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2026年6月27日 (土)

砂土地蔵尊(日野市三沢)

川崎街道の旧道の旧松蓮寺山門の辺りで、落川から三沢に入る。松蓮寺は明治の初めに廃仏毀釈政策によって廃寺となったが、江戸時代は『江戸名所図会』にも描かれており「茂草松蓮寺」の記載がある。

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馬頭観音の近くに大きな堂宇があり、複数の石仏が祀られている。堂宇脇にも石仏石塔がいくつかある。後ろの壁に「砂土地蔵尊」と書かれたお札が貼ってある。右端は舟型光背型の地蔵菩薩立像である。古そうだと思って文字を読むが何分摩滅していて読みづらい。偈文がたくさん書かれている。寒念仏供養の文字があり、貞享4年(1687)の造立のようだ。

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その横の背の高い丸彫の地蔵菩薩立像が砂土地蔵尊と呼ばれる地蔵菩薩らしい。地蔵の腰に享保3年(1718)10月の造立年が刻まれていた。基壇にも文字が刻まれていたが読み取れなかった。砂土地蔵尊の左には舟型の阿弥陀如来像がある。「権大僧都法如・・・」という文字が見えるが、墓石かどうかは分からない。造立年は貞享元年(1684)霜月とある。

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その左には中折れが激しい笠付角柱型の庚申塔がある。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、「三澤邑・・像庚申・・下講中」の文字がかろうじて読み取れた。造立年については「安永(1772~1781)」の文字があるがその先は折れている部分で分からない。庚申塔の下に板碑の一部がポツンと置かれていた。

場所 日野市三沢2丁目1-23

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2026年6月23日 (火)

百草園通りの馬頭(日野市三沢)

百草園通りと川崎街道の旧道が接する丁字路にたつ立派な角柱型の石塔。百草園通りは幅員が狭く、車幅感覚の弱い一般ドライバーはすれ違いに四苦八苦している。

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右のプラスチックコーンに「地蔵尊」とあるのは、すぐ近くにある砂土地蔵尊のことを指しているのだろうか?もともとこの馬頭観音は写真の「百草園」の案内板の向こう側にあったものを数年前に3mほど移設したらしい。

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石仏はかなり傷んでいるが、正面には「馬頭観世音」の文字が見える。基壇には「松蓮寺道」とあるが、松蓮寺はこの地にあった寺院でその跡は百草園になっている。明治初期の廃仏毀釈で廃寺となり、百草園は庭園として残された。馬頭観音には天保13年(1842)暮春の造立年が刻まれており、「當所 三沢」の銘がある。

場所 日野市三沢2丁目1-23

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2026年6月20日 (土)

旧道脇の石仏(日野市落川)

京王線に沿って東西に走る川崎街道は百草園駅の南で脇に斜め道があるが、この脇道が本来の川崎街道である。少し西に進んで百草園通りで現在の川崎街道に戻る。その旧道の途中にグリーンテラス百草園という大きめのマンションがあり、その角に覆屋がある。

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覆屋の後ろは広場になっていて、石仏の場所がマンションの敷地なのか広場側の敷地なのかは微妙だがおそらく広場側になる。覆屋の中には丸彫の地蔵菩薩坐像が祀られている。造立年は明治41年(1908)と刻まれている。

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地蔵菩薩の手前右に角柱型の石がある。石の前面には「庚申供養」の文字がある。側面には造立年は天明8年(1788)4月と刻まれていて、地蔵よりもかなり古い庚申塔である。

場所 日野市落川1086

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2026年6月17日 (水)

落川大宮神社の馬頭観音(日野市落川)

落川大宮神社は京王線百草園駅の南の山の斜面にある。創建年代は不詳とされるが、江戸時代初期の寛文年間から元禄年間のころ、清水谷の山上である現在の場所に移転してきた。当時は落川村下落川の鎮守だったという。

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江戸時代以前はもとは上落川の大宮耕地にあったというから、今の高幡不動駅の近くである。しかし浅川や程久保川が氾濫して洪水により東にあるこの場所に移ったという。山上にある社殿は天明8年(1788)の竣工と古い。山の下の鳥居の脇には2基の石仏が並んでいる。

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右の大きな石塔は角柱型の馬頭観音で、正面に「馬頭観世音」の文字がある。側面には文政6年(1823)立秋の造立年が刻まれていた。左の小さい方は、櫛型角柱型の馬頭観音でこちらも「馬頭観世音」の文字。側面には施主瀬沼成▢の銘と、昭和16年(1941)5月の造立年が刻まれている。

場所 日野市落川1108

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2026年6月14日 (日)

百草六地蔵と庚申塔(日野市百草)

日野市の百草地区はもともとほとんどが山である。元来の百草の集落はこの山の中腹にある細長い集落で、今も昔と同じような風景でまばらに家が並んでいる。野猿街道側(東側)から山に入っていくと、途中で折り返すようにつながって山に登る道がある。途中から車両は通れない道になって尾根に出るが、これが元々の百草の集落の主要道である。

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尾根筋に出ると道が二手に分かれるが、その分岐脇に小高い高まりがあり、たくさんの石仏が並んでいる。簡易なトタン屋根に覆われて8体の石仏がある。どうも寄せ集めっぽい見栄えだが、中央に丸彫の地蔵尊(首欠)があり、その両脇に舟型光背型の地蔵菩薩が並ぶ。

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造立年は分からない。一部の基壇が土中に隠れている部分に「安永6年(1777)」の年号が見える。「安」の字と、「六」と「丁」の文字が見えるので丁酉である安永6年と推定した。

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左端にある駒型の庚申塔は唯一保存状態がいい。日月はない。青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄である。造立年は元文元年(1736)11月。「武刕多摩郡百草村 願主 庚申供養」の文字が読める。端にあるが主役としてもいいかもしれない。

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六地蔵の右手には摩滅と剥離がかなり進んだ道祖神が立っている。「道祖神」の文字が正面に大きく書かれ、右側面には万延2年(1861)正月の造立年と百草村の銘がある。ちょっとした山登りの先に出会える、うれしい石仏群であった。

場所 日野市百草452

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2026年6月11日 (木)

一の宮バス停裏の石仏(日野市百草)

府中市から多摩川を渡り相模原に延びる野猿街道(都道20号線)と川崎街道が交差するのが一ノ宮交差点。もともと野猿街道よりも東側の聖蹟桜ヶ丘駅の西の一帯にあった集落が一ノ宮であった。以西の川崎街道はほぼ昔のルート沿いに車道が出来ているが、百草の集落は多摩川の右岸の山に沿ってできた集落である。

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一ノ宮交差点の南西脇から分岐する小道はこの先の山の上にあった百草集落への道である。その入口ともいえる路傍の藪に3基の石仏が祀られている。気づかずに歩いて通り過ぎかねないような石仏は、左から庚申塔、馬頭観音、聖観音。

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右の聖観音像は舟型光背型で、基壇の文字も読み取れなかったが、おそらく江戸時代後期のものであろう。中央に建つのは大きな角柱型の馬頭観音で、天保5年(1834)という造立年が刻まれている。基壇正面には「講中」の文字と、「八景山松連寺道」の文字がある。右側面には「百草村」の銘があり、さらに願主名も刻まれていた。

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左に建つのは舟型光背型の庚申塔。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、「庚申供養」の文字がある。造立年は正徳6年(1716)6月。さらに「武州百草村」の銘と願主名が刻み込まれている。いかにも百草集落への入口といった雰囲気がある場所である。

場所 日野市百草360

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2026年6月 8日 (月)

高札場下の庚申塔(日野市落川)

日野駅の東側に落川神明神社がある。神社は寛政8年(1797)の創建で、落川村の小字下落川の鎮守だったらしい。明治時代以前は、田んぼに囲まれたこの辺りに小さな集落があった。

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昔からある村道は今も主要市道だが、この少し北に江戸時代には落川村の高札場があった。幕府から発せられる諸法度や掟書を木札に書き込み、村人に徹底させるのが高札場である。落川村の高札場は名主屋敷の前に立っており、今は玉石で土壇を作って再建されている。

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名主の家から街道に出たところにあるのがこの笠付角柱型の庚申塔である。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、右側面に「奉建立庚申供養 落川村講中」の文字がある。造立年は宝暦11年(1762)11月とある。

場所 日野市落川666

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2026年6月 5日 (金)

落川通りの庚申塔(日野市落川)

日野市落川と日野市百草は例がないほど入り組んでいて、落川の隣の家は百草でその向こうはまた落川というようなことが起こっている。落川は暴れ川だった多摩川の低地にあり、そこに飛地を持っていたのが百草。その飛地は島のように点在しており、それを今もまだ引きずっている。京王線百草園駅の周りは特に交り方がひどい。

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駅の北側には百草の飛地が多いが、少し西に移動すると落川になる。駅からセブンイレブン前を左折、その先で北西に向かうのが落川通りで江戸時代からの道である。K字路になっている角の吉田家の一角に角柱型の庚申塔がある。

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正面には大きく「庚申塔」と彫られている。台石には「上河内講中6人」とあり、側面に文政6年(1823)中冬(仲冬の意)の造立年が書かれている。この土地の少し北側には浅川が多摩川に合流する同じ場所に注ぐ程久保川という小河川が、多摩動物公園から流れ下っている。昔は一面の田んぼだったようだ。

場所 日野市落川331

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2026年6月 2日 (火)

延命講子育地蔵尊(文京区関口)

地下鉄江戸川橋駅から南下する江戸川橋通り付近は新宿区と文京区の境が複雑に入り組んでいる。大体この2区の境界が複雑なところは神田川の昔の流程が絡んでいることが多い。その為路地のお隣やお向かいと行政区が異なるなんてことが頻繁に起こる。行政は民間が1年で変わることを100年変えられないという性格がある。まだ伊勢神宮の式年遷宮の方が変わり身が早い。

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地蔵通り横丁商店街は文京区関口になる。江戸川橋通りの入口角に立派な地蔵堂が建っている。中には子育地蔵が祀られている。造立年は不詳。ガラスに説明書きが印刷されている。

「子育地蔵(火伏せ地蔵):三方を台地に囲まれたこの地が一面の田畑だった頃、近くの江戸川(神田川)がしばしば氾濫した。この地蔵尊は明治の初めにいずこから流されてきて、ここに留まったものと言い伝えられている。以下略」

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後年、この周辺が戦火を免れたことから火伏地蔵としても信仰を受けるようになった。地元では延命講を作って地蔵をお祭りし続けているとのこと。堂内には欅の板に講中の面々の名前が刻まれた昭和31年(1956)の額が飾られている。江戸時代はこの辺りは西の中里村、東の小日向村の境で、北にも南にも武家屋敷が迫る都会の農地だったようだ。

場所 文京区関口1丁目7-4

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