2018年6月19日 (火)

元坊坂(久我山)

久我山駅から西へ馬車みち(旧府中街道)を進み踏切を越えるとまもなく久我山稲荷神社がある。 創建は不明。 古来から久我山村の鎮守として親しまれてきた。 東隣には久我山幼稚園もあり、稲荷神社は神田川に下る崖の突端に建っている。

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この稲荷神社の西側を上る道が元坊坂である。「もとぼうざか」と読む。  昔、この坂上に光明寺という寺があったが、光明寺騒動という事件があって寺はつぶれたと伝えられる、と杉並区の資料にはある。 また、この光明寺は火災で移転し幕末の廃仏毀釈で廃寺になったとも伝えられる。

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「もと坊があったことから元坊坂と呼ばれたらしい」とも区の資料には書かれているが、このもと坊は正しくは本坊ではないだろうか。寺院の建物で住職が住む僧坊を本坊と呼ぶが、これを「もとぼう」と呼んでしまい坂名になったのではないかと推察する。

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光明寺騒動については、久我山稲荷神社のサイトに面白い話があるがとても興味深い。 こういう伝承をしっかりと編纂してもらえると、地元への愛着も深まる気がする。 それにつけてもこの坂の景色は良い。 神社の境内の鬱蒼とした樹木、くねった道筋が歴史の深さを感じさせてくれる。

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2018年6月18日 (月)

御女郎坂(久我山)

京王井の頭線久我山駅前の商店街は古い道である。 駅を出て左に進むと、間もなく馬車みちが横切る。 ここからうえみちまでの坂が御女郎坂と呼ばれる坂である。 馬車みちはっ府中街道の旧道でべつめい下道。 うえみちは途中曲がりながら、五日市街道に出るための道だった。

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御女郎坂は「おじょろざか」と読む。 由来などはまったくわかっていないようだ。 どこにも坂名の表示はなく、区で編纂した「杉並の通称地名」には戦前まで使っていた通り名とされている。 完全消滅してしまうまではそう遠くないかもしれない。

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戦前は田畑の広がる地域だったが、戦後徐々に駅を中心に新興住宅が広がり、農家が急速に減少したため、昔からの伝承は消えて行ってしまうのだろう。 都心や田舎には結構残っているのに、首都圏の住宅街には歴史が感じられないのはいささか残念なことでもある。

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2018年6月17日 (日)

笠森坂(杉並区久我山)

吉祥寺から明大前までの京王井の頭線は神田川に沿って走っている。 神田川の源頭は井の頭公園の池、そこから杉並区南部の低地を潤して流れており、江戸時代は神田上水とも呼ばれた。 井の頭公園の最下段の池「ひょうたん池」から流れ出た水は間もなく久我山駅の南側に達する。 この流れが久我山周辺の地形を形作っている。
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久我山駅前で西から来た人見街道が神田川を渡る。 その少し東側にあるのが笠森坂。 坂下が人見街道。 坂下で人見街道と馬車道が合流している。 笠森坂は短い小さな坂。久我山周辺には防災避難路として道に名前が付けられており、看板がいくつも掲げられている。
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坂上の民家の屋敷稲荷が笠森稲荷らしい。 坂上に小作家がありその敷地内にあったと聞く。 坂上で東西に走る道は「うえ道」。台地上を走る東西の連絡路で昭和前期まで「うえ道」の呼称で通っていたらしいが、防災避難路の表示が出来てから再び一般化したようである。
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坂下の人見街道から分かれる「馬車みち」は、下道とも呼ばれていた。うえ道に対して、台地の下を河岸段丘に沿って走る道で、かつての府中街道でもあった。 明治時代に井の頭行きの馬車が通ったのが名前の由来。
 
笠森坂はこんな小さな路地だが、明治初期から府中街道(馬車みち)とうえ道を結ぶ道として人々に使われてきた道である。大正時代までは、坂上は畑が広がり、坂下は神田川を挟んで田んぼが広がっていた。

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2018年6月16日 (土)

永泉寺坂(下高井戸)

永泉寺坂は甲州街道の下高井戸から永福町へ抜ける古道が甲州街道から神田川沿いに下っていく坂道。 道の東側は永福1丁目、西側は下高井戸2丁目で町境になっている。 坂上は甲州街道沿いを流れる玉川上水。 その上水に架かる下高井戸橋からの下りになる。

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上水の北側には寺が沢山ある。 西側(下高井戸2丁目)には龍泉寺、東側(永福1丁目)には本應寺、永昌寺、栖岸院、法照寺、浄見寺、善照寺、託法寺、真教寺、そして広い築地本願寺の和田堀廟所が並ぶ。 一大寺町になっている。 そのほとんどが、関東大震災の被災により、都心部からこの地に移転してきたものである。

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その並ぶ寺院の中で、永昌寺は少し異なる歴史がある。 もともと坂の西側に永泉寺という寺があった。 一方永昌寺は新宿区愛住町辺りにあったが、明治43年に永泉寺と永昌寺が合併して、この地に移転したという。 永泉寺坂の地名の由来となった永泉寺は、永昌寺に吸収されてしまったが、坂名だけはそのまま残ったということである。

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その永泉寺に祀られていたのが玉石薬師。 この玉石というのが、玉川上水の永泉寺付近の工事の折、光沢のある玉石が掘り出され、その石の光沢の中に薬師像が浮かび出たことから祭られるようになった。 寺は上水の工事の無事竣工を念じて供養し、付近の人々の信仰も深まって、毎月8日の縁日は永泉寺ボロ市と呼ばれて賑わった。 この市が有名になったので、永泉寺の名前も現在に残されたのである。

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2018年6月15日 (金)

法印坂(杉並区永福)

本村坂から井の頭線をくぐり神田川上流方向へ進む。 現代の住所は井の頭線を越えると、和泉から永福に変わる。 この道路の脇には、昭和の中頃まで神田川の分流(用水路)が流れていた。 この分流と神田川の間には昭和中期までたくさんの養魚池があった。釣堀もあったようだが、内容に関する資料はまだ入手できていない。時代的には金魚なども多かったのではないかと思われる。

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法印坂の坂名の由来は、杉並区の資料によると、ここは昔の和泉村と永福村の村境で、坂の北東側に日照寺という真言宗の寺があり、そこに法印という住職がいたためとある。日照寺は明治初年廃仏毀釈時に廃寺となった。

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すぐ南西側には永福寺があり、そちらは大永2年(1522)開山の曹洞宗の寺院。もとは西隣の永福稲荷神社の別当だった。北条氏が豊臣に負け小田原城が落城した時、北条氏の家臣であった安藤兵部丞が当時の住職を頼ってここに帰農して、永福村の発展に尽くしたと伝えられる。

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2018年6月14日 (木)

本村坂(杉並区和泉)

地蔵坂を下り、神田川を井の頭線と並んで蔵下橋で渡る。 そのまま吉祥寺方面へ進むと川の左岸の上りになる。 これが本村坂である。 「もとむら」ではなく「ほんむら」と読む。 昔、この坂の場所に名主梅田家の屋敷があり、その屋号が「本村」だったため、本村坂と呼ぶようになったと伝えられる。

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上の写真は蔵下橋を本村坂側から見たものだが、周辺は若干田舎っぽい景色で、井の頭線の土手の草地がずっと続く線路沿いに江戸時代からあったこの道が通っている。 しかし、2016年の訪問時にはまさかのその線路わき緑地にビルが建てられていたのに驚いた。 以前は幅数mの線路沿いの空き地に車が並んた簡易駐車場だったが、養生シートに囲まれてビルがほぼ建った状態になっていた。 薄っぺらい敷地によく建てたものだ。

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このビルが建てられたお陰で明るかった本村坂が一気に暗闇坂のようになってしまった。写真右手の樹木に覆われた部分が屋敷森でここには500坪ほどのお屋敷があった。 これがかつての梅田家ではないかと推測している。 南側に隣接したマンションが「マンション本村」とこの家の屋号を付けている。

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2018年6月13日 (水)

地蔵坂(杉並区和泉)

杉並区和泉、明治大学の和泉キャンパスの裏手には多種多様な歴史が残っている。 崖下を切通しで走る京王井の頭線と水道橋で交差する玉川上水。 玉川上水は蔦に覆われ、側道の脇を通っている。

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そして複線の井の頭線に4線分のトンネルがある。 これは戦前に東京山手急行電鉄という会社が山手線の外側に円周鉄道を計画していた名残りで、大井町から北上、小田急線梅ヶ丘、京王線明大前というルートに対応して、建設時に4線分を作ったが、世界恐慌のあおりを受けて頓挫した。

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鉄道遺構の吉祥寺寄りに向かって地形は大きく下っていて、間もなく井の頭線は神田川を渡る。 この遺構の近くにあるのが地蔵坂である。 井の頭線神田川橋梁と並ぶ道を都心に向かうと、道が二手に分かれ、左が地蔵坂の古道である。

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大正時代以前に永福町界隈から甲州街道への道は七軒町(今の下高井戸)に上る永泉寺坂とこの地蔵坂の二つしかなかった。 坂上は甲州街道の代田橋で、ここにはダイダラボッチ伝説が残る。あの「もののけ姫」に出てきた巨大な鹿神の化身のモチーフである。 そのダイダラボッチが架けたのが代田橋という、あり得ない言い伝えが残っている。

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現在の坂は緩やかにカーブを繰返しながら上っていく。坂上の西側に広い共同墓地がある。 ここには明治初年まで地蔵堂があったが、本尊は現在は井の頭通りの北側の閻魔堂に移されているという。 しかし、墓地入口にはいくつかの地蔵が並んでいる。

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時代的には、江戸前期から江戸末期までの地蔵が集められている。 墓地の入口は階段で、上ると地蔵が並び、その手前に「和泉村 地蔵堂墓地」と彫られた石塔がある。 江戸時代この辺りは和泉村と呼ばれた神田川流域の農村であった。 現在の明治大学和泉キャンパスは戦前は火薬庫で、江戸時代から弾薬の貯蔵庫(塩硝蔵)として使われていた土地である。

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2018年6月12日 (火)

尻割坂(杉並区和泉)

尻割坂とかいて「けつはりざか」と読む。 珍しい坂名である。 由来については、急坂なので力を入れて登降するから、腰の筋肉が張るという意味で呼ばれるようになったらしい。 現在の坂は大した坂ではないが、昔はもっと急だったのだろう。

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坂の南側のブロックには和泉熊野神社がある。 一方の北側、垣根の区画はもと当麻家の屋敷だったところで、植込みのなかに近代的で立派な門がある。 向こう隣りは貴船神社である。 どんな屋敷だっただろう。 この辺りの庄屋だったのかもしれない。 坂上あたりは和泉山と呼ばれた丘で、もとは広大な雑木林だった。 家が建つようになったのは戦後である。

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2018年6月11日 (月)

番屋坂(杉並区和泉)

いの坂の南側、神田川で言えば上流にある坂道が番屋坂である。坂下の神田川に架かる橋の名前が番屋橋。 杉並区の資料には、由来は定かではないが、この坂の下に番屋橋があるので、ある時期番小屋があったため名が付いたかもしれない、とある。 番屋というのは、江戸時代に消防や自警で見張り番が詰めていた小屋のことで、現代で言えば交番みたいなものである。

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現在は住宅がびっしりと建っている地域だが、昭和中期まで坂下から川側は田んぼだったので、果たして番屋があったかどうかは疑問である。あったとすると、この番屋坂の坂下あたりなら可能性があるが古い地図にはそれらしきものが描かれていない。

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さらに明治時代は勿論、昭和の初期までこの坂の位置に道はない。 坂下の道と番屋橋は江戸時代からあるのだが、この斜面にはほとんど家がないのである。 しかし杉並区の資料には番屋坂の名前は昭和20年頃まで通称として使われていたとあるので、地図に道が記載されていないだけかもしれない。 坂名の由来で行き詰ってしまった。

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坂の南側に貴船神社がある。縁起には「当社は和泉熊野神社の末社です」とある。 和泉熊野神社は隣のブロックにある。 近所というよりお隣である。 そんな場所に飛地で神社を建てる意味合いがあるのかと思って、縁起を読んでみた。

創建は文永年間(1264~75)と古く、祭神は高龗(たかおかみ)の神。 この神は山、谷あるいは川に住む雨水を司る竜神で、雨ごい、止雨に霊力がある。 当社はこの水を支配し豊穣を約束する神として信仰されていた。 もともとは神田川の治水を司る人々の支えだったということであれば、坂下のこの神社に農業用の神田川の水を管理する番所があったとしても不思議ではない。 あくまでも個人的な推察だが、番屋坂の番屋はそこに由来しているのではないかと思われる。

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2018年6月10日 (日)

いの坂(杉並区和泉)

神田川が削った崖にはいくつもの坂がある。 有名無名本当に数多の坂が、人間の営みと共に何百年、何千年と続いているのがこの武蔵野台地の川沿いの特徴である。位置的には、丸の内線の方南町駅と井の頭線の永福町駅の間にいくつかの名前の付いた坂があるが、いの坂はその最も下流の坂道である。

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坂上には大円寺があり、神田川に架かる一本橋という橋から大円寺に上る坂というのが残っている資料の記述だが、この大円寺は曹洞宗の寺院で薩摩藩島津家の江戸での菩提所である。もともと赤坂の溜池にあったが、廃仏毀釈に加えて島津家の神道改宗により寂れて、この地に移転してきた。

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坂上の大円寺の東側には巨大な和田堀変電所がある。 江戸時代からの寺と、近代文明の象徴ともいえる変電所が並んでいるのはなんとも言えない風景だが、実際は樹木が多いので変電所の裏が山という感じの風景になっている。

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