2017年9月19日 (火)

樹木谷坂(湯島)

湯島聖堂から本郷通りを西に進み、ホテル東京ガーデンパレス手前を右折すると、蔵前橋通りまでの短い下り坂。 距離はわずかだが、樹木谷坂の名の付いた坂道である。 散歩していても見逃してしまいそうな脇道だが、短い坂の途中に説明板がある。

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説明板には、「地獄谷坂とも呼ばれている。この坂は東京医科歯科大学の北側の裏門から本郷通りを越えて、湯島1丁目7番の東横の道を北へ新妻恋坂まで下る坂である。そして、新妻恋坂をはさんで横見坂に対している。
 『御府内備考』には、「樹木谷3丁目の横小路をいふ」とある。(中略) 徳川家康が江戸入府した当時は、この坂下一帯の谷は樹木が繁茂していた。その樹木谷に通ずる坂ということで、樹木谷坂の名が生まれた。地獄谷坂と呼ばれたのは、その音の訛りである。
 なお湯島1丁目の地に、明治14年(1881)渡辺辰五郎氏(千葉県長南町出身)が 近代的女子技術教育の理想をめざし、和洋裁縫伝習所を創立した。その後伝習所は現東京家政大学へ発展した。」と書かれている。

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江戸時代の初期、坂上のこの辺りは桜の馬場と呼ばれた草原だった。 湯島聖堂ができるい以前の話である。今の東京医科歯科大学の辺りである。 現在はビルの谷間の路地の風景。坂下西側にはおりがみ会館がある。 最近孫娘が折り紙に凝っていて、次にこの辺りを歩くときは立ち寄ってきれいな折り紙を入手しようと思っている。

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湯島坂(湯島)

中山道は日本橋を起点にまず北上し、神田を通って昌平橋で神田川を渡る。 橋を渡ってから左折し、神田明神を右に、湯島聖堂を左に見て坂を上って本郷へと向かう。 この坂が湯島坂である。 江戸時代の湯島坂は神田明神の手前で明神の参道の脇の道へ入り、現在の御茶ノ水インホテル裏から再び湯島聖堂前に戻って現在の17号線本郷通りになる。

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写真は神田川にかかる昌平橋。 最初の橋は寛永年間(1624~1644)に架けられた。現在の煉瓦橋は昭和3年(1928)のものである。 橋を渡ったところで川沿いに上るのが相生坂(昌平坂)、その一つ先で左折するのが中山道の筋。 曲がると間もなく上り坂に。 湯島坂である。

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現在は大通りだが、江戸時代は幅も狭く、かなりの急坂だったという。 また以前は柳並木だったという話も聞く。 今は銀杏並木である。 この周辺の文京区と千代田区の区境はとても複雑で、明神の氏子領域の絡みなどいろんな可能性がありそうだが、少なくとも神田明神前で区境がむかしの中山道の路地になっているのは、中山道の名残りと言えそうだ。明治の後半に路面電車を通しているが、神田明神まで張り出していた東京師範学校の敷地を削って、まっすぐな電車道にしたのではないかと推測している。

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江戸時代の湯島聖堂はもっと広くて、今の東京医科歯科大学までが聖堂内だった。その後聖堂の西半分は東京師範学校になり、昭和に入ってから医学校に変わった。 湯島坂の別名は本郷坂、明神坂。 明神と湯島聖堂に挟まれて本郷に向かうのだからどれも間違いではない。

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2017年9月18日 (月)

昌平坂(湯島)

湯島聖堂の脇、秋葉原側の路地が昌平坂。 ただ、相生坂で書いたように、どれが昌平坂かという点では若干の混乱がある。 地形的には湯島聖堂の敷地は本郷台地の東の崖線に沿っており、伊達政宗が掘削した神田川放水路の最下流左岸。 聖堂の東端は7mと低く西端は18mと高い。 敷地内で11mの標高差がある。
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昌平坂の高低差は8mほど。こちら側にも築地塀が続いていて石垣もいい景色になっている。坂上近くに説明板が立っている。
「湯島聖堂と、東京医科歯科大学のある一帯は、聖堂を中心とした 江戸時代の儒学の本山ともいうべき「昌平坂学問所(昌平黌)」の敷地であった。そこで学問所周辺の三つの坂を、ひとしく「昌平坂」と呼んだ。この坂もその一つで、昌平黌を今に伝える坂の名である。(後略)」 と書かれている。
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坂の南端には『古跡昌平坂』という石柱が立っている。 いっぽう北端角には石柱の根元はあるが地面15㎝ほどの所で折れて逸失してしまっている。 折れたのはいつかわからない。 15年前には折れていた。 さらに不思議なことだが、15年前の折れた石柱と今の折れた石柱の場所が違うのである。 向きも違っている。 折れたまま掘り起こして再び埋め戻したようだ。
坂上の大通りは国道17号線本郷通りの湯島坂。  かつての中山道である。
 

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2017年9月17日 (日)

相生坂(昌平坂) (湯島)

御茶ノ水駅の聖橋口を出るとすぐに聖橋が神田川を跨いでいる。 そのまま線路沿いを神田に向かって下る坂と川向こうの湯島聖堂と神田川の間を下る坂を合わせて相生坂と呼ぶ。 江戸っ子は坂が平行に並んでいる場合や、U字型に向こうの坂とこっちの坂で対峙する場合にこの相生坂という名前を付けることが多い。 この坂は別名を持っていて、どちらかというと昌平坂という名の方が通っている。または団子坂と呼ぶ場合もある。

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聖橋から見下ろす相生坂の下には地下鉄丸ノ内線が地下に潜り込むトンネルの入口がある。その下の神田川は徳川家康の命により伊達政宗が台地を切通して流した旧江戸川(神田川)で、縦に複雑に絡んだ歴史が面白い。
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相生坂真上から見下ろすと、湯島聖堂の築地塀(ついじべい)が見事。 どの角度から見ても破たんしない秀逸なデザインで恐れ入る。 築地塀は増上寺や赤坂の報土寺で見られるが、ここの物が一番美しいと思う。
この築地塀は江戸時代の画家もお気に入りだったようで、安藤広重の『名所江戸百景』の中には夏と冬それぞれの昌平橋と昌平坂(国立国会図書館版)がある。 夏版は梅雨時期だろうか、湯島聖堂の築地塀がはっきりと描かれているし、冬版にもやや遠景になるがきちんと描かれている。 広重の絵を見るとこの坂は相当に急な坂だったように見える。
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湯島聖堂は孔子の儒学の振興を図るために徳川五代将軍綱吉が建てた昌平坂学問所である。 江戸時代の大学のようなもの。 関東大震災で倒壊し、今の孔子廟などはそれ以降の建築で、鉄筋コンクリート製である。
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坂下に相生坂の説明板がある。「相生坂(昌平坂)…神田川対岸の淡路坂と並ぶので相生坂という。『東京案内』に、「元禄以来聖堂のありたる地なり、南神田川に沿いて東より西に上る坂を相生坂といい、相生坂より聖堂の東に沿いて、湯島坂に出るものを昌平坂という。 昔はこれに並びてその西に一条の坂あり、これを昌平坂といいしが、寛政中聖堂再建のとき境内に入り、遂に此の坂を昌平坂と呼ぶに至れり」 とある。 そして後年、相生坂も昌平坂と呼ばれるようになった。 昌平とは聖堂に祭られる孔子の生地の昌平郷にちなんで名づけられた。」 と書かれている。
何だか紛らわしいが、相生坂と昌平坂の角に古跡昌平坂という石柱がある。 これもどっちの坂とも取れる位置に立てられているのが困りものである。

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2017年9月16日 (土)

バッケの坂(中井)

落合村中井の最後の坂はバッケの坂(坂上通り)。 この坂もまた新宿区の通称通り名にリストアぷされた坂道のひとつ。 坂下は妙正寺川。 そこから目白学園に沿って上る。 坂上でごりょう坂が出合う。

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坂の標柱には、「この地域の斜面は古くからバッケと呼ばれており、この坂は坂下のへの近道であったため、バッケの坂と呼ばれていた。 大学に向かう道路と思ったが、調べれ見ると明治期からあった道らしい。

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坂上にはごりょう坂通りの標柱があるが、バッケの坂の標柱は下にあるだけである。 バッケというのは崖のことで、武蔵野ではハケ、バッケなどと呼ぶことが多い。 ここでは坂下にある川沿いの運動公園が、昔はバッケが原という野原だったころから、バッケへの近道という意味でついた名前。

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ごりょう坂(中井)

中井御霊(ごりょう)神社の正面に接続するのが八の坂であるのに対して、神社の西側を上るのがごりょう坂。 御霊神社の裏だからごりょう坂という直結命名である。 ただ正面の道ではないところが面白い。

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坂は直線的に西から東へ上ると直角に曲がり北へ上る。 曲がったところが御霊神社のまさに裏手である。 この道が開通したのは、60年代か70年代の高度成長期の頃。 この辺りは東京オリンピックの時代にはまだ開発されていなかった。
Dscn4893角を曲がると再び直線の坂道。 右側の樹木がある部分が御霊神社。 坂上の向こうには目白学園の校舎が見える。 途中には御霊神社の裏階段があるが人ひとりがやっと通れるほどの狭い階段である。
Dscn4894「中井地区の鎮守である御霊神社に面している通りのため、通りにこの名称がついた」と新宿区のHPには記されている。 安産守護子育ての神様とされる。 この神社も台地の際にあることは例にもれず、しかしこの裏道はほんの数十年の歴史のみである。

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八の坂(中井)

番号坂の最後は八の坂。  江古田から南流してきた江古田川は哲学堂の上流で妙正寺川に合流し、妙正寺川は合流点から北東向きの流れを南向きに変える。 その流れが新井薬師のある上高田の台地に阻まれて東流に転ずるが、北側の台地の西端に御霊神社がある。

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八の坂の勾配は隣の七の坂とほぼ同じパターン。 坂上が御霊神社の鳥居脇になる。 しかしこちらは神社からすると裏道脇道で、開通したのも昭和になってからである。 坂上の御霊神社は静かで落ち着く神社である。

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落合村中井の鎮守だけに古い石塔などが本殿の裏手にあったりして、興味深い。 庚申塔には宝暦八年(1758)と刻まれていて、裏のごりょう坂に出る小さな階段がある。 本殿前の狛犬は正徳五年(1715)に下落合村の氏子によって奉納されたもの。 狛犬としては現存するものでは都内最古である。

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坂上からの景色。坂の舗装が一般的な〇窪みのすべり止めでなく、スリットになっているのは珍しい。 個人的には〇よりもこっちの方が好みである。

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七の坂(中井)

七の坂は、文字通り六の坂と八の坂の間で、この坂も東西に走る御霊神社の参道までの坂道である。  大正時代にはなく、この辺りはまだ崖線の林の中だった。 昭和になって、この落合崖線にそって家が建てられるようになり、参道へ接続するこの坂道と西隣の八の坂が開通した。

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七の坂は「しちのさか」ではなく「ななのさか」と読む。 坂下の東側の住宅のブロック塀に古びたブリキ板で「七の坂」と書かれている。 坂は途中の辻から急に勾配を上げる。 この辺りは妙正寺川が川の流れを湾曲させている部分で、川のカーブの内側に当たるため、四の坂辺りよりも傾斜の緩やかな崖線になっている。 おそらく手前の区画は宅地造成時に多少削ったのだろう。

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坂上から見下ろすと、坂下は接続道路の向こうが即西武新宿線。 積雪時にスリップするとそのまま線路に突っ込みそうである。 坂上はふたたびなだらかになり丁字路になる。

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坂上の民家にある白樫の樹に町会で作ったブリキ看板が巻いてある。 七の坂「上」とある。 これは昭和35年頃に町会が坂名を付けてから設置されたもので、この町会の坂に対する愛着が伝わってくる。

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六の坂(中井)

六の坂は明治以前からある道。  五の坂と同様だが、不動谷から前谷戸を経由して御霊神社へ向かう台地の上の道から妙正寺川の低地へと多くの人が上り下りしてきた。 明治初期の地図では、五の坂周辺が茶畑で、六の坂周辺は普通の畑と描かれている。 家は坂上の台地の道にしかない。

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坂下は東側角の家のガレージ脇にある、昔町内会で設置した手書きの坂名板があって、落書きにイジメられながらも健気に残っているのがうれしい。 緩やかに曲がりながら高度を上げていくいかにも昔からの道っぽいところがいい。

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坂上西側は中井御霊神社の参道の東端。 細い石塔が建つ。 御霊神社は「ごりょうじんじゃ」と読む。創建は不明で、古くから落合村中井の鎮守であった。 こういう村の神社は人の営みが始まった頃から続くものが多く、東京都内にも数多あるが、創建が不明なものが意外に多い。

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五の坂(中井)

五の坂は傾斜、景色、曲がり具合ともに特出したものがない坂ではあるが、大江戸線中井駅と坂上の目白大学を結ぶ最も短いルートの一つのため、学生(主に女子大生)が歩く坂になっている。 こういう坂は写真を撮りにくい。

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昔、町会で設置したブリキの看板が民家の壁にひっそりと残っている。 これが残っているのは、五の坂、六の坂、七の坂の3坂だけになってしまった。その中でも五の坂のこの残り方がもっとも心に残る。 この民家は「亜細亜電機製作所」と玄関に古びた表札風の木板があって、まさに戦後日本の生き残りという感じがするのだ。

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坂上の民家には大谷石の石垣と板塀、植木と土手というこれもまた素敵な景色がある。 坂道は道だけでなく、そこに立ち並ぶ建築物の景色がその魅力に加算される。 昭和ノスタルジアに惹かれやすいという私の世代的な志向もあるだろうが、こういう道はやはり歩いていて楽しいうえに落ち着くのである。

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