2018年12月30日 (日)

東京23区の坂道を振り返って

年の瀬である。ようやく東京23区の名のある坂を網羅できた。 地形と遊ぶのは面白い。 NHKのブラタモリが高視聴率を得ている。 地形学、地学、地質学などが陽の目をみることになり、これはタモリ氏の貢献は極めて大きい。

最初のブラタモリは明治神宮から始まった。明治神宮内の御苑から流れる水路が、原宿駅をくぐり竹下通りへ。 少年少女の足元を流れたのちブラームスの小径を流れ、そのところどころに痕跡を覗かせるのを見つけて、タモリ氏と涌井氏が喜ぶという、きわめてマニアックな初回であった。

その少し後、私は山野勝氏の本に出会った。 それ以前から暗渠や水線を歩くのが好きで、代々木八幡・参宮橋の「春の小川」などを辿って楽しんでいたが、谷があれば丘があり、その間には坂道がある。 この坂道を歩いて見るのも面白そうだと思った。

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地形(土地の記憶)は隠しきれないものだが、東京の開発は大規模なものが多く、地形すらぶっ壊してしまうものが出てきた。 近年では玄碩坂を葬った六本木ヒルズ開発がその例だし、間もなく麻布台1丁目の大部分を占める我善坊谷を埋めてしまおうという森ビルの計画が進んでいる。

上の写真はその我善坊谷を三年坂の坂上から眺望したもの。 崖上の歴史ある逓信の建物もなくなりそうである。東京は江戸時代から、丘に身分の高いものが住み、谷にはそれを支える庶民が住んでいた。出世すると標高も上がっていくようなところがあった。

坂は東京(江戸)の文化の骨格だと思う。 タモリ氏はいつも「キワが面白い」というが、キワというのは土地の骨格であり、そこが変わると土地全体の性格が変わるのである。そこには数多の物語がストラタ(地層)の如く積み重なり、掘ればいろんなものが出てくる。

838坂を歩き終えて、埋もれたものが忘れ去られることは、祖国が無機質な、冷たいものになっていく原因だと思うようになった。タワーマンション、高層ビル、商業施設、どれもうたかたの消えゆく泡である。 土地の記憶という生き物を、表面だけ取り繕った文明で覆ってはいけない。

自分にできることは、その土地の記憶を書き留めて残すことかもしれないという思いと共に幾多の坂を上り下りしてきた。 その記憶を何度もオーバーライトするために、これからもまた上り下りするのだろう。

2018年12月30日

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2018年12月29日 (土)

円山坂(渋谷区円山町)

江戸時代の俗は聖の傍にあった。 有名な神社や寺社仏閣の傍には遊郭や岡場所(娼婦の集まる街)があった。 戦後になり、赤線を廃止し、売春など社会の裏側をクリーンにしようとしてきたが、やっているのが人間なので巧くいくはずもない。 歌舞伎町を浄化しようと都庁の輩が躍起になると、渋谷が一大風俗空間として発展してしまう。 昔は、表裏を合わせてバランスを取っていたが、そのバランスを取れない人間が主導するのでどんどんおかしな社会になっていくように思う。

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円山坂はそんな渋谷の恥部的な場所にある坂道。 通りの半分はラブホテルである。なるべく人に会わないようにと時間を選んだが、それでも数組が出入りする脇を歩く羽目になる。坂下の入口に在った円山坂の表示は、道路の拡幅時に取り払われてしまったので、現在はここが円山坂という認識を持った人はほとんど皆無である。

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坂下の向かい角はかつての「松涛温泉シエスパ」、爆発事故を起こした会員制温泉施設である。その裏手は日本でも最高地価の住宅地松涛。 渋谷の混沌の街からも目と鼻の先で、邪悪な空気に包まれた気がしなくもない。

かくいう私もこの街で働いていたことが有る。 まったくカオスな街である。当時は平気だったが、現在は1秒でもそこに居たくない街になってきた。なので、この坂が東京23区の名前のある坂838坂の最後の坂としてやむを得ず再確認に訪問したわけである。

photo : 2018/12/28

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車坂(北) (台東区上野)

「上野のお山」と時代劇で言われるのは、現在の上野公園から鶯谷駅あたりまでの広い地域を指している。 天海が徳川家の庇護のもと築いた寛永寺の寺域は皇居(江戸城)に匹敵する規模であった。

そして現在上野駅は20本程度の線路が走っているが、その駅構内全体には寛永寺の塔頭(たっちゅう)が並んでいた。その塔頭は崖の下になるので、上野のお山と往来するための坂道が通っていた。

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その坂のうち最も鶯谷側にあったのが信濃坂でこれが写真の車坂(北)の場所よりも少し鶯谷寄りの江戸時代の坂である。信濃坂のすぐ都心寄りにあったのが屏風坂。これが現在の車坂の跨線橋(両大師橋)部分とほぼ同じ位置になる。

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現在の橋は1970年頃に架け替えられたもの。 それ以前は明治中期以降何度か架け替えられている。しかし坂名のように車が通れる斜路まで作られたのは昭和に入ってからのようだ。 現在の車坂を歩く人は意外にいて驚いた。しかし歩くと結構長い距離になるので、やはりJRの公園口から上野公園に行くのが良い。

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坂下の歩道橋から見るとなかなかセクシーな曲がり方をした坂道である。モナコGPやマカオGPのコースを思い起こさせる。道路わきの謎の巨大コンクリート建造物が気になって仕方がなかったが、東北新幹線に覆いかぶさるように立っているので新幹線関連の施設なのだろうか。

坂下の町名は現在は上野だが、以前は下車坂町といい、都電の電停「下車坂町」があった。昔の町名は素晴らしい。それに比べて現代の町名は情けないほどセンスがない。役所が管理しやすいのと、人々が暮らしやすいのは違う。 どうも前者に傾いてばかりいるようなところが多すぎる。

photo : 2018/12/28

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渡邊坂(新宿区天神町・中里町)

神楽坂の早稲田通りがヘンテコな曲がり方をしている交差点が牛込天神町。 このカーブ部分とそこから北方向へ下る坂道は地蔵坂だが、途中から渡邊坂に名前を変える。 坂の途中には何の区切りもない。 坂は北野神社の参道辺りで水平になる。

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数十mの距離に地蔵坂の標柱と渡邊坂の標柱があるのに坂は同じ坂という紛らわしいところだ。 坂を下ると山吹町のバス停だが、その辺りを昔は小川が流れていた。 その手前(南側)に渡辺源次郎(源蔵)という千石の旗本の屋敷があったので、渡邊坂と呼ばれるようになった。

江戸時代の道は山吹町に下る手前でクランクになっていたので、それより下を渡邊坂、上を地蔵坂と呼んでいたのだろう。

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緩やかな坂である。渡邊坂の部分の高低差は2m、地蔵坂部分は傾斜があって8mほど高低差がある。地蔵坂上は矢来町。 小浜藩10万石酒井家の下屋敷があり、39,000坪の屋敷内には素晴らしい庭園があった。 三代将軍徳川家光は好んで小浜家を訪問し、庭を楽しんだという。 この屋敷が警備のために竹囲い(矢来)で囲まれていたのが矢来町の地名の由来になった。

10万石39,000坪の酒井家を差し置いて、千石1,750坪の旗本の名が坂名として残るとは、大したことだと思う。

photo : 2018/12/28

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大木戸坂(新宿区四谷)

靖国通りの富久町西交差点から南に下る都道418号線は一旦下ってから、再び上りになり新宿通りの四谷大木戸前である四谷4丁目に至る大通り。 ここは通称外苑西通りで、富久町で計画道路が切れている。しかし少しずつ部分開通しており、環状4号線として富久町以北も延伸事業中。できるのは何十年先か分からない。

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この道は戦前から幅の広い道だったようだが戦前の地図を見ると道幅が一定ではない不思議な道路である。 一番低い場所の交差点が「大木戸坂下」交差点。 実はここで斜めに交差している道が古くからの道である。江戸時代は、御苑の大木戸門から北に麹屋横丁(きくやよこちょう)という通りがあり、大木戸坂下で外苑西通りを越え、富久町に下ってから東へ市ヶ谷方面に繋がっていた。
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坂下から富久町西交差点を望むとそこそこの傾斜を感じる。4mほどの高低差がある。大木戸坂はこの区間を指すのだが、四谷4丁目交差点に向かっては薬研状の坂道になっている。 この窪みがなぜ出来たのかは、瓶割坂で出てきた紅葉川に起因する。

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標高は富久町西が32m、坂の低い部分が26m、そして四谷4丁目が33mである。 紅葉川は新宿御苑の玉藻池(最も東側の池)から北に流れ、大木戸坂下から富久町交差点に流下、そこで北から流れてきた饅頭谷を合わせて東へ流れ市ヶ谷で外堀に注いだ。 饅頭谷は現在の富久さくら公園とイトーヨーカドーの間辺りから、富久町交差点に向かって流れていた沢筋である。関東大震災以前の地図にはまだ水線が残っている。

富久町交差点に成女学園があるが、その入り口に小泉八雲旧居跡の説明書きがある。ここには明治中期に5年間住んだ。この辺りは当時自然の豊かな地域だったが、開発が進むと小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は西大久保に転居したという。西大久保というのは、現在の区立大久保小学校の辺りで、現在は小泉八雲終焉の地として石碑と説明書きがある。私が中学生の時に読みふけった怪談物が懐かしい。

photo : 2018/12/28

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瓶割坂(新宿区新宿)

靖国通りは新宿大ガードから新宿三丁目を経て九段下に至る大通り。 しかし戦前までは細路地だった。 伊勢丹パーキングのある新宿五丁目交差点を過ぎると、次の信号である新宿一丁目北辺りからわずかな上りになる。 高低差は2mちょっと。 遠目に見ると上り坂になっているのが分かる程度である。

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この道は戦後開かれた道。 新宿五丁目東から新宿御苑入口までの南北の都道305号は別名を柳通りとか、花園通りとか、はたまた御苑大通りとか言われるが、定着しない。 ここだけ違和感のある広い道になっているのは都電が新宿通りからこちらへ南下して、新宿通りで東に向かい四谷方面へ走っていた名残りである。

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新宿五丁目東から東に進むと南側に寺が並ぶ。 大通り側は成覚寺と正受院だが、すこし南の太宗寺が有名である。 明治時代までこの太宗寺の池から川が北に向かって流れ、蟹川となって早稲田大学の大隈講堂から脇の庭園を経て、神田川に注いでいた。 成覚寺の西側には蟹川の橋が架かっていて、この通りはそこから東に向かって上り坂だったのである。

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上の写真は東側から見たもの。 歩道橋があるところがかつての新宿厚生年金会館の前になる。 そこが最高地点になって、向こう側(西側)は蟹川に向かって下り、手前(東)側は大木戸から流下していた紅葉川の水域である。 つまりこの微高地は分水嶺になっているわけである。

瓶割坂については、横関英一氏が著書の中で詳しく論説しているが、このお椀を伏せたような形をいうらしい(別説もあり)。

photo : 2018/12/28

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2018年12月28日 (金)

さくら坂[玄碩坂](港区六本木)

記憶では19歳のころ、1970年代の後半、友人の一人に社長の息子がいた。 どんな家業だったかは覚えていない。 一度彼の家に遊びに行った。 六本木通りの麻布警察署先の日産の辺りから下り坂を下りて行った。 スリバチ状の地域にあった家は豪邸で地下室もあり、そこでは映写機やピアノ、ドラムセットなどが置いてあった。 しかし彼の父は戦後まもなく安い時期に買った家だと言う。 昭和20年代前半に数百万で購入した土地に家を建てたらしい。

後になって気づいたのだが、そこは現在の六本木ヒルズの一角、けやき坂とさくら坂の間あたりだった。 現在ではそこに建つマンションの1カ月の賃料が百万円を超す。 しかし、当時は、谷底で六本木の喧騒からは離れているがいささか湿っぽいところだなあ、という印象だった。

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六本木ヒルズは谷を盛土して埋めた開発地である。 おそらく数m以上は盛土をしてあるのではないだろうか。 南側のさくら坂の途中には「さくら坂公園」がある。 ヒルズには外国人セレブが多いので、日中は外国人の親子が公園で遊んでいる。 日本人は少なく、ここが日本であることを忘れてしまいそうになる。 しかし、この公園は元長州長府藩の大名屋敷の中、藩士の長屋があった場所で、乃木希典が誕生した地である。

開発以前は公園も北日ヶ窪公園という名前で、文字通り窪地にあった。 さくら坂公園は低い場所を走るさくら坂と一段高い場所を走る内田坂の間にある。 昔の町名は麻布北日ヶ窪町と呼ばれた。 内田坂と昔あった玄碩坂を結ぶ路地が公園の近くに残っている。

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不揃いの階段は内田坂側から下ってくると、途中から土の中に埋まる。 この階段の下はまだ玄碩坂へ下る途中に過ぎない。かつてはここからさらに下って玄碩坂に降りていたのである。

当時の六本木にタイムスリップしたいときは、二村さんという方が作られているHP『東京 -昭和の記憶-』に行くと良い。 とても懐かしく楽しめるHPである。

photo : 2018/11/19

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2018年12月27日 (木)

安鎮坂(新宿区南元町/港区元赤坂)

安鎮坂は東宮御所(赤坂御所)の北側沿いの道の坂。 昭和61年(1987)頃、ここで皇太子(現在の天皇)が東宮御所の正門から車で出発されるのに出くわした。 当然車は通行止めになっていたが、私は徒歩だったので、しばらくの間足止めを食らっただけだった。

周辺の警察官に緊張が走り、異様な雰囲気になったのちに門から黒い乗用車(センチュリーだったかプレジデントだったかは覚えていない)が前後を警察車両に護衛されて出てきた。数分後、通行止めは解除された。安鎮坂はまさに東宮御所の正門前の坂道である。あとでニュースを見ると、その日は沖縄国体に向かって出発された日だった。

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安鎮坂の別名は権田原坂という。 その他に権田坂、権太坂、権太原坂、安珍坂、信濃坂など多くの別名がある。 歩道の標柱には次のように書かれている。

「付近に安鎮(珍)大権現の小社があったので坂の名になった。武士の名からできた付近の地名によって権太原坂ともいう。」

権太原坂の方の由来は、幕府の代官権田隼人の屋敷があったとか、権田丈之助、権田小三郎の屋敷という説など諸説があって定まらない。

『新撰東京名所図会』には安鎮坂とあり、安鎮僧都の碑があるからとなっている。『江戸名所図会』の説明は権太原坂だから、江戸と明治で違っている。

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坂を下りきったところが、かつて鮫河橋があったところ。 それより先は鮫河橋坂である。 江戸時代、東宮御所は徳川御三家の紀伊和歌山藩の屋敷だった。

この坂下の窪みは赤坂川という川が台地を削って出来たもの。赤坂川は新宿区須賀町の円通寺あたりを源頭に若葉町の商店街沿いに流れ東宮御所内の池でいったん水を溜め、そこから溜池に注いでいた。 江戸時代坂下の谷沿いには岡場所があり、私娼が多くいたという記録がある。 この坂は最高位と底辺の人々が共存した場所になる。

photo : 2017/11/3

(追記:2019/1/2)

外苑東通りと安鎮坂の交差点の名前が「権田原」とある。 そして赤坂御所の住所が「元赤坂」である。 何気なく通り過ぎる交差点や地名に歴史が含まれている。

権田原というのは標柱にもあったように、江戸時代に権田某という人物の屋敷があったからという説が有力だが、切絵図にはほぼ御先手組の大縄地(今でいえば警察官の官舎敷地)が占めている。 権田(権太)についての考察は、時代考証家の大石学氏の『坂の町 江戸東京を歩く』に書かれている内容が詳しく興味深い。

元赤坂については、現在の赤坂と言えばTBSの周りを云うが、江戸初期の赤坂は赤坂御所周辺の地名だった。 そのため「元」がついて元赤坂という訳である。

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2018年12月26日 (水)

梅林坂(皇居東御苑)

皇居江戸城本丸跡に上るルートは5つ。 正門ともいえるのが百人番所前の中之門、その北側には二の丸から上る汐見坂、さらに北側には不浄門といわれた平川門に続く梅林坂(うめばやしざか)がある。 一方西側は狐坂を上る西桔橋門(にしはねばしもん)、北には北桔橋門(きたはねばしもん)がある。

狐坂のある西桔橋門は皇居乾通り一般公開の時にしか通れないので、狐坂は当分の間踏破できない。北桔橋門から北の丸公園への出口は断崖のような高さがある。

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平川門からの道と、二の丸からの道が出合う辻からの上り坂が梅林坂。  いろいろな樹木が二重三重に重なっていて、季節感を感じられる道である。 いささか通用口感があるが、旧天守閣に裏手から上がる。

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梅林坂にも説明板がある。 文明10年(1478)に太田道灌が川越から天神社を勧請し祀った時に、百株の梅の木を植えたのが由来(説明板には数百株とあるが、『江戸名所図会』には梅樹百株とある)。 以前には平川天神の坂と呼んでいたが、道灌が梅を植えてからは梅林坂と呼ばれるようになった。 家康もここを梅林坂と呼んでいたのかもしれない。 もちろん樹齢400年の梅は残っていないので、植え替えられたものばかりである。

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江戸時代半ばから人々は桜を愛でるようになったが、もともと花見と言えば梅の花であった。 戦前くらいまで梅の花見は盛んで、各地で梅が楽しまれていた。 大田区の梅屋敷もそうであるし、二子玉川も元々は将軍が鷹狩りと鮎と梅の花を楽しむ場所だったらしい。

ちなみに読みは「うめばやしざか」だが、「ばいりんざか」とも呼ばれていたという記録がある。

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2018年12月25日 (火)

汐見坂(皇居東御苑)

2018年12月23日は平成最後の天皇誕生日であった(実はまさにその日にこれを書いている)。齡(よわい)を重ねるにつれて、皇室の報道に心穏やかになるという感覚が出てくるようになった。細かいことは抜きにして、2000年近くも続いた国は地球上には皆無に近い。勿論縄文時代が1万年続いたことがそれ以上の奇跡なのだが、皇室の歴史もまた同様の奇跡だろう。

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パレスホテル前の大手濠と桔梗濠の間にある大手門から皇居東御苑へ入城することが出来る。入場は明るい時間帯のみだが無料。丸の内にあるにも関わらず、大手門をくぐるとそこは都会の喧騒をかき消したような別世界になる。

すこし上り坂を上ると広場に出る。 百人番所が長さ50mを超える姿を見せる。江戸時代の検問所で、与力・同心が常時100人詰めていたことから百人番所と呼ばれるようになった。

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百人番所前には見事な石垣が迫っている。 番所を背にして、左側の石垣の切れ目が本丸へ入る中之門、右側の切れ目が東御苑へ行くルート。東御苑は素晴らしい庭園として人気があるが、その西側には白鳥濠が水面を静かに湛えている。白鳥濠の先の巨大な石垣の間を上る坂が汐見坂である。

石垣の脇に説明板がある。

「汐見坂:本丸と二の丸をつなぐ坂道でした。その昔、今の新橋から皇居前広場の近くまで日比谷入江が入り込み、この坂から海を眺めることが出来ました。坂の上には、汐見坂門が設けられていました。」

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汐見坂を上りきると江戸城天守跡が目に飛び込んでくる。江戸城は太田道灌の城を基に、徳川家康が1606年に建立したが、天守の場所は南側の富士見多聞の辺りだった。二代秀忠から三代家光にかけては現在の天守台跡の位置に日本最大の天守閣を築いた。しかし、明暦の大火(1657)で焼失。 そのあと加賀藩前田家の普請で再建させた天守台が現在のもの。しかしこの天守台に天守閣が築かれることはなかった。城を示して権勢を誇らずとも、江戸幕府はすでに天下を統一し安定政権となっていたことも大きな理由のひとつであろう。

photo : 2016/12/3

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