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2026年8月 9日 (日)

普済寺境内の石仏(立川市柴崎町)

立川市柴崎町にある普済寺は臨済宗の寺院。創建は文和2年(1353)と古い。羽柴秀吉の小田原征伐で立川氏が滅亡、その館城であった土地に普済寺が移転してきたと伝えられる。

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普済寺の開基は立川氏である。立川氏は武蔵国の士族で、鎌倉時代からここに居城した。城内にあった草庵が普済寺の元になったという。当然立川氏の菩提寺が普済寺である。一部は常陸国の佐竹氏に流れ、その後水戸藩士になったようだ。

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山門脇に地蔵堂があり、新旧沢山の石仏が祀られている。大半は近年のものだが、写真の黒っぽい舟型光背型の地蔵菩薩には天保2年(1831)の造立年が刻まれていた。基壇には「講中」の文字もある。右の白っぽい丸彫の地蔵菩薩立像は弘化4年(1831)8月の造立。こちらの基壇には念仏講中の文字がある。

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本堂の裏手、阿弥陀堂の間を抜けると六地蔵が立っていた。基壇などは新しいものだが、中央の石柱には「南無阿弥陀仏」の文字と、文政9年(1826)正月の年号がある。丸彫の六地蔵そのものは資料によると、天明3年(1783)4月の造立らしい。

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国宝の六面石幢は堂内に閉ざされ、稀にしか御開帳されない。2025年に新しい保存庫に移され、容易には見られなくなった。ただ本年2026年は9月20日と11月3日に特別公開されるという。実はレプリカが立川氏歴史民俗資料館にある。仁王像(阿形・吽形)と四天王像を浮彫にした6枚の秩父青石(緑泥片岩)板石を合わせたもので、造立年は南北朝時代の延文6年(1361)である。

場所 立川市柴崎町4丁目20-46

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2026年8月 6日 (木)

日野の渡しの馬頭観音(立川市錦町)

立川市柴崎にある市民体育館の南側は江戸時代は多摩川の河川敷であった。ただ暴れ川だった多摩川の土手の位置は江戸末期も今とさほど変わらない。現在は河川工事後で立川市寄りに流程があるが、江戸時代から戦前までは日野市側に主流が通っていた。そして、現在は日野橋と立日橋という2本の橋があるが、昔は日野の渡しという渡し舟で往来していた。この渡しがここに決まったのは貞享年間(1684~1688)と伝えられる。

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日野の渡しの碑の前には馬頭観音が立っている。大きな角柱型の馬頭観音は大正13年(1924)2月の造立で、「馬頭観世音菩薩」と正面に、基壇には「講中」の文字がある。とりわけ大正時代は馬による運搬が主流で、馬子達の観音講が各所にあって馬頭観音塔を建てたという。この馬頭観音は30人ほどの馬子によるもので、土地は地主の小川氏が寄付したもの。

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脇には3基の石塔があり、右は摩滅が激しく詳細不詳。中央は正面に「馬頭観世音菩薩」の文字、側面には「施主大久保政吉」の銘と、昭和13年(1938)建之の文字がある。左の馬頭観音は上部が欠損しているが、昭和4年(1929)2月に松村福造氏によって建てられたものである。

場所 立川市錦町5丁目20番地先

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2026年8月 3日 (月)

辨天八幡宮の庚申塔(国分寺市西町)

国分寺市西町にある辨天八幡宮は榎戸新田弁天組が開発された享保13年(1728)に創建。新田開発は享保10年(1725)に行われたので、それから間もなくの創建になる。

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境内はそこそこだが小さな社で新田の神社らしい雰囲気が残る。辨天というからには水が湧いているかと思ったが見当たらない。もともと横田家という家にあった稲荷を移したものらしい。

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鳥居の北側にぽつんと庚申塔が祀られている。角柱型と言っていいだろうか。青面金剛像、邪鬼に桃持の烏帽子の一猿の図柄で珍しい。青面金剛はショケラを下げている。造立年は文化11年(1814)で、「中藤新田、弁天(新田)、芋久保平・・」などの文字が基壇の下にあるようだ。この辺りは江戸時代末期は上保谷新田という地名で、五軒屋とも呼ばれた。国分寺崖線下でどこかに水は出たのだろう。

場所 国分寺市西町2丁目30-1

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