2017年8月18日 (金)

地蔵坂(牛込)

早稲田通りは西進すると、牛込天神町で不思議なクランクをしている。右折すると江戸川橋通りとなり江戸川橋を渡って音羽に向かう。 このクランク、実は江戸時代からクランクだった。南側は小浜藩上屋敷、クランクの周りは御先手組の組屋敷で、江戸川橋通り側は天神町という町家の一角だった。

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これだけの大通りがその地形を消し去れないという事に、心の底からウフフと笑いたくなる心地よさがある。 ここから西は天神町である。クランクの所に標柱がある。「江戸時代後期、小浜藩酒井家下屋敷(現在の矢来町)の脇から天神町へ下る坂を地蔵坂と呼んでいた(『砂子の残月』)。坂名の由来は定かではないが、おそらく近くに地蔵尊があったものと思われる。」 ・・・あれ?切絵図では酒井家の上屋敷になっているけど?

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坂の別名を三年坂という。 酒井家上屋敷は土手を築いていてうっそうとした道で辻斬りや追剥が出没した。 おまけに当時は急坂で、この坂で転ぶと三年以内に死ぬと言われた。辻斬りだと三年ではなく即日死ぬだろうとは思うのだが。

寛永10年(1639)に大火で江戸城本丸が炎上した時、徳川家光はこの酒井家屋敷に避難した。その時の警護に仮の囲いとして槍を立てて囲んだ(これを矢来という)。 それ以来酒井家では屋敷を竹矢来で囲むのを習わしとしたという。 それが矢来町の町名の由来である。

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2017年8月17日 (木)

比丘尼坂(矢来町)

朧の坂から2本先の路地。 坂下からくる場合は赤城坂のクランクの交差点を西へ進む。 銭湯の金成湯(きんせいゆ)まで行くと行き過ぎで、その1本手前を早稲田通りに向かって上るのが比丘尼坂である。

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坂の傾斜は緩やか。 途中クランクになるが、江戸時代は御先手組の屋敷(今でいう公務員団地のようなもの)が建ち並んでいたようである。かつては坂下に標柱があったらしいが、十数年前からなくなってしまったようである。坂名の由来が書かれていて、「このあたりに比丘尼坂が住んでいたという。比丘尼姿の私娼が住んでいたのではないかとの説もあるが、特にに根拠はない。」と書かれていたと道家氏の書には書かれている。

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クランクから早稲田通りまでの間は細路地。訪問時は路地の入口の水道工事屋さんがトラックを駐車しっぱなしにしていて車は通れない状態になっていた。 トラック脇を抜けて早稲田通りへ出る。 早稲田通りの向かい側は江戸時代は小浜藩酒井若狭守の上屋敷があり、庭には大きな池があった。 その庭は築山山水式の名園。 池は明治の終わりまで残っていた。

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2017年8月16日 (水)

朧の坂(矢来町)

この坂は謎の坂である。 坂関連の文献の多くは隣りの比丘尼坂の別名を朧坂としているが、坂学会会長の山野氏のみが矢来町のこの道を朧の坂と明言している。 早稲田通りからは赤い壁が目立つシーフード料理店と書店の間の道で、すぐに下り坂になる。

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山野氏によると、神田川を挟んで北側の小日向台地の服部坂からこの朧の坂を眺めるとぼんやりとかすんで見えたらしい。それがこの坂の名前の由来のようだ。

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短い坂だが、江戸時代にそう呼ばれていたかどうかはわからない。 坂下より先は階段になっており、民家に入っていく。 この坂の場所は神楽坂の善国寺にある案内地図に明記されている。

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2017年8月15日 (火)

赤城坂(神楽坂)

神楽坂上は寺の立ち並ぶ街並みであった。 もちろん江戸時代の話である。 その先をひとつ入ったところが赤城神社である。 地蔵坂のところでも書いたが、神楽坂上には室町時代大胡氏(のちの牛込氏)の城があった。 その大胡氏は赤城山麓の豪族で、1300年頃というから鎌倉時代の末期、群馬の大胡からここに移住した。 今も赤城山の麓には大胡という町がある。

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江戸時代には徳川幕府によって「日枝神社」「神田明神」と共に「江戸三社」と称され、牛込の総鎮守として多くの氏子を抱えていた。 ただ平成になって社殿を建替え、とてもモダンになったのには賛否ありそうだ。 その赤城神社の西脇を神田川に向かって下るのが赤城坂である。

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長い坂で、途中クランクしてさらに下っていく。 クランクの所には赤城神社の西参道がある。 裏参道というよりも勝手口のように周辺の氏子さんが階段を上って行く。 ここにある加賀屋(もつ料理屋)はいつか入ってみたい雰囲気の居酒屋だ。

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坂の標柱には次のように書いてある。 「赤城神社のそばにあるのでこの名がある。『新撰東京名所図会』によれば、「・・・峻悪にして車とおすべからず」とあり、かなりきつい坂だった当時がしのばれる。」

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坂は長い下りで、200mほどあり、高低差は18mある。 坂をそのまま進むと神田川にかかる石切橋になるが、この石切橋は江戸時代からある橋である(もちろん架け替えてある)。 坂下のセブンイレブンの手前から赤城神社裏の切れ落ちた崖を望むことができる。 地形図で計測すると崖の高さはおよそ16mある。 都心にある見られる崖の一つである。

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2017年8月14日 (月)

瓢箪坂(飯田橋)

白銀公園の南の角から下り、大久保通りに向かう短い坂道が瓢箪坂である。 大久保通りに直接接続はしていないが、大久保通りが開通したのは明治時代なので、瓢箪坂というのは明治以前に付けられた名前だと思う。

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坂上の白銀公園は江戸期は水戸藩家老中山氏の屋敷。 そして坂の周りはいくつもの寺があった。 今は安養寺1軒のみ。坂下の行元寺(今はない)門前町には東京松屋本店(和菓子店)、奈良にて創業160年を誇る吉野葛の菓子店があり、今は路地裏にひっそりと残る。神楽坂上交差点の先には江戸初期から続く相馬屋源四郎商店(和紙問屋)があり、創業年度は万治2年(1659)とある。

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坂の標柱には、「坂の途中がくびれているため、その形から瓢箪坂と呼ばれるようになったのであろう。」とだけ書いてある。 瓢箪坂下のまるで家の中に入るような路地を抜けると、第三玉の湯という銭湯にポンと出る。 ここは深夜1:30までやっていて、新宿区で最も遅くまで開いている銭湯である。

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2017年8月13日 (日)

相生坂(飯田橋)

相生坂と呼ばれる坂は、並行か向かい合うかいずれにせよ二つの坂が対になっている場合に名付けられる。 東五軒町から白銀町に向かって上る並行した2本の坂が、ここでは相生坂と呼ばれている。

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まずは東側の坂。 南に向かって上る。 坂の上部の傾斜が急になっている。 坂上のさらに1本先には白銀公園がある。この坂上は江戸時代、水戸藩家老の中山備前守の上屋敷だった。

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坂の向こうに見えるのは、私たち世代が子供のころから親しんできたゼブラ株式会社の本社である。創業は明治30年というから120年前。 100年以上続く会社というのは尊敬に値すると思う。 これまでに何本ゼブラのボールペンやシャープペンシルを使っただろう。

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西側の相生坂は少し曲がりながら上って行く。 坂下に門前にお地蔵さんを配した真清浄寺がある。 私の場合、立派な寺院よりも、そのわきにあるお地蔵さんに興味がある。

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坂上はこちらの坂も勾配がきつくなる。 坂の途中の標柱には、「『続江戸砂子』によると「相生坂、小日向馬場の上、五軒町の坂なり。二つ並びたるゆえの名也という」とある。また、『新撰江戸志』では鼓坂と見え、「二つありてつづみのごとし」とある。一方、『御府内備考』『東京府志料』では、坂の由来は、神田上水の対岸の小日向新坂と南北に相対するためであると記されている。」と書かれている。 ただ小日向の坂で相対する坂はなく、一番近いのが荒木坂。 なので後半の記述は何かの間違いが残ったものだろうと思う。

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2017年8月12日 (土)

芥坂(飯田橋)

芥坂(ごみざか)という坂名は多い。江戸時代の街の恥部と言える。坂があるとその崖下にゴミを捨てる。芥坂は坂の途中に崖がありゴミを投棄するのに持って来いだった。しかし無法地帯ではなく、その町内の負担でゴミは定期的に船着き場まで運ばれ、江戸湊の埋立に使われた。この歴史は今も変わらず、中央防波堤の埋立は江戸時代と同じことをやっているわけである。

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筑土八幡境内から神楽坂方面へ降りるのが御殿坂ならば、小石川を目指して神田川(江戸時代は江戸川と呼ばれた)に下るのが芥坂である。昔はもっと狭い静かな坂だったが、マンション建設が進んで明るい坂になった。

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坂下から見上げると、筑土八幡神社の社殿が見える。 江戸時代は武家屋敷が並ぶ中に、筑土八幡と萬昌院があったが、萬昌院は1914年(大正時代)に中野区に移転までここにあった。

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2017年8月11日 (金)

御殿坂(飯田橋)

神田川と外濠(旧紅葉川)の出合いが飯田橋の交差点。 JR飯田橋駅東口を下りてすぐに澱んだ神田川支流の流れを見つつ五差路を渡る。 以前の東京厚生病院はJCHO東京新宿メディカルセンターと名を変えて独立行政法人病院となっている。 その先に再び五差路が現れるがこれはできたばかりの道路で東京ドーム裏に繋がっている。 この五差路が牛込台地の東の端で、そこには筑土八幡神社がある。

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江戸名所図会を見るともっと下から参道があったようだが、町に埋もれてしまい最後の部分のみが参道の階段として残っているようだ。神社の階段を登り境内を左に抜けると、南に下る坂。 これが御殿坂である。

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坂の標柱には、「江戸時代、筑土八幡神社の西側は御殿山と呼ばれ、寛永の頃(1624~1644)三代将軍家光が鷹狩りの際に仮御殿を設けたという。坂名は御殿山に因む。」とある。 またそのあとの慶安年間(1648~52)後に四代将軍になる家綱が、大納言時代にこの丘陵に牛込御殿を作りそれが御殿山の由来という説もある。

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坂下には酒問屋と氷店があってちょっと昭和っぽい。 この半島の突端地形は江戸時代以前も特異な地形であったようで、ここには筑土城があった。築城したのは上杉氏と言われるが、太田道灌という説もあり、さすがに江戸以前の歴史はわからない点が多い。 とはいえ地形的には、ここから眺めると、小石川台地、本郷台地、江戸城、江戸湊が一望できたはずである。

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2017年8月10日 (木)

軽子坂(飯田橋)

私が上京したのは1975年。宇崎竜童率いるダウンタウンブギウギバンドが売れっ子になり、使い捨てライターのチルチルミチルが売れまくった。この年新幹線が岡山から博多まで延伸したので、実家の山口県から7時間ほどかけて上京した。 東京に来て驚いたのは300円くらいで名画が見られることで、ここ飯田橋のギンレイホールも時々訪れたものだった。

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このギンレイホール前の坂が軽子坂である。 軽子とは軽籠と書く人足が荷を詰めて運ぶ道具である。 この辺りにはそういう労働者が沢山住んでいたのでそう呼ばれたようだ。 坂の標柱には、「軽子とは軽籠持の略称である。今の飯田橋にはかつて船着き場があり、船荷を軽籠に入れ、江戸市中に運搬することを職業とした人がこの辺りに多く住んでいたことからその名が付けられた。」とある。

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真っすぐなごく普通の坂だが、そういう江戸時代の風景を想像できるところが魅力だろう。坂下の外堀通りを渡った飯田橋駅側に牛込揚場の説明碑がある。

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2017年8月 9日 (水)

三年坂(神楽坂)

神楽坂善国寺から少し下ったところから筑土八幡神社に下るのが三年坂である。 通常三年坂は寺や墓地があるものだが、ここの坂にはない。 この坂で転ぶと3年以内に死ぬという伝説から名付けられている。

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この坂の別名は本多横丁。 通りに坂名の標柱はないが、本多横丁の説明板があった。この坂よりも東側が本多氏の屋敷だったことに由来するとある。 坂自体はまっすぐで緩やかなので、魅力は少ない。 ちなみに江戸切絵図には筑土神社に出る手前に西照寺があったようだ。その墓地が名前の由来かもしれない。

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この本多横丁(三年坂)からはいくつかの魅惑的な路地に入ることができるが、今回は三年坂の話なのでまた別の機会に詳しく書きたい。

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