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2026年7月31日 (金)

西町神明社の石仏(国分寺市西町)

西町神明社は国分寺崖線にある多摩川の古い河岸段丘に鎮座する神社。この崖線に沿っては中藤新田という集落が享保年間に開拓されたので、おそらく創建もその時代と思われる。崖下の道は古道で、今も崖線に沿って国立駅付近まで道は続いている。隣接する観音寺は神社の別当寺。

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社殿は崖線の上にあるが、古道は下を通る。中藤新田に入植したのは今の武蔵村山市にあった中藤村の人々であった。崖線は西町神明社の周辺のみが昔の雰囲気を残している。周辺の崖地はほぼ均されて、ここが河岸段丘であることは分からないが、神社の境内に入るとそれを目の当たりにする。

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境内に入ってすぐ左側に平成5年に皇太子が植樹されたクスノキがあり、その手前に笠付角柱型の弁財天が祀られている。安永6年(1777)9月の造立で、「武州多摩郡中藤新田辨天新田講中」の銘がある。入植して落ち着いた時代のもので、崖線から湧き出す水をお祀りしたものではないだろうか。

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弁財天と対をなす位置には、同じく対をなす皇太子植樹のクスノキがあり、その手前に笠付角柱型の庚申塔が立っている。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、三猿は基壇に埋まるように彫り込まれている。造立年は明和4年(1767)11月で、前述の弁財天より10年ほど古い。こちらにも「辨天新田中藤新田講中」の文字がある。新田の位置が左右入れ替わっているのは何故かわからない。

場所 国分寺市西町2丁目27-10

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2026年7月28日 (火)

高木八幡宮の石仏(国分寺市高木町)

国分寺市高木町にある高木八幡宮はかつての高木新田と中藤新田の間に鎮座している。神社の南を東西に走るのが高木通りで江戸時代からの街道。この街道沿いに広がっていたのが高木新田、南北に広がっていたのが中藤新田である。新田とはいえ台地上の為、ほとんどが桑畑だったようだ。

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高木八幡宮の創建年代は不詳だが、中藤新田は享保年間(1716~1735)に開発されているので、その時代と思われる。神社は享保16年(1731)に鎮守となった。

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鳥居脇の覆屋に祀られているのは丸彫の地蔵菩薩立像。これが高木八幡宮が鎮守になった後、造立された子育地蔵尊と伝えられる。造立年は元文4年(1739)9月で、基壇には「武刕多摩郡・・南部新田」と書かれている。

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覆屋の少し後ろにあったのが、駒型の馬頭観音。正面には「馬頭観世音」とあり、明治41年(1908)の造立とある。きわめてシンプルで典型的な馬頭観音である。

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馬頭観音の手前には燈籠が立っている。竿部の正面には「神明宮」、脇には「八幡宮」「榛名山」、裏には「多聞天」の文字がある。造立年は嘉永3年(1850)春3月とあり、「武・野中高木組」の文字が見える。

場所 国分寺市高木町3丁目9-9

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2026年7月25日 (土)

佐伯家の石仏(立川市栄町)

立川通りから分岐した高木通りを東進する。高木通りは高木八幡前を通り、国分寺市の新町三丁目まで続く。三叉路から200mほど行くと、生け垣に囲まれた佐伯家があり、生け垣の隙間に石仏が並んでいる。

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地蔵菩薩のみが覆屋の中にある。この地蔵は愛宕地蔵と呼ばれるもので、ここから北に300mほどの高校の裏手にある愛宕神社に関係する地蔵。子供の夜泣きや病の時に、前掛けやタスキなどを借りて治ると新しいものを奉納する習わしらしい。地蔵そのものは八軒の共同所有とのこと。

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丸彫地蔵の基壇には「三界万霊」の文字があり、造立年は安永7年(1778)9月とある。左右には道標が刻まれており、「左 江戸道 願主芋窪新田、砂川新田」「これより 小川、▢沢道」の文字がある。

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隣にあるのはかなり新しい青面金剛像である。ということは庚申塔ということになるが、正面の「奉納 南砂川有志」以外の文字は見えなかった。史料によると、ここには以前舟型の庚申塔があり、それは文化4年(1807)のもので、願主は内〇源助とあったらしい。過去にあったものも今のものも、三面六臂の青面金剛像で、三猿はない。

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庚申塔の右、垣根に少し隠れているのが大きな常夜燈。造立年は天保9年(1838)11月で、正面には「奉献愛宕大権現」、左右には「秋葉さん大権現、榛名山大権現」の文字がある。台座には「多摩郡村中 多摩郡芋久保新田」の銘がある。この燈籠も八軒の共有で、愛宕神社まで行かずにこの燈籠で手を合わせて拝んだものらしい。

場所 立川市栄町2丁目40-1

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2026年7月22日 (水)

三つ又の常夜燈(立川市栄町)

立川通りから高木通りが分かれる三叉路は現在は栄町三丁目という名前の交差点。町丁の境界を見ると、この三叉路の頂点の三角形部分は二丁目で、三丁目にくさびを打ち込むような形になっている。昔はここから北へ進む立川通りはなく、ここでカーブして東に進むのが街道筋であった。この辺りはいわゆる八軒という集落。

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この三叉路の頂点にあるのが常夜燈。竿部の前面は「阿豆佐味天神社」の文字、側面は「榛名山大権現」「愛宕山大権現」、そして裏側には弘化3年(1846)8月の造立年が刻まれている。台座には「砂川村講中」とあるが、もとは砂川四番の阿豆佐味天神社の分祀で八軒のもの。砂川四番は遠いのでそこまで行かなくてもいいようにここに置いたらしい。

場所 立川市栄町2丁目43-1

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2026年7月18日 (土)

立川通りの回国供養塔(立川市栄町)

立川通りを東大和市方面に向かって歩くと、栄町三丁目の高木通りとの分岐の手前に緑道が交差する。てっきり川跡の暗渠遊歩道だと思ったが、どうも廃線跡らしいことが分かった。栄緑地といい、かつての立川飛行機専用線の跡で、立川飛行場(現自衛隊)と立川駅を結んでいた。昭和18年~19年に敷設され、昭和53年(1978)に廃線となった。

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栄緑地から10m余り先の歩道脇に角柱型の石塔が立っている。学習塾の建物の敷地内にある。正面には「奉納経六拾六部日本廻国供養塔」と刻まれている。かなり剥離が進んでいて読めない箇所が多い。天下泰平、国土安穏の文字は読めた。

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左側面には「維持嘉永5年(1852)9月」の造立年、「多摩郡砂川村九番組 施主 佐野氏」の銘が刻まれている。資料によると、佐野氏の先祖が昔西国巡りをした時のもので、その人は弘化3年(1846)に57才で他界したらしい。一時、裏の墓地へ移したが、再び現在地に戻したという。おそらく墓地があったのは戦前のことだろう。

場所 立川市栄町3丁目22-3

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2026年7月15日 (水)

八軒新田の碑(立川市栄町)

立川市の立川通り沿いのワークマンの向かいに八軒新田の碑がある。石仏ではないが散策していて気になったので立ち寄る。「芋久保新田は郡の中程より少し東に寄れり。この新田は郡中、村山郷芋久保村の農民来て開発せし故に村名とせり。」と説明板にある。芋久保村は現在の東大和市の青梅街道の北側の地域(芋窪)にあった村。

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この辺りは江戸時代から八軒と呼ばれた土地。その由来も書かれていた。「享保年間から元文年間のころ(1720~1740頃)には八軒の家があり、今に至っても八軒新田という。江戸日本橋からは八里の距離。」だという。水田はなく陸田のみで、陸稲(おかぼ)を作っていたのだろう。

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大きな石には「武蔵国武州多摩郡砂川村八軒」と刻まれている。砂川村に含まれていたようだ。立川通りは昔は道幅五間(9m)もあり、日野宿で甲州街道に繋がっていた。

場所 立川市栄町3丁目10

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2026年7月11日 (土)

八軒の庚申塔(立川市栄町)

立川市から北、および北東に延びるバス通りは、高松二丁目交差点で北へ向かう芋窪街道と北東へ向かう立川通りに分かれる。分岐点の角には看板が林立し、その陰に木造家屋が立っている。芋窪街道側に回り込むと、隣地との間には万年塀があり、その前に石塔が並んでいる。

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ちょっと面白い場所にまとまっているが、手前の大きな角柱型の石仏は庚申塔で、正面には「庚申塔」の文字、造立年は天保4年(1833)4月とある。基壇には三猿が陽刻されており、正面の庚申塔の字の脇には天下泰平、国土安全と書かれている。側面には、當所講中とあり、その下に三鴨姓、矢嶋姓などの願主名がある。

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手前の手水鉢も古そうで、正面には「奉納」の文字、脇には砂川、矢島の文字がある。大きな庚申塔の左わきには2基の角柱がある。右の石仏は庚申塔で、青面金剛像が陽刻されていた。造立年は明和4年(1767)で大き法よりも古い。下部には「他村施入面々現當…(以下土中)」「施主芋窪新田」の文字が見える。

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左の小さな角柱は馬頭観音である。正面の「馬頭観・」の文字しか読めず、上部は摩滅、下部は埋まっている。資料によると、大きな角柱型の文字庚申塔はこの辺りにあったガソリンスタンドの角に元からあり、青面金剛像の方は七軒家(現在は高松町、昔は芋窪新田)にあったものを集めたらしい。熊野神社があるあたりだろうと思う。馬頭観音については情報皆無である。

場所 立川市栄町3丁目1

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2026年7月 8日 (水)

観音堂裏の馬頭観音(日野市百草)

百草観音堂の南側には、百草園通りの脇を流れる細流と、西から流れる細流が合流する。ここは倉沢谷戸という名前の小さな谷で、昔から細い杣道があったようだ。1960年~70年代にこの西側の山を大きく開発してできたのが百草団地で、標高90m~120mほどのところに山を切り開いた一台住宅地が広がる。

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南側の側道から観音堂の土手を見上げると、土手の斜面に2基の石仏が立っていた。右の櫛型角柱型の石仏は馬頭観音。嘉永6年(1853)4月造立で、施主名は伊右エ門とある。左の新しそうな駒型の石仏も馬頭観音で、「馬頭観世音菩薩」という文字が彫られている。こちらの施主は増嶋吉太郎、造立年は明治10年(1877)7月とある。

場所 日野市百草818-1

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2026年7月 4日 (土)

百草観音堂(日野市百草)

百草園の南側斜面にある百草観音堂は、百草園から数百m下ったところにある。この窪地は倉沢谷戸と呼ばれる。古くは倉沢観音堂、または枡井山観音堂とも呼ばれたが、創建年代は不詳。

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階段を上ると観音堂があり、平安時代に造られた本尊の聖観音菩薩立像が堂内に祀られているが、御開帳は12年に一度ということでとても拝観はできない。

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観音堂の横には覆屋があり、複数の石仏が祀られていた。左から、舟型の聖観音像、丸彫の地蔵菩薩、丸彫の地蔵菩薩、上部が欠損した舟型の如意輪菩薩像、一番右はよくわからない。この中で造立年が刻まれていたのは左から二番目の地蔵菩薩で、元文庚申年吉日とあるので、元文5年(1740)の造立である。

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石段の上にあった古い手水鉢は、宝永5年(1708)7月に小林四郎五郎正義が奉納したもの。「奉寄進 武刕多麻郡百草村枡井山観音堂」の銘が入っている。

場所 日野市百草841

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2026年7月 1日 (水)

百草園通り南の馬頭(日野市百草)

京王百草園は日野市の山の上にある庭園。享保年間(1716~1736)に再建された松蓮寺の庭園として造営され、明治の初めの廃仏毀釈で廃寺となった。地元の生糸商人の青木角蔵がその後所有、1957年に京王電鉄に移管した。

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南斜面に向かって百草園前から下っていくと、坂下で西からの市道がぶつかる丁字路がある。その角に素朴に立っている石塔がある。ゼニゴケに覆われているが、正面には「馬頭観世音」の文字が見える。

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側面には文久3年(1863)6月の造立年が刻まれていた。西から合流する市道は昔はなかった道だが、百草園通りは江戸時代から存在した村道である。この何となくぽつんと立っている様子が路傍の石仏の魅力である。

場所 日野市百草876

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