坂下地蔵堂(日野市日野本町)
日野駅の南西側、中央本線の線路わきに建つ坂下地蔵堂は、日野宿の西の端にあたることから西の地蔵と呼ばれている。堂宇の前には、2体の地蔵と六地蔵、その他石仏が並んでいる。
戦前まではこの坂下地蔵堂の前の道が甲州街道であった。日野宿から南に折れて大坂という名のこの急坂を上っていた。大坂は甲州街道を西進する時に最初の難関として知られていた。鉄道が開通した時代には地蔵堂の先に日野駅があったが、昭和12年(1937)に坂下の現在地に移転した。
石仏の左端は背の高い丸彫の地蔵菩薩立像が2基立っている。左側は享保5年(1720)10月の造立で、「日本廻国六十六部」とあるので回国供養塔としての地蔵である。隣は、元文2年(1736)11月の造立である。戦前から旅人を見守ってきたのだろう。
その横には間隔をあけて六地蔵が5体並んでいる。1基足りないと思ってみると後ろに頭部欠損した1基が横を向いて立っていた。三好朋十氏の『武蔵野の地蔵尊ー昭和47年刊ー』にもさらりと六地蔵とだけ記載がある。
さらにおそらく櫛型角柱型と思われる石塔があり、正面には「日本回国供養塔」とある。造立年は不詳。側面には「須崎村飯田」の文字がある。「須崎村」で調べてみると、江戸本所の須崎村(今の墨田区向島辺り)、静岡県下田の須崎村、あとは高知県須崎市、石川県金沢市、岐阜県白川町、岩手県遠野市に須崎村がある。距離的には江戸だろう。
さらに隣には同じく櫛型角柱型の地蔵菩薩がある。造立年は文化4年(1807)と側面に書かれており、「日野宿百万遍女講中」の銘がある。日野宿ほどの大きな宿場では百万遍などの講中が沢山あったのだろう。他地区に比べて、日野には石仏が多く残っている。
最後は舟型光背型の庚申塔である。日月、青面金剛像が判別できるがそれ以外は分からない。造立年の部分が欠けているので年不詳だが、「2月」という文字は読めた。坂下地蔵堂は創建当初は旅人の休憩所としても使われていたが、明治末期に焼失し、昭和7年(1932)に再建された。
場所 日野市日野本町3丁目5-1
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