2019年5月28日 (火)

神橋跡(渋谷区幡ヶ谷)

以前に西新宿の淀橋庚申堂の話に登場した「ゆでめん」の横の暗渠、神田川笹塚支流(和泉川)を上流に辿ると、渋谷区本町(幡ヶ谷駅北側エリア)で南北に分かれる。二つの水流はどちらも京王線代田橋駅付近を源頭にして東に向かって流れていた。細流だが侮れない。東京の地形は武蔵野台地をこういう細流が削って出来上がっている。北流と南流はその間に湿地帯(水田地帯)を形成しながら流下していた。

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前述の中幡庚申塔の前の道を東に進み最初の路地を北に進むと、道路が少し盛り上がっている。見ると両側に4本の親柱がひっそりと残っている。この道路の盛り上がりは橋をそのまま埋めて舗装したからであろう。この橋の下を流れていたのは北流である。

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神橋は「かみはし」と読む。和泉川北流で唯一残る橋跡である。橋の竣工は昭和4年とある。なぜ神橋なのかはわからない。親柱4本を残したのは工事費用が掛かるからで、理由の如何にかかわらず残してくれることはうれしいことである。

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暗渠側から見るとこんな感じ。暗渠マニアにはこっちが主役である。60mほど南の南流を200mほど東に進んだところに武の湯という銭湯があったのだが、数年前にマンションに代わってしまった。向かいのビルにコインランドリーが名残りとして残っているが、暗渠には銭湯という好例でもあったので残念である。

場所  渋谷区幡ヶ谷3丁目38-17

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2019年3月27日 (水)

若林橋(烏山川/世田谷区若林)

世田谷線若林駅の北側で環状七号線を横切るかつての烏山川。 昔からあったのは言うまでもなく烏山川で、戦後環七が開通し若林橋が架けられた。環状七号線は昭和2年(1927)に東京市が計画したが、開通したのは東京オリンピックの前の1960年で、駒沢競技場が会場になったため最後は加速して開通した。川は少なくとも2000年は流れているだろうから、100歳の老人と2歳の幼児くらいの時間差がある。Cimg2072   烏山川は千歳烏山北を源頭に世田谷区を流れ、北沢川を合わせて目黒川になる。昭和中期以前はしばしば洪水を引き起こした小河川である。現在は全面暗渠になって大部分が遊歩道化されている。この川を環七が渡る橋が若林橋で、昭和35年の欄干が残されている。この時代はコンクリートの柱に鉄パイプの欄干が多かった。Cimg2044 中央の遊歩道部分が切られて撤去されているが、数mの川幅はあったようだ。現在の遊歩道はほぼまっすぐに近い流れになっているが、関東大震災以前はくねくねと蛇行した川だった。昭和になって世田谷も徐々に開発が進み、河道も直線化された。一説によると若林という地名の由来は新田(新しい田んぼ)の意味だという。戦前は烏山川流域には水田が広がっており、この一帯も一面の田んぼだった。現在の環七沿いの喧騒からは想像もできないのどかな風景が広がっていたのである。

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2019年3月 4日 (月)

三田用水の石橋供養塔(目黒区青葉台)

東京で有名な江戸時代の用水と言えば玉川用水だが、その玉川用水を笹塚駅南で分水して白金までは開渠、それ以降三田(泉岳寺付近)までは伏樋で水を送った用水路が三田用水である。1664年に開削され、1974年に完全廃止された。 用水だから尾根筋を流れる。 東北沢から東大キャンパス北側を流れた後、道玄坂上を南下して西郷山から代官山へ流れる途中、滝坂道のために架けられた石橋があった。

 

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地図の左の青線は駒場野から流れる空川で谷筋を流下、しかし右の青線の三田用水は尾根を流れているのが分かる。 現在の石橋供養塔があるマンションの住民が供養塔を守ってきたので、赤い★の場所に供養塔がある。

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供養塔が造立されたのは文化9年(1812)である。下部には、中目黒村、白金村、北品川村など13か村の名が刻まれ、右側には滝坂道沿いの若林村、経堂村、上祖師谷村などの地名が彫られている。 当時の石橋は、水が出るたびに流される木橋から飛躍的な安全性を目的に大変な費用を使って築かれた。

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旧山手通りから、旧滝坂道を見ると上り坂になっておりその先で急に下り坂になる。 この尾根部分が三田用水の痕跡である。 ここに石橋があった。 もともと灌漑用水だった三田用水の恩恵によって恵比寿にビール工場ができたり、中目黒付近に海軍の火薬工場が出来たりした。

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駒場から青葉台にかけては、三田用水の痕跡の細道が比較的明確に残っている。 なおかつ渋谷区と目黒区の区境にもなっていて痕跡を追いやすいのだが、恵比寿付近まで行くと極めて分かりにくくなる。 上の写真の辻がまさに石橋があった場所である。

Webページ上でこの石橋供養塔が松見坂下の遠江橋にあったとする説が多いが、ここでは目黒区教育委員会説と地元の方の話から、三田用水の石橋と断定した。

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2019年2月12日 (火)

目黒川の暗渠部分(世田谷区池尻)

目黒川は烏山川と北沢川という二つの支流を集めて天王洲アイルで東京湾に注ぐ独立河川である。 勿論この二つ以外にも目黒川には、蛇崩川、空川、谷戸前川、羅漢寺川などの支流がある。

目黒川のこの辺りには昔は水車が沢山あった。 代表的なのは加藤水車という水車で、その対岸にも進藤水車という水車があった(明治初期)。大山道があり、物資の輸送が容易で、農業、工業に役立っていたという。

目黒川は玉川通り(国道246号線)の大橋から上流が暗渠になっているが、そこから遡上すると650mで烏山川と北沢川の分岐点になる。 目黒川としてはこの650mだけが暗渠区間である。 暗渠区間のほとんどは目黒区ではなく世田谷区になる。

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ただし池尻大橋駅そばの看板は目黒区の設置、だから暗渠部分は描かれていない。 このみどりの散歩道の地図はこの場所から暗渠を上るのには全く役に立たない。

もちろん川に蓋をした状態なので、舗道のタイルの下には目黒川が流れている。 紛らわしいのは舗道に沿って親水設備があることだ。 これは新宿区の落合水再生センターできれいにした再生水を、代沢せせらぎ公園(北沢川暗渠)の地下にある施設でさらに浄化したものを流している。

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この再生水の流れには、鯉、オイカワなどが泳ぎ、カルガモやコサギがやってくる。 周辺の住民もにこやかに散歩している。 水辺があると人は穏やかになるものだ。 ただ、リスクのない水辺はゲームと変わらない。 子供のことを考えるとリスクがあって、それを学べる水辺が必要なのではないかと思う。

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やがて暗渠は東仲橋という橋の跡に差し掛かる。 東仲橋で暗渠と交差する道は古道で、厚木街道(大山道)の池尻と滝坂道の代田を結ぶ道。 大山道の一つ上流の橋がこの東仲橋であった。ちょうどこの橋の北側が急な河岸段丘になっていて、台地上に上るための長い階段がある。

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この河岸段丘は暗渠緑道から13m高い。 眺めがとてもいい。 江戸時代はこの台地はすべて徳川家の鷹狩のための駒ヶ原御用屋敷だった。家光らはここから目黒川流域を眺めて、楽しんでいたのかもしれない。

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東仲橋から100mほどで北沢川、烏山川の分岐点に到着する。 北沢川の源流は上北沢あたり、烏山川の源流は千歳烏山を越えて久我山手前の高源院の烏山の鴨池と言われる。もっとも北沢川も烏山川も多くの支流を集めているので、源流が沢山ある。 なかなかすべてを巡ることは難しい。

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2014年4月29日 (火)

身近な自然

自宅から歩いて3,4分の所にある「経堂5丁目特別保護区」がある。 周辺はかつて長島氏の土地で、保護区の前の小さな公園には10年ほど前に朽ちてモニュメントだけになってしまった巨大なエノキの跡がある。この巨樹にちなんで長島大榎公園と呼ぶ。 エノキの幹回りは10m近くありそうで、樹齢400年ほどで朽ちてしまったらしい。 数年前までは数mの高さのところまでは幹があったのだが、それも切られて今は大きなベンチのようになっている。

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この特別保護区は烏山川の支流の小沢の源頭である。 100年前はこのあたりもこんな武蔵野の雑木林が広がっていた。 三軒茶屋から世田谷の代官屋敷前を通って西へ繋がる道は、この保護区の北側を通って府中まで続いた。 細道を散歩していると庚申塚があったり、道しるべのケヤキ並木が残っていたりと、江戸時代の名残をわずかに見ることができる。

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これも散歩の楽しみ。

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2011年12月23日 (金)

渋谷川沿いのヘンなものたちのこと

イモリ川を下り、渋谷川に出た後は天現寺方面に向かった。私は長州人なのだが、父親は若い時代を天現寺で過ごし、子供たちは都立広尾病院で生まれた。なのでこの辺りは自分に深いかかわりのあるエリアだが、最近は滅多に訪れなくなった。今回も久しぶりで、明治通り沿いの変貌にはいささか驚いた。

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広尾病院は広く樹木も多いので、この辺りの渋谷川には落ち葉が流れている。三面護岸なのが残念だが都会の小河川なので致し方ない。

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天現寺橋では上の写真手前から流れてくる渋谷川本流に左から注ぐ土管がある。これが笄(コウガイ)川。源流は外苑前、根津美術館、青山霊園あたりになる。この支流は後日散策したい川跡だ。

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天現寺橋から広尾を望むとちょっと汚れているが天現寺橋の欄干がある。後ろ側が慶応の幼稚舎。渋谷川の名前はこれより下流で古川と名を変える。

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東京都は水を売っているだけあって水関係にはかなりの予算を使っている。清流を復活させようという事業があちこちに見られるのだが、この渋谷川もそのひとつ。水は結構きれいだ。三面護岸でなくビオトープを作ってくれたら言うことはないのだが、そこまでは予算が付かないのだろう。

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首都高速目黒線の天現寺出口の脇を流れる古川。その護岸上に看板がある。この看板のあるところは誰も立ち入ることができない場所なのだが、いったい何の看板なのだろうと気になった。

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川をきれいにしましょう・・・とある。しかしこの看板、肉眼では読めなかった。望遠でようやく読み取ることができたくらいだ。あたりを調べてみたが、なぜここにこの看板があるのかがどうしてもわからなかった。唯一、護岸の縁を金網につかまってへつって行くと見えるのだが、そんな奴はおるまい。

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次に出くわしたヘンなものはこの表示板。「ここには住めません」とある。こんなところに住む奴などいない。ホームレスでももう少し回りに植え込みでもあって、邪魔にならないところを選ぶだろう。

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四ノ橋の脇で路上に見慣れないものを見つけた。ヘラジカの剥製の首か。延べ3体が空を仰いでいる。手前のやつが一番鼻息が荒そうだった。渋谷川(古川)沿いは面白いものが多い。

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古川橋の手前、高速道路下に軒を連ねるのはほとんどがパーツ屋さん。あちこちにこの風景はあるが、もともと恵比寿周辺は家内製工業が盛んだった。大崎、五反田の大工場の下請け会社が五万とあり、近代の東京の工業文化を支えていたのだ。すぐ後ろはハイセンスな白金だが、なんとなく大正昭和の香りのする景色にほっとした。

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2011年12月22日 (木)

イモリ川散策のこと

表参道の賑わいを見ながら、青山学院大学の東側の路地を下ると首都高3号渋谷線を仰ぐ五叉路に出る。ちょうど青山学院大の南端に近いところ。かつてイモリ川はこの辺りから流れていた。水源は大学の構内だが、現認していない。

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六本木通りを渡り、右手に常陸宮邸のこんもりした緑を眺めながら坂を下り、駒沢通りに続く大通りを渡るとまもなく東京女学館。著名人を多数輩出しているが、興味深いのはここの高校を中退した芸能人が多いこと。浅田美代子、山口いづみ、あびる優などだが、どうも学校が芸能活動を認めていないので転向してしまったらしい。

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その東京女学館の南端がイモリ川のスタートになる。過去を刻むようにいもり川階段という銘板が付いている。この辺りの住所は広尾3丁目。都会のど真ん中だがとても静かな住宅地。(地図①)

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いきなりケヤキの巨木があったりして往年の雰囲気が残っているようだ。路地は最初狭いが徐々に広くなり車も通れる広さになってくる。この下のイモリ川は大きな下水管に変えられてしまったのである。くだりを感じられるところも多く、さぞかし急な流れの小川だったのだろう。

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イモリ川の道には階段が多い。かなりのV字谷だったことがわかる。前述の空川も同様だが、ローム層を深く刻んで流れるのが東京台地の川の特徴なのである。

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広尾2丁目に入ると傾斜は弱まる。それでも左岸側は切り立った崖のまま。斜面には樹木が植えられていたりして、散歩していても往年のイモリ川を彷彿とさせる場所がいくつかある。(地図②)

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臨川小学校脇に到達。振り返ると細い家屋をはさんで台地を登る右の道路に対して、左の路地はイモリ川の跡で上っていない。こういう図はなかなか見られないので面白い。

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明治通りを渡ると公園になっていて、その先数m落ち込んだところに渋谷川がある。昔はこの出合いが滝になっていて、音を立てて水が落ちていたらしい。どんどん橋という橋が架かっていたと伝えられている。

数年前に他界した私の父が戦前にこの辺りに住んでいたことがある。天現寺から路面電車に乗って渋谷へ繰り出していたという話をよく聞いたものだ。彼が若いころはきっとこの滝の存在を知っていたはず。今となっては聞けないのが残念だ。

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2011年12月18日 (日)

空川探索のこと (2)

東大駒場を出て井の頭線をくぐり空川の合流点へ向かう。おおよその水線の痕跡は想像できるが、明確な跡は残っていない。井の頭線の南側で駒場野池から流れてきた支流と合流する場所があり、そこは道路の付き方から推定が可能だった。

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写真の路地奥にその形跡がある。一二郎池からの支流と駒場野池からの支流が路地の突き当たりで合流していたのだ。ここから淡島通りの松見坂下まではほんの数分の距離。

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坂の上が淡島通りと山手通りの交差点で、坂の右側が元は川の流れ、ただし今は通りを潜るトンネルになっている。ブラタモリで「鷹狩り」をやっていたが、徳川将軍が鷹狩りに来てこの辺りで橋を渡り、右に行くと駒場野の鷹狩り場、左へ行くと別の鷹狩り場だったらしい。

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トンネルを潜り交差点下を見ると松見坂地蔵尊がある。この地蔵は300年ほど昔、江戸中期に建立された。その脇にはかつての橋の親柱が残っていた。

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後方右側の欄干の親柱跡には「とおとふみはし」と彫られている。ここは江戸以前は滝坂道と呼ばれ府中方面への道があった。実は私の自宅近くをこの街道は走っていたので、聞き覚えがあり親近感を覚えた。

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この空川沿いにはこんなすごい階段があったりする。こういう階段もまた土地の記憶のひとつなのだ。空川はまもなく山手通に吸収されてしまうので、今回はここまで。松見坂交差点には写真の御影石のきれいな石碑が作られている。

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松見坂の由来はこの上(渋谷道玄坂上)に松の木があり、盗賊(追い剥ぎ)がその松に登り歩いてくる旅人を確認、手下に旅人を襲わせて身包み剥ぎ取った場所だったことからそう呼ばれるようになったと伝えられるが、今でも路地裏ではカツアゲというプチ盗賊が現れることがある。昔から渋谷は物騒な場所だったのかもしれない。

<おわり>

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2011年12月17日 (土)

空川探索のこと (1)

かつて東京には数多の川が流れていた。目黒川や渋谷川は台地を削り谷を作った。渋谷はまさにその名残りだが、渋谷周辺には多くの川の痕跡がある。空川もそのひとつで、目黒川の支流にあたる。現認可能な水源は2箇所ある。ひとつは井の頭線駒場東大前の南西にある駒場野公園、もうひとつが東大駒場校舎の敷地内にある一二郎池だ。

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地図上の①が駒場野公園で源流は試験田圃の奥にある池。旧駒場農学校の実習田だったが、今は筑波大付属駒場中高校の教育水田として生徒が実習に使っている。説明板にはケルネル田圃とあった。明治の初期に科学的な農業アプローチをするのに、北海道大学はアメリカ人のクラーク博士で有名だが、ここ駒場農学校はドイツ人のケルネルが教えた実験田だとある。

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源流の池は上の写真のように決して広くないが今でも水を湛えているということは水源がまだ生きていると思っていいのだろう。

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公園への道がこの水流をまたぐのが蛍橋。実は夏になると蛍が見られるらしい。戦後まで自然発生していたが、今では保護の会の尽力によって復活しつつあるらしい。そして蛍橋の下流には実験田が広がっているが、渋谷から徒歩圏内に田圃があるなんて想像できないだろう。

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ちょうど生徒らしき人影が田圃の昆虫を採取しているようだった(もしかしたらもぐりこんだ子供かもしれないが)。

田圃から井の頭線の踏切を渡って東大駒場校舎へ向かう。妙に人が多いのは何故だろうと思ったら、駒場祭の日だった。

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すれ違う学生たちは垢抜けなさを感じさせるものの知的でいかにも頭がよさそうな会話をしていた。しかし目的は学園祭ではないので、キャンパスの東の端に向かって歩く。だんだん人もいなくなってきて、駒場池(一二郎池)に着いた。上記地図では②の場所である。

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一二郎池はかなりの水量を湛えていた。10万年余り前は東京は完全に海面下にあったが、川からの土砂が溜まり台地になっていった。当然ながら富士や浅間の噴火による溶岩や火山灰の堆積があったものと思われる。それが関東ローム層の成り立ちだが、川の流れはその台地を削っていった。この池はその痕跡なのだが、東大生の何割がそれを知っているだろうか。

<続く>

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2011年1月21日 (金)

代々木川から渋谷川へのこと (3)

Imgp2766 表参道を歩道橋で渡る。 明治神宮へまっすぐに続く道である。 それと交わる渋谷川の上はバス停になっている。

Imgp2769 反対側の親柱。 左にはブルガリの路面店。 はるか遠くに渋谷のセルリアンタワーが見える。

Imgp2775 さらに渋谷のほうに歩いていくとおかしな道が左についている。 これはブラタモリでも引っかかっていた場所。

Imgp2778 手の入らない側道の脇には護岸らしき痕跡がある。

Imgp2781 側道を進むとまたキャットストリートに戻る。 ちょうどキディランドの前だ。 キディランドはご存知の通り、以前は表参道にあった。 こんなところに引っ越したのかと驚く。

Imgp2784 その側道の終わりは面白いマネキンでキャットストリートに合流。 向こうから歩いてきたカップルが指差して笑っていた。

Imgp2787 まもなく穏田橋の親柱。 これに気づいている通行人はほとんどいない。 でもここいらに川があって橋がかかっていたのだよ、それも東京五輪の前までね・・・と教えてあげたくなるが余計なお世話だろう。

Imgp2790 このあたりは古い護岸のパイプを使っているように思える。 まだ道路の下には水流があるのだろう。

Imgp2813 明治通りにぶつかるところが宮前橋。 ここの落書きはアートだ。 でも落書きはよくないのだよ。

Imgp2826 明治通りの歩道橋からキャットストリートを望む。 トラックが邪魔だ。 でもこの斜め感は悪くない。

Imgp2836 宇田川の合流点までは自転車置き場になっている。 しかし右手には工事が始まった宮下公園から逃れたホームレスのブルーシート団地が連なっている。 写真を撮っていたらひとりのホームレスがガンを飛ばしてきた。 動物と一緒で目をそらすと負けだから、睨みかえす。 「チェッ」と舌打ちをして逃げた。 事情はあろうが、都会にいるのは甘えている証拠だと思う。 野に出でてサバイバル生活を送るほうがかっこいいのになあ。

Imgp2853 ゴールのハチ公前交差点。 これが今の渋谷だ。 そういえば夏目漱石の随筆に渋谷は沼地の寂しいところと書いてあった。 それから100年。 街は変わるが、地形は変わらない。 川も痕跡を残す。 その変わらないものを探して歩くことができること、その平和さ加減に大いに感謝したい。

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