叉路にあったものが、東元町3丁目2番地のお屋敷脇の駐車場の植込みに移されたのだが、ようやく本村八幡神社の境内に令和2年(2020)9月に移設されて落ち着いたもの。探していたので会えてうれしい気持ちだった。

場所 国分寺市西元町1丁目13-23

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2026年5月 3日 (日)

国分寺墓地の石仏(国分寺市西元町)

国分寺は奈良時代に聖武天皇が命じて全国各地に建立させた一連の歴史的な寺院。鎌倉幕府滅亡の際の戦火により焼失したが、薬師堂は新田氏により再建。真言宗の寺院である。寺の前には江戸時代建立の楼門がそびえており、その傍に広がる墓所の一角に地蔵堂がある。

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堂宇の中には丸彫の地蔵菩薩立像と仏形の座像を陽刻した櫛型角柱型の供養塔がある。左側にある櫛型角柱型の供養塔の座像は摩滅が激しく造形はかなり欠けている。造立年は文化8年(1811)正月とあり、仏形の下には「両親□□菩提」の文字がある。

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右の地蔵菩薩立像は基壇に文字があるがかなり摩滅している。どうも回国供養塔として建てられたものらしく、造立年は正徳5年(1715)7月とある。「国分寺」の文字も見え、側面には本多家の願主名がある。

場所 国分寺市西元町1丁目15

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