2018年1月22日 (月)

なべころ坂(中目黒)

面白い坂名である。 目黒川右岸の中ではこの辺りが最も崖線の傾斜が急である。祐天寺の北側から続く狭い道があるが、これは庚申道といって古くからある尾根筋の道。 この尾根を作ったのは、目黒川とその支流で、祐天寺の裏から流れていた谷戸前川。 田道の南に尾根筋を巻くように現在も谷戸前川緑道が暗渠で通っている。この尾根筋から下るのが、この周辺の坂道である。

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なべころ坂は以前に東京ガスの大きなタンクがあった場所にできたマンション群の脇を下る。 最近の坂のようだが、ここには江戸時代からある坂道。 坂の途中に説明板がある。

「昔は鍋がころがるほどの急坂であったので、なべころ坂とよぶようになったといわれる。また、道に粘土が露出した状態を、方言で「なべころ」といったことから、坂名になったともいわれる。」

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確かにかなりの急坂である。 高低差は18mほどある。 私は渓流釣りをするのだが、山岳渓流の下り杣道で赤土がむき出しになっていると簡単に転んでしまう。 さぞかし難儀だったのだろう。坂の両側は昔は林で、坂下は田道耕地と言われる農地だった。

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坂上のなべころ坂緑地公園の一角に庚申塚がある。 この2基の庚申塔は古くから「藤の庚申」と呼ばれ、昔はここに藤の大木があった。 現在は新しい藤の木が育っていて、塚の屋根の上が藤棚になっている。 2基の庚申塔は、左が貞享元年(1684)、右が元禄元年(1688)の年号がある。

この道は目黒不動と宿山を結ぶ古い道で、あちこちに庚申塔が立っている歴史ある道なのである。

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けこぼ坂(けころ坂)

中目黒の駒沢通りの坂。 坂下は山手通りとの中目黒立体交差、すぐに上り坂になり中目黒小学校の辺りまで坂になっている。  当時目黒区役所は千代田生命本社だったが、1966年まではアメリカンスクールだった。関東大震災以前は山林で、震災後急に民家が建つようになったようである。

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目黒区役所の前に東京都の説明板があるが落書きで読みにくい。 落書きは民度の低さと治安の悪さのバロメータなので、ぜひ厳しく取り締まってもらいたいものである。 その説明板には次のように書かれていた。

「この道は昔の祐天寺道で、祐天寺を経て碑文谷裏に続く目黒の主要道路であった。 かつて、このあたりは急坂であったため、斜面を切り開く切り通しの工事が何回となく繰り返された。その結果、道の両側の土手はますます高くなり、風雨にさらされた土手からは、赤土のかたまりが ざらざらこぼれ落ちた。 この状態を目黒の古い方言で『けこぼ』といい、土地の人々は、この坂を 『けこぼ坂』と呼んでいた。」

坂下の正覚寺は江戸切絵図には鬼子母神が大きく書かれており、庶民に人気だったという。 また祐天寺は江戸切絵図にも大きく描かれており、両寺とも高い人気があった。 江戸時代の地図で町奉行の江戸の範囲を表した線が墨引(黒引)で、寺社奉行の範囲が朱引で表されていたが、中目黒と下目黒は町奉行の墨引外なのに寺社奉行の朱引の内側になっていた。これは目黒不動、祐天寺、正覚寺が管理範囲ということで、それだけ人が訪れていたのである。

この正覚寺の門前には水茶屋があったようだ。その水茶屋というのはいわゆる風俗で私娼がいた。 私娼を江戸時代の俗語では「けころ」と呼んでいたので、坂名になったという別説もある。

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しかし目黒区はその説を否定しているようで、「けこぼ」というのはこの地域の古い方言で、切通しの壁などで赤土が崩れて、穴のように凹んでいる様をいい、それが由来としている。「けこぼ」なのか「けころ」なのかがポイントだが、江戸っ子が洒落て両方の呼び方があったのではないかと思うがどうだろうか。

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謡坂(中目黒)

稲荷坂の坂上は東横線にぶつかる。車道としてはその先でガードをくぐり祐天寺駅前へ抜けているが、ガード手前で西に曲がると、謡坂の下りになる。 坂の途中に目黒区の標柱と、地元の方が立てたと思われる石柱がある。

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「昭和の始め頃、この坂の近くに謡の好きな人が住んでいたので謡坂と呼ぶようになったといわれる。」と標柱には書かれている。 しかし、石川悌二氏は『江戸東京坂道事典』の中で、「坂名の由来を書いたものがないが、北区の宇都布(うとふ)坂や新宿区の歌坂と同義の「ウタ、ウト、ウタイ」に起源しているのではないか。地形上から見ると、蛇崩川は坂下を北東に迂回しており、アイヌ語のウタ、ウトの出崎の意味に通じるようである。」と書いている。 興味深い解釈だが確かに蛇崩川の流路はその通りである。

目黒区が土地の古老に聞いて由来を調べている。祐天寺の田中さんという長老に聞くと、「この辺には、昔は何もなかった。周囲は、畑とナラ林だけ。震災の後だったか、坂のわきに16軒長屋なんてものが建って、人がぽつりぽつりと住み始めたっけ。そこの人たちが、「坂に何か名をつけよう」ということで「うたい坂」とつけたんだね。この長屋に長唄か踊りを教える人がいたなんて話も聞いたことがあったな。」ということだったので、標柱の説明になったのだろう。

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坂下には蛇崩川の支流が暗渠として残っている。 この支流は学芸大駅北の五本木小学校辺りを源頭にこの謡坂の北側で蛇崩川に合流していた。 この暗渠の面白いのは1mほどの細路地が祐天寺駅の南側にまで残っており、その源頭近くの守屋図書館裏には五本木庚申塔群がある。

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その蛇崩川支流を越えると坂は上りに変わり、蛇崩交差点に向かう。 このS字カーブはいつからあるのだろうと調べたら、どうも江戸時代からの道筋が変わっていないようである。 カーブの北側の蛇崩川支流の西側は明治時代は池だった。 台地の縁の一部なのでもしかしたら湧水の池かもしれないが、現在は住宅の立ち並ぶ路地裏になっている。

関東大震災前の地図を見ると謡坂には1軒しか家がない。このS字の南西側である。 それを考えると古老の話がなるほどと思えてくる。

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稲荷坂(中目黒)

鎌倉時代に各地から鎌倉に向かう道を鎌倉街道と呼び、現在でもあちこちにその名が残る。 その一つ中路(なかつみち)は下野国(栃木県)と鎌倉を結ぶ道で、そのうちの一つと伝えられるのが代官山~目切坂~目黒川の宿山橋~小川坂。 宿山橋で目黒川を越えるとすぐに道は宿山方向と諏訪山方向の二股になった。宿山へ向かうのが小川坂で、もう一方は諏訪山を越えて蛇崩川に下り、その先で再び上りになる。 その上り坂が稲荷坂である。諏訪山を越える道も名坂だが名前はない。

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坂名の由来を烏森神社にある烏森稲荷とする説もあるが、おそらくは坂の途中にある刺抜稲荷大明神が由来だと思う。 坂の途中の目黒区の標柱もそう記している。

「この近くに刺抜稲荷大明神があるので、稲荷坂と呼ばれるようになった。一説に、この道はかつての鎌倉道の一部とも言われ、目黒でも古い道の一つである。」

目黒区のHPでは小川坂を鎌倉街道の中つ道としているが、これは別の鎌倉道という認識なのだろうか。

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ただこの刺抜稲荷大明神がなかなか見つけにくいところにある。稲荷坂の途中から東に路地を入り、駐車場を見るとその車の後ろにひっそりと社がある。 社の脇には目新しい石碑(1992設置)が立っており、由来が彫られている。

「今から655年前 国内は南朝北朝に分れ戦乱の世となりました。 このとき南朝の雄新田義貞公の弟義興公が鎌倉攻めにあたり、多摩川の矢口渡しにおいて不遇の死を遂げられたので、家臣であった田中家の先祖がこの地に土着して主君の霊を弔うお堂を建てたのが創まりと伝えられています。

尓来一族のシンボルとして今日に至りましたが、日頃参詣参拝される多くの信者さんからは、霊験あらたかなおいなりさんと親しみ愛され崇敬されてまいりました。 このたび老朽のため建替えにあたりここにルーツの概要を刻み遥か昔を偲び向後の資とします。」

碑を建てたのは真裏の存在感ある日本建築の地主である田中氏とある。

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稲荷坂を上って振り返ると渋谷のセルリアンタワーがそびえているのが見える。 この辺りの旧地名は久保田。 その地名はほとんど残っていないが、唯一坂上の額縁工房のやっているアパートが久保田荘という名前なので名残の可能性はある。

目黒川右岸の目黒台の関東ローム層の下には帯水層が広がっており、東山貝塚、烏森神社、諏訪山、中目黒八幡、目黒不動など、台地の縁の崖線に湧水が見られる。そのため東山貝塚の旧石器時代から縄文弥生時代に始まる数千年の人間の営みが残っている。

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半兵衛坂(中目黒)

目黒川の支流蛇崩川が下馬方面から流下して、最も台地を削った部分が蛇崩から中目黒駅付近までである。 地形的には目黒川と蛇崩川に挟まれた岬のような台地になっている。 突端は諏訪山と呼ばれた岬の山で、現在でもこの一角のマンション名などにほぼ半分程度は諏訪山と付いている。

岬から少し台地に入ったところが烏森という場所。 烏森神社に由来した烏森という地名は明治になってからのもので、江戸時代は宿山と呼んだ。 山手通りから蛇崩への道の途中にある交番は宿山交番という名である。 この道よりも西は東山という住所になる。 目黒区の資料では宿山の東側にあるから東山と呼ばれたとあるが、実際には東ではなく北側にある。 しかし駒沢練兵場があったため、小川坂でいったん東に向かった後、目黒川沿いに西に向かい東山に着くという道筋だったのでそうなったのかもしれない。

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蛇崩川は現在暗渠の緑道になっている。 名前から想像できるように、毎度氾濫を起こしてきた河川であった。 しかし昔は氾濫を起こす河川はその分肥沃な土地になるので、小川では豊かな小川田んぼが広がったのである。 その蛇崩川の西側に小川坂に繋がる街道がある。蛇崩の交差点から青葉台に向けて緩やかな上りになっているのが半兵衛坂。

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坂の途中にある目黒区の標柱には次のように書かれていた。

「江戸時代、この辺りに清水半兵衛を名乗る旧家があったため、半兵衛坂と呼ぶようになった。尚、この道路は昭和15年の幻の東京オリンピックの際に整備されたので、通称『オリンピック道路』とも呼ばれる。」

坂道の西側は東山。 明治から戦前まで三軒茶屋・玉川通り・目黒川・小川坂から下馬経由で三軒茶屋へ向かう街道に囲まれたとてつもなく広いエリアはすべて駒沢練兵場という軍施設だった。 昭和女子大や世田谷公園、その他多くの団地がこのエリアに多いのはその跡地を利用したからである。

半兵衛坂の坂上に寿福寺という天台宗の寺院がある。ここには清水半兵衛の清水家の墓もあるが、「権兵衛が種まきゃ、カラスが…」のフレーズで有名な権兵衛さんの墓がある。権兵衛さんというのは将軍の鷹狩りの役職、綱差権兵衛さん。 第1期ブラタモリの『鷹狩り』で出てきた川井家のご先祖の権兵衛さんの墓である。

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2018年1月21日 (日)

小川坂(中目黒)

中目黒付近の目黒川の左岸は切り立った崖が多いが、右岸は緩やかな傾斜が多い。 これは目黒川が若干のカーブを描きながら流れるからで、右岸はカーブの内側になるからである。 また、馬事公苑辺りを源頭とする蛇崩川が中目黒で目黒川に合流している。 中目黒周辺は二つの川に挟まれた丘陵なのである。

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小川坂はこの挟まれた丘陵に目黒川側から上っていく坂道。 坂上に目黒区の説明板がある。

「かつて、この一帯を『小川』といい、坂下に広がっていた田んぼを『小川田んぼ』と呼んだ。この辺りの旧家小川家が地名の由来と言われる。また、この坂のある道は、鎌倉へ通じる道として中世の頃開かれた鎌倉道であった。」

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小川坂は緩やかな弓の形を描きながら上っていく。 この曲がり方はなかなか魅力的だと思う。 明治になってからも目黒川はしばしば氾濫し、小川田んぼは濁流に飲まれ次第に作付けされなくなっていった。 ところが関東大震災で住宅のニーズが高まり、目黒川の改修や土地区画整理が行われ、昭和初期に中目黒駅ができると市街地として急速に発展していった。

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明治から大正時代は坂下の地名は小川、坂の中腹は烏森、坂上は宿山といった。 坂の上から路地に入ると蛇崩川に下る階段がある。 「烏森コミュニティ道路」という銘板が付いていた。 景色のいい階段路地である。

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この階段の東側に同じ蛇崩川の崖線に建っているのが、烏森神社である。神社裏には崖線に張り付くように路地が通っていて、そこから神社への下りの裏参道、神社下には崖下からの表参道の階段になっている。

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創建の年代は不明。 明治まではこの辺りは宿山と呼ばれていて、上目黒村宿山の鎮守として古くから祀られてきたと伝えられる。 烏森の名は、昭和になって地名からは消えてしまったが、現在でも小学校の名前に残されている。

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2018年1月20日 (土)

行人坂(目黒)

江戸時代の目黒は郊外のリゾート地としての役割を果たしていた。 目黒のサンマのモデルは将軍家光と爺々ヶ茶屋の主人だが、将軍鷹狩りの場であると同時に目黒不動詣でに多くの江戸っ子が遠出をする場所だった。 白金高輪に下屋敷を持っていた熊本肥後国の細川氏は、目黒の崖線にも抱屋敷を持っていた。 現在の雅叙園の敷地である。

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雅叙園は日本初の総合結婚式場で、昭和6年(1931)に料亭として開業した。 当初の建築で残っている「百段階段」(実際は99段)は都指定有形文化財になっているが、ちょいと見に行くというわけにはいかないのが残念。細川家時代の崖の傾斜を使った見事な木造建築で、ぜひ一度見てみたいと思っている。

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坂の中央、目黒川架橋供養勢至菩薩石造の祠の脇に目黒区の立てた説明板がある。 「寛永の頃、出羽(山形県)の湯殿山の行人が、この辺りに大日如来堂を建立し修行を始めました。次第に多くの行人が集まり住むようになったので、行人坂と呼ばれるようになったといわれています。」と書かれている。

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もう一つの説明板は雅叙園が建てたもの。 「行人坂の由来は大円寺にまつわるもので、寛永年間(1624)この辺りに巣食う、住民を苦しめている不良の輩を放逐する為に、徳川家は奥州(湯殿山)から高僧行人「大海法師」を勧請して、開山した。その後不良の輩を一掃した功で、家康から「大円寺」の寺号を与えられた。 当時この寺に「行人」が多く住んでいた為、いつとはなしに江戸市中に通じるこの坂道は行人坂と呼ばれるようになった。」

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大円寺というと、江戸三大火事の一つ「行人坂の火事」で有名である。 明和9年(1772)に江戸市中を焼く大火があり、火元とみられたのが大円寺であった。 大円寺の境内にある写真の五百羅漢はこの火事で亡くなった人々を供養する為に建立されたと伝えられる。 明和9年の出来事であったので、だれいうとなく「めいわくの年」だと言い出したので、幕府は年号を「安永」と改めたといわれている。

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目黒川は昨今桜の名所となって、中目黒駅前を中心にこの雅叙園の辺りも多くの花見客でにぎわうようになった。 かつての江戸の賑わいが復活したようである。 江戸時代は目黒不動に参詣した帰り道、目黒川の太鼓橋を渡り、行人坂を上って振り返ると、遠くに富士がそびえる素晴らしい風景が見られたことでも人気になったという。また雅叙園のある付近一帯は、かつて「夕日の岡」と呼ばれ、紅葉が夕陽に映えるさまは実に見事で、品川の海晏寺かいあんじとともに、江戸中に知れわたっていたところである。

ただこの行人坂があまりに急峻だったため、坂で止まりきれない馬車が目黒川に突っ込む事故などが多発、そのために権之助坂が開かれたといわれる。 確かにここが舗装されていなかったら、どれほど難儀かは想像に難くない。

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権之助坂(目黒)

江戸中期、中目黒の田道に菅沼権之助という名主がいた。村人のために年貢の取立てを緩めてくれるよう訴えるが、逆に咎められ処刑されることになった。村人のために罪を負った権之助を思って彼が最後に村を振り返ったこの坂を権之助坂と呼ぶようになったという話がある。また別に権之助が悪人だったという話も残っている。

また、それ以前の道は東に行人坂はあるものの、中目黒方面への道は現在の富士見坂下の道を経て、田道経由で目黒川の右岸に渡る道で、相当な遠回りになっていたため、、現在の権之助坂ルートを彼が許可なく切り開いたので処刑されたという説もある。

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江戸時代の郊外の目黒不動へのメインルートは行人坂を下る道筋だった。大正3年(1914)に都電が目黒駅前まで伸びたのに続いて、権之助坂が目黒村や平塚村への主要道に変わっていった。 権之助坂下の目黒川を渡る橋は目黒新橋という。 昭和に入ってからもまだ蛍が飛び交うような風景だった。

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現在はビルが立ち並び、溢れるような数の車が下る喧騒の権之助坂になっている。 目黒駅前の集中混雑を避けるため、放射3号支線が出来て、権之助坂は下り専用になったが、それでも溢れている。

ちなみに目黒駅は品川区にあるが、山手線計画当初は目黒川近くを通るようになっていた。 しかし目黒川周辺(当時は田園地帯であった)の農民の反対にあい、台地の上を通ることになったのである。

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2018年1月19日 (金)

富士見坂(目黒)

茶屋坂と権之助坂の間、崖線上のホテルプリンセスガーデンの南角から目黒川に向かって下る急坂。 なぜか3段になっていて、真下から見るとその段差が見えないほど傾斜がきつい。

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坂の途中に「関東の富士見100景」のプレートがある(国交省設置)。 それがこの坂を富士見坂と認識できる唯一のしるし。 というのも同じような坂がこの先合わせて3本あるからである。 どれを富士見坂にしても遜色がない3本の名坂である。

国土交通省の関東地方整備局(天下り団体ではあるが)が関東の富士見百景というのを作っている。 坂に限らないが、富士山を楽しみたい場合は役立つ情報かと思う。

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この3坂は大正中期以降の開通である。 明治期はこの坂の斜面の西側は水道向という地名で射撃場であった。 現在の防衛庁施設がかつては火薬製造所であったのでその傍の斜面を使ったのだろう。 そして最も西側の坂周辺が少しくぼんでいるが、そこにあったのが千代ケ崎の由来になった千代ヶ池があったところである。

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茶屋坂(目黒区三田)

落語『目黒のサンマ』の話に出てくる爺々ヶ茶屋が茶屋坂の由来。 江戸時代、三代将軍家光が現在の自衛隊施設辺りにあった将軍鷹狩り場へ鷹狩りに来た折、背後にそびえる富士山の遠景を楽しみながら、湧出る清水で茶を沸し飲んだといわれる。 また八代将軍吉宗は、祐天寺詣での折にこの茶屋に立寄ったと伝えられる。

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その茶屋坂の清水の石碑が上の写真の二股の間の空き地にある。左の道が茶屋坂、右は昭和中期に出来た宅地用の道路。 道路の路面標示は茶屋坂が側道のように書かれているが実は逆である。右は住宅地で行き止まりなのである。

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茶屋坂は二段坂になっている。下半分よりも上半分の方が傾斜がきつい。 上の坂は坂上で左に折れ、さらに上っていく。 前述の茶立ての清水で茶を沸かして将軍御用達となった茶屋の爺さんがサンマを焼いていると、それを食した将軍がたいそう気に入って「サンマは目黒に限る」というオチが落語なのだが、そこまでの話の筋はぜひ落語で楽しんでいただきたい。

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その茶屋の主人は彦四郎といい、家光が「ぢい、ぢい」と呼んだので爺々ヶ茶屋になったらしく、本当に爺さんだったかどうかは訝しい。 とはいえ将軍に面識がある町民というのは大したものだったろうと想像する。 実際には将軍やその家来といえども、太平の世の中であったので、気軽に庶民とコミュニケーションを取っていたのではないだろうか。

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諸説あるが爺々ヶ茶屋は坂の中腹にあったのだろうと思う。 坂の折れ目にあったという説もあるが、眺望を楽しむならそれも正解。ただ清水となるともう少し低いところでないと出にくいように思う。

上の写真は茶屋坂の坂上で右側の下り道が茶屋坂なのだが、左の道は三田用水があった筋である。 三田用水が出来たのは1664年だから、家光の在職期間(1623~1651)にはまだできていない。 吉宗(在位:1716~1745)は三田用水以降である。

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