2017年10月20日 (金)

堀坂(宮内坂)

富坂のある春日は昔から交通の要所だった。東西に春日通りが、南北に白山通りが走る。その北西側、大塚へ伸びる道は昔は谷端川(やばたがわ)だった。豊島区要町を源頭に椎名町まで南下したかと思うと、急に北に流れを転じ池袋の北の下板橋まで、そこからまた流れを南に急転し大塚駅を横切り、小石川から春日そして後楽園を突っ切り神田川に流下した。 現在は暗渠になっている。

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小石川の坂はほぼこの谷端川が武蔵野台地を削ってできた地形による坂である。 富坂もそうだし、この堀坂も同様だ。 堀坂の別名は宮村坂(くないざか)、源三坂。 まっすぐに伸びた坂で、いかにも切り開いた感じがする。 坂の途中に説明板がある。

「堀坂は中富坂町の西より東の方。すなわち餌差町に下る坂をいふ。もと其の北側に堀内蔵助(ほりくらのすけ)2,300石の邸ありしに因れり。今坂の中途に〝ほりさか″と仮字にてしるしたる石標あり。此坂は従来宮内坂または源三坂と唱へたるものにて。堀坂といへるは其後の称なりといふ」(『新撰東京名所図会』)

この場所の北側に旗本堀家の分家利直(のちに利尚、通称宮内)の屋敷があったことから、この坂は別名「宮内坂」と名づけられた。また、当時の名主鎌田源三の名から「源三坂」ともいわれた。「堀坂」という名称は、文政(1818~30)の頃、堀家が坂の修復をして「ほりさか」と刻んだ石標を建てたことからいわれるようになった。 坂下にこんにゃくえんまの伝説で名高い「源覚寺」がある。

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こんにゃくえんまは面白い名前だが、宝暦(1751~1763)の頃、眼病の老婆が願を掛けたところ、閻魔が自分の片目を与えた。 老婆は好物のこんにゃく断ちをしてそれを供え続けたという伝説が面白い。

ここには元禄3年(1690)の釣り鐘があり、汎太平洋の鐘と言われている。 戦争に際して鉄砲玉用にサイパンに供出されたが、その後米国のテキサス州にあることがわかり、サンフランシスコ祭りに展示されたのちに源覚寺に戻ってきたものだ。

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都会の路地裏のような寺だが参詣客は多い。 この近くにはもう一つ興味深い神社がある。 小石川大神宮だ。 まるで古いマンションの駐車場の入口のような神社。

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ビルの裏に社殿がある。 創建は昭和41年。 私よりもずっと若い。 神社って作れるのかと、とても不思議に感じた。 伊勢神宮の分社のような位置づけで、異例の出来事で創建されたようだ。 さすが八百万の神の国である。

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2017年10月19日 (木)

富坂(西富坂)

春日駅は谷合いの立地である。 東富坂(真砂坂)から下ってきた春日通りは、文京区役所を過ぎると上りに転じる。 区役所の前で東西を眺めるとどちらも上り坂。 昔の富坂は地下鉄丸ノ内線脇を下り(旧東富坂)、今の区役所辺りから礫川公園を通り、中央大学前のカーブで現在の道筋に繋がるのが昔の道筋だ。

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礫川公園前に説明板が立っている。

「とび坂は小石川水戸宰相光圀卿の御屋敷のうしろ、えさし町より春日殿町へ下る坂、元は此処に鳶多して女童の手に持ちたる肴をも舞下りてとる故とび坂と云」と『紫の一本』にある。鳶が多くいたので鳶坂、転じて富坂となった。

また春日町交差点の谷(二ヶ谷)をはさんで、東西に坂がまたがって飛んでいるため飛坂ともいわれた。そして、伝通院の方を西富坂、本郷の方を東富坂ともいう。 都内に多くある坂名の一つである。

この近く礫川小学校裏にあった「いろは館」に島木赤彦が下宿し、〝アララギ″の編集にあたっていた。

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坂上から眺めるとバブリーな文京区役所の形が独特である。 区役所、礫川公園、東京ドーム、後楽園ゆうえんちを含む南の一帯は、関東大震災辺りまで砲兵工廠(ほうへいこうしょう)だった。 ここで陸軍の武器を製造していたのである。 ドームや遊園地で楽しむ人々はそのことを九分九厘知らないだろう。

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2017年10月18日 (水)

曙坂(白山)

福山坂下から富士見湯の前を進み最初の路地を右に入る。 路地は石垣に突き当たり北に向きを変える。 見事な本郷台地の崖である。 崖の高さは10m以上ある。間もなく東側に階段坂が現れる。 曙坂である。

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坂下の石碑は一見古そうだが、昭和22年とある。 この坂も戦後復興で整備された坂なのだろうか。 昔の写真を見ると土がむき出しになり、1m間隔で石の雁木が敷かれた坂だったようだが、その後今のコンクリート坂に改修された様子。 関東大震災前の地図をみるとこの道は既に開かれている。当時は凄い坂だったに違いない。

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坂上の説明板には次のように書かれている。 「『江戸砂子』によれば、今の白山、東洋大学の北西は、里俗に鶏声ヶ窪(けいせいがくぼ)といわれるところであった。 明治2年(1869)に町ができて、鶏声暁にときを告げるところから、あけぼの(暁と同じ)を取り町名とした。 この坂の場所と、旧曙町、鶏声ヶ窪とは少し離れているが、新鮮で縁起の良い名称を坂名にしたのであろう。

この坂は西片と白山を結び、人々の通学や生活に利用されてきた。 昭和22年(1947)には旧丸山福山町・曙会の尽力により石段坂に改修された。」

別名は徳永坂。 その由来はわからない。 坂上を北に進むと、誠之館(せいしかん)跡がある。福山藩が江戸詰めの藩士の子弟のために設けた藩校で、現在も誠之小学校(区立)として続いている。小学校としての歴史は140年だが、藩校は1855年の開校なので、さらに22年ほど前からここは学び舎だったわけだ。

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2017年10月17日 (火)

福山坂(新坂)

福山坂の辺りは、江戸時代は福山藩阿部家の中屋敷で、福山坂は江戸時代には存在していない。 明治時代に開かれた坂である。 明治になって1万坪を残して5万坪を貸したというが、明治初期の地図を見ても残された庭の一辺が200mほどもある屋敷である。
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坂の途中の説明板には、「『新撰東京名所図会』に、「町内(旧駒込西片町)より西の方、小石川掃除町に下る坂あり、新坂といふ」とある。この坂上の台地にあった旧福山藩主の阿部屋敷へ通じる、新しく開かれた坂ということで、この名がつけられた。また福山藩に因んで、福山坂ともいわれた。新坂と呼ばれる坂は、区内に六つある。
坂の上一帯は、学者町と言われ、夏目漱石はじめ多くの文人が住んだ。西側の崖下一帯が、旧丸山福山町で、樋口一葉の終焉の地でもある。」と書かれている。
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坂下の十字路に椎の木稲荷がある。福山邸の庭にあったという椎の木は高さ12m、幹回り6mの見事な大樹だったというが、戦災で焼けてしまった。
坂下の椎の木の前の道には江戸時代には川が流れていた。明治になってからもこの川は開渠で、今の白山駅辺りから流下していた。そういう場所にはかなりの確率で銭湯があるものだが、ここも例にもれず富士見湯という素晴らしい外観の銭湯がある。先代のオーナーが大正期に買い取った銭湯らしい。文京区ではここだけが番台を残している。とはいえ文京区に残っている銭湯は6湯っきりになってしまった。
 

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2017年10月16日 (月)

石坂(西片町)

文京区西片一丁目、昭和40年までの旧町名は田町。俗にいう丸山に属し、古くは菊坂田町と称した。一帯は昔、田畑と菊畑であったので菊坂田町。寛永5年(1628)御中間方拝領地となり、元禄9年(1696)頃町屋が開かれた。この田町という旧町名は白山通り西片から菊坂下までの狭い地区の地名である。そこから備後福山藩中屋敷のある台地に上って行く坂が石坂である。

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坂の途中に説明板がある。「町内より南の方(かた)、本郷田町に下る坂あり、石坂とよぶ」『新撰東京名所図会』この坂の台地一帯は、備後福山藩(11万石)の中屋敷を幕府の御徒(おかち)組、御先手組の屋敷であった。

明治以降、東京大学が近い関係で多くの学者、文人が居住した。田口卯吉(経済学者・史論家)、坪井正五郎(考古学・人類学者)、木下杢太郎(詩人・評論家・医者)、上田敏(翻訳者・詩人)、夏目漱石(小説家)、佐佐木信綱(歌人・国学者)、和辻哲郎(倫理学者)など有名人が多い。そのため西片町は学者町といわれた。

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福山藩阿部家は明暦の大火の別説の火元の老中屋敷である。明治になってから6万坪の屋敷の内、1万坪を自宅に残して、後を貸地として公開した。それで学者たちが平均百坪程度づつ借りて住むようになった訳である。

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2017年10月15日 (日)

金魚坂(本郷)

本郷菊坂の坂上近くにある路地。 一見すると、戦後金魚屋が適当に付けた坂名のように見えるが、実はさにあらず。 歴史ある金魚屋で、坂名も江戸末期からあるものなのである。

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2016年に訪れた時、菊坂側は更地になっていた。 この土の面の段差は江戸期からの土地の記憶である。 段になって坂奥が高くなっていく。 2017年に再訪すると、さすがにこの更地はビルになってしまっていた。

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坂奥の金魚屋は健在。 何せ本物の老舗である。

金魚坂(旧 吉田晴亮商店)の創業は1854〜1859年頃 (安政年間)。元は、吉田晴亮商店を名乗った金魚・錦鯉の専門問屋。現在では、魚料理やカレーを出すカフェや、金魚すくいができる釣り堀などを併設。金魚のテーマパークのような憩いの場となっている。

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この金魚屋、自称では創業350年とうたっている。 しかし金魚は古くから日本の文化として、庶民の間に浸透してきた。 店を構える前に行商を代々やっていた可能性は否定できない。 現金魚屋女将は7代目という。 それから計算するとやはり、江戸末期が適当だろう。 しかしここもいつまでも頑張ってほしい老舗の一つである。

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菊坂(本郷)

本郷の菊坂は東京でも有名な坂の一つ。 中山道であった本郷通りから西片近くの菊坂下までは650m、坂上標高20m、坂下は9mで11mの高低差の緩やかな坂道である。 この坂は川が本郷台地を削った谷筋で、関東大震災前の地図には本妙寺坂の先まで開渠になっている。 坂上本郷通りの別れの橋跡はこの川がまだ加賀藩上屋敷(現東京大学)から流れていたころに掛かっていた橋の名である。

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菊坂下に入って最初の路地が胸突坂だが、本来は胸突坂が菊坂であった。 しかし、江戸時代以降菊坂町という町名になってからはこの菊坂町筋が菊坂と呼ばれるようになっていった。 この菊坂を中心にいくつもの坂が合流している。 また、南側に並行する暗渠筋の路地(菊坂下道)との間には落差があり、いくつもの魅力的な階段道が通されている。

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少し坂を上ると蔵が目に入る。 樋口一葉(1872~1896)が菊坂の家に住んでいたときから、生活が苦しくなるたびに通った質屋で、彼女が下谷区竜泉町に移ってからも通ったという伊勢屋質店の跡だ。 この少し先には宮沢賢治の旧居跡、北側の梨木坂には田宮虎彦、
本妙寺坂辺りには石川啄木が住んでいた。

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菊坂の説明板は坂の途中の長泉寺の入口にある。 入り口は狭いが奥は広い墓所が広がり、本妙寺坂上からも入ることができる広い寺である。 入り口脇の菊坂の説明板には次のように書かれている。

「此辺一円に菊畑有之、菊花を作り候者多住居仕候に付、同所の坂を菊坂と唱、坂上の方菊坂台町、坂下の方菊坂町と唱候由」(『御府内備考』)とあることから、坂名の由来は明確である。今は、本郷通りの文京センターの西横から、旧田町、西片一丁目の台地の下までの長い坂を菊坂と言っている。また、その坂名から樋口一葉が思い出される。一葉が父の死後、母と妹の三人華族の戸主として、菊坂下通りに移り住んだのは、明治23年(1890)であった。今も一葉が使った掘抜き井戸が残っている。

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坂上本郷三丁目付近はいささか雑居感が強くなり、江戸風情はなくなる。 昔の菊坂は菊坂下から半分くらいまでを言ったようだ。 ただし文豪の様々な説明板はこの坂上まで街路灯などに設置されていて、それを目的にした散策グループも多い。

菊坂辺りは空襲で焼けなかったところが多く、その為古い民家がまだ残っていたりするが、さすがに戦後70年を超えてそろそろ再開発の波が押し寄せてきている。 本妙寺坂の赤心館に住んでいた石川啄木が生活苦に死を考えていた時、金田一京助が彼を援助して引っ越させた蓋平館(のちの旅館大栄館)もマンション化のため崩されてしまった。

菊坂界隈の魅力を味わえる残りの時間はそう多くないかもしれない。

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本妙寺坂(本郷)

徳川家康が全国を平定してから半世紀、江戸の町は安定した平和な街になっていた。 江戸に攻め入る大名は最早皆無で、戦国時代から安土桃山時代を経てついに日本に平和が訪れた時期でもあった。 しかし、人間の敵は人間のみにあらず、明暦3年(1657)3月、歴史上最大の都市火災に見舞われることになった。 これが世にいう明暦の大火である。火元については諸説あるが、もっとも知られているのが本郷丸山の本妙寺出火説だ。

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菊坂と交差して北も南も坂になっているこの道が本妙寺坂。 電柱に長泉寺の案内があるが、江戸時代はこの坂上に本妙寺と長泉寺の二つの大きな寺があった(本妙寺は現在豊島区巣鴨に移転)。 この北側の坂を上ると、東側のプラウド本郷の前に説明板がある。

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本妙寺には遠山の金さん(遠山左衛門尉影元)や幕末の剣豪千葉周作らの墓所があった。 諸説があって本妙寺火元説はかなり怪しくなっているが、振袖火事の別名を持つこの本妙寺説が物語としては庶民に受け入れられやすいためにこの説が主流になったのではないだろうか。

麻布の裕福な質屋の娘、梅乃が墓参に本妙寺に来た帰り、上野の山で出会った美少年に一目惚れした。 梅乃は寝ても覚めても少年のことが忘れられず、寝込んでしまう。 両親は不憫に思い、少年が着ていたのと同じ柄の振袖をしつらえ、梅乃はそれを抱いて死んでいった。 両親は娘の棺にこの振袖を掛けて本妙寺に葬った。

当時はこういうものは寺男たちがもらっていいことになっていて、転売され上野の町娘キクのところに。 ところがキクも間もなく他界し、再び御棺に振袖はかけられ、元の本妙寺に葬られた。 本妙寺の寺男たちはさすがに因縁を感じ、寺で焼いて供養しようととすると、この振袖が燃え上がりながら空に舞い上がり、寺を焼き尽くした。 折から季節風の強い冬のことで、あっという間に江戸中に延焼し、外堀の内側のほとんど、江戸城も含めて焼き尽くしたという話である。

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菊坂は谷筋である。 しかも北西から南西に切れこんだ谷。 山釣り人は谷を駆ける風をしばしば経験するが、冬の季節風の時期、谷を駆けのぼる風が吹いていたのだろう。また別説の一つに、菊坂下の北側にあった老中阿部家の屋敷が火元だったが、老中の阿部家が火元となると幕府の威信に関わる為、本妙寺が罪をかぶったというのがある。 こっちのほうが正しいのではないかと(私は)思っている。 その証拠に、本妙寺は取り潰しにならず、幕末まで優遇されたという事実がある。

南側の坂の途中に本妙寺坂の説明板がある。「この坂は、本郷の台地から菊坂へ下っている坂である。菊坂を挟んで真向かいの台地にには(現在の本郷5-16あたり)かつて本妙寺という法華宗の寺があった。境内が広い大きな寺で、この寺に向かって下る坂であったところから本妙寺坂と呼ばれた。 本妙寺は明暦の大火(振袖火事・明暦3年-1657)の火元として有名である。明治43年豊島区巣鴨5丁目に移転した。」

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今、江戸城跡(皇居)に天守閣がないのは、この明暦の大火以降再建されなかったからである。 明暦の大火は江戸の三分の二を焼き尽くし、3万人近い死者を出したが、これ以降江戸幕府はさらに安泰となり、数十年後の元禄時代には江戸文化が最盛期を迎えた。

昔は天変地異などがあると年号を変えることが多く、明暦の大火のあと、明暦は天皇の崩御とは関係なく万治に変更された。 どうせ西暦を使う時代なのだから、昔のようにフレキシブルに政府も対応すればいいのだと思う。 平成は東日本大震災の時に変更され新しい年号になっていれば世の中ももっと違ったのではないかと思う。 最も当時の菅政権にはひっくり返ってもできなかっただろうことも事実ではある。

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炭団坂(本郷)

樋口一葉旧居跡の路地に入る菊坂に閉口した路地を南東に歩く。  菊坂との間には3m近い段差があるので、所々に階段道がある。 梨木坂向かいの細い階段の先に、宮沢賢治旧居跡の階段がある。 その10mばかり手前に南に入っていく細い路地がある。 これが炭団坂への入口だ。

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車は通れないと思っていたが、以前散歩した時炭団坂下に軽自動車が止まっていた。 よくこの路地に入ったものだ。 昔は菊坂の谷は菊坂町、坂上は真砂町と呼んだ。 真砂町は寛永(1624~1644)以来、真光寺門前と称して桜木神社前の一部だけが町屋であった。 明治になって武家屋敷町だった真砂町は多くの民家に変わっていった。 真砂町は昭和40年に本郷4丁目に改名されてしまったが、やはり真砂町の方がはるかにしっくりくる。

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路地の奥まで進むと昭和風の門構えのところから階段になる。 これが炭団坂。 別名を初音坂という。 この辺りは昔は樹木が鬱蒼としており、鶯やホトトギスの声が菊坂の谷間に聴こえていた。 それで初音坂となったようだ。 炭団坂の坂上を真っすぐに進むと建部坂に繋がる。 建部坂も別名を初音坂という。

坂の途中にある説明板には次のように書かれている。「本郷台地から菊坂の谷へ下る急な坂である。名前の由来は「ここは炭団などを商売にする者が多かった」とか「切り立った急な坂で転び落ちた者がいた」ということから付けられたと言われている。台地の北側の斜面を下る坂の為にジメジメしていた。今のように階段や手すりがない頃は、特に雨上がりには炭団のように転び落ち泥だらけになってしまったことであろう。この坂を上り詰めた右側の崖の上に、坪内逍遥が明治17年(1884)から20年(1887)まで住み、「小説神髄」や「当世書生気質」を発表した。」

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坂上には坪内逍遥の説明板もある。逍遥は自宅を「春廼舎(はるのや)」と呼び、当時は「春廼舎は東京第一の急な炭団坂の角屋敷、崖渕上にあった」とされているので、まさにこの手摺りの向こう側が坪内逍遥の家だったわけだ。 逍遥宅はその後明治20年には伊予藩主久松氏の育英事業として、「常磐会」という寄宿舎になった。俳人正岡子規は翌年からここに入り、その他多くの俳人が集まった。 子規の詩に次のような句がある。

ガラス戸の外面に夜の森見えて清けき月に 鳴くほととぎす (常磐会寄宿舎から菊坂を望む)。 まさに上の写真の場所から明治初期の菊坂の風景を望んだとき、この谷は自然あふれる谷だったのであろう。

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2017年10月14日 (土)

梨木坂(本郷)

梨木坂、別名を梨坂という。 菊坂の途中北側に上る路地の坂道である。 入口両脇には時代を忘れたように、リヤカーと道路にはみ出した植木があり、江戸の坂道の雰囲気を盛り上げている。 前に来た時にはリヤカーはなかったので、たまたまかもしれないが、今時リヤカーが置いてあるだけで昭和へワープしてしまいそうである。

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坂上近く、天理教手前に説明板が立っている。 「梨木坂は菊坂より丸山通りなり。むかし大木の梨ありし故坂の名とす」と『御府内備考』にある。また、『南向茶話』には、「戸田茂睡(『紫一本』の著者、1629~1706)という人が、この坂のあたりに住んでおり、梨本と称した」とある。
 いっぽう、江戸時代のおわり頃、この坂のあたりは、菊の栽培が盛んで、菊畑が広がっていたが、この坂のあたりから菊畑がなくなるので、「菊なし坂」といったという説もある。戦前まで、この近くに古いたたずまいの学生下宿が数多くあった。

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坂上は胸突坂の坂上に出合う。 この坂の西側は崖になっていて、途中の民家がかつて使ってたであろう急な階段が残っている。 しかし坂上は平凡な印象。 やはりこの坂は坂下からの眺めがすべてである。 坂下の菊坂の向かいに魅力的な階段路地が、菊坂に並行する川跡の道に繋がっている。

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