2023年7月13日 (木)

地蔵坂(調布市東つつじが丘)

之川支流の入間川は若葉町の谷あいではつつじヶ丘側が崖になっていた。古代から日本の米作農業は河岸段丘の上に集落を構え、河岸段丘の下の川の流域を田んぼにして米作を行っていたところが大多数。おそらくここも古代から中世にかけてはそうだったと推測できる。入間川のこの辺りの地形では左岸にあたる三部作の坂上が標高47m、右岸の地蔵坂上が標高35mとこちらがかなり低い。

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入間川に架かる橋は鉄製の橋。橋を渡ると急坂で一気に登る。高い擁壁がここが元々崖であることを示している。坂の上下の標高差は僅か7mほどしかないが距離が短いのでかなりの急坂である。坂上には地蔵堂がある。

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坂下には市立第四中学校があり、野球部の子どもたちが坂を下って行った。坂名の由来はどう考えてもこの地蔵堂にあると思われる。古い地図ではこの辺りの小字は「本組」と書かれているが、この地名については分からない。現在は坂上は東つつじが丘3丁目、入間川の左岸側は若葉町3丁目である。

場所  調布市東つつじが丘3丁目

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2023年7月11日 (火)

熊谷坂(調布市若葉町)

三部作というものがある。夏目漱石ならば『三四郎』『それから』『門』が有名である。調布市若葉町の坂の三部作は「大坂」「本村坂」そして「熊谷坂」と呼んでもいいと思う。

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南にある「大坂」、真ん中が「本村坂」、そして若葉小学校の北側の国分寺崖線を上っていく坂道が「熊谷坂」である。小学校の敷地の奥までは普通の道で徐々に上っていく。その先で本格的に崖線に差し掛かるとそこからは階段坂になっている。坂下と坂上の落差は他の坂と同じく16m程度である。

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坂上は大きなマンション。熊谷坂の名前の由来は辺りに熊谷という姓の家があったことらしいが、別名「鉄砲坂」とも呼び、大雨の時坂を水流が流れたからそう呼ばれたようだ。ただ地形図を見ていると谷地形を形成しているのは真ん中の本村坂で、この坂は特に水が流れそうな標高データである。ちなみに新しそうなこの坂も江戸時代からある道筋である。

調布市若葉町1丁目、3丁目

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2023年7月 9日 (日)

本村坂(調布市若葉町)

大坂のひとつ北側にある坂道が本村坂。「ほんむらざか」と読む。坂下には調布市立若葉小学校がある。しかしこの小学校は比較的新しく、昭和36年(1961)に滝坂小学校の分校として開校した。それ以前は小学校の真ん中を本村坂が貫いていたのである。

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若葉小学校の裏手から本村坂が始まる。最初私は「ほんむらざか」だと思っていた。この辺りが武者小路実篤も住んでいたことから集落の中心だったから本村と勘違いしたわけである。実は本村(ほんむら)というのは江戸時代の名主吉田家の本家筋の姓だという。この辺りの大地主で、坂の途中に墓所があったようだ。

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現在は坂の途中は崖線の森の中を通る気持ちのいい道になっている。坂下の標高は30m、坂上の標高は47mで大坂とほとんど同じ。こんな道だが江戸時代からこの道もあったようだ。

場所  調布市若葉町3丁目

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2023年7月 7日 (金)

大坂(調布市若葉町)

坂上の庚申塔にお詣りをしてから大坂を下る。千歳村で仙川を渡り、神明社辺りで瀧坂道と分岐したのち、再び下り入間川を渡る手前にある、国分寺崖線の上下を結ぶ坂が大坂である。

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珍しく露頭がふんだんに見えている坂道で、コンクリート舗装がなければ江戸時代と同じような景色ではないかと思われる。坂下に緑地の説明板があり、その一部に大坂の解説が載っている。

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『この緑地の北側に隣接する坂道(市道)は旧都道で、旧入間村の主要道で、近世・近代を通じ南の現狛江市域から甲州街道へ通じる道として利用されてきた古道の一部です。明治以降は東京への野菜出荷の荷車が頻繁に通っていましたが、難所であったため昭和初期に拡幅、緩勾配かが行われ現在に至っています。坂の上には道標兼庚申塔が立ち、この緑地を含めた両側の樹林地も残され昔の面影を今に伝えます。』とある。

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坂上の標高は46m、坂下は30mで16mほどの落差がある。瀧坂道などの街道ならば手間賃稼ぎの子どもが荷車の押手を担っただろうが、村道ではなかなかそうもいかず、難儀をしたことだろう。この坂を上っても次の仙川に下るとまた廻沢村への安穏寺坂が待っている。そういう歴史を感じられる貴重な大坂である。

場所  調布市若葉町3丁目

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2023年7月 1日 (土)

新左エ門の坂(調布市入間町)

七曲がりの坂の脇道が中央学園通りに分断された先、廃道になりそうな道が残っているが、その脇の斜面にあるのが辨天山宇賀辨天堂跡。弁財天は蛇の化身、宇賀神ともされ、水の絡む場所に祀られていることが多い。

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その斜面の脇から崖線を上る道がある。これが新左エ門の坂と呼ばれる坂道である。坂上に向かって右側が辨天山、左が入間町一丁目緑地として、国分寺崖線の貴重な自然が保護されている。坂名は、地主鈴木家が代々新左エ門を襲名したことから付いたらしい。

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坂上までの高低差は、下が標高30m、上が標高45mで15mの高低差がある。国分寺崖線は田園調布を突端にして、多摩川左岸を上流までずっと崖線を形成しているいわゆる河岸段丘地形である。成城学園前周辺を中心に調布市まで魅力的な崖線が連続している。

場所  調布市入間町1丁目

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2023年6月29日 (木)

七曲がりの坂(調布市入間町)

成城から入間町へ下る中央学園通りの途中、百万遍供養塔のところから分岐する道がある。やや急な下り坂になっており、途中で戻るように右に分岐してもとの中央学園通りに出る右と分かれ、さらに下っていく。

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この坂道には「七曲がりの坂」という名前が付いている。実際にはそこまで曲がってはいないが、百万遍供養塔の説明板には「かつてこの辺りは七曲がりの道と呼ばれ、小道であるばかりでなく藪道や坂道が多く、寂しく迷いやすい所であったので、参詣に来る人たちにとって心強い道標であったと思われる」と書かれている。

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分岐する道は上の写真の左の道だと思われ、中央学園通りの先も道の痕跡が続いている(現在は道路ではない)。その先は辨天山という山で宇賀弁財天が祀られている。下った先は野川の支流入間川である。昔の道は坂上からはほぼ中央学園通り筋、坂下は昔と変わらず、分岐の先は辨天の近くで右の崖を上る道(新左エ門の坂)と崖下の道に分岐していたようである。

場所  調布市入間町2丁目

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2018年12月30日 (日)

東京23区の坂道を振り返って

年の瀬である。ようやく東京23区の名のある坂を網羅できた。 地形と遊ぶのは面白い。 NHKのブラタモリが高視聴率を得ている。 地形学、地学、地質学などが陽の目をみることになり、これはタモリ氏の貢献は極めて大きい。

最初のブラタモリは明治神宮から始まった。明治神宮内の御苑から流れる水路が、原宿駅をくぐり竹下通りへ。 少年少女の足元を流れたのちブラームスの小径を流れ、そのところどころに痕跡を覗かせるのを見つけて、タモリ氏と涌井氏が喜ぶという、きわめてマニアックな初回であった。

その少し後、私は山野勝氏の本に出会った。 それ以前から暗渠や水線を歩くのが好きで、代々木八幡・参宮橋の「春の小川」などを辿って楽しんでいたが、谷があれば丘があり、その間には坂道がある。 この坂道を歩いて見るのも面白そうだと思った。

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地形(土地の記憶)は隠しきれないものだが、東京の開発は大規模なものが多く、地形すらぶっ壊してしまうものが出てきた。 近年では玄碩坂を葬った六本木ヒルズ開発がその例だし、間もなく麻布台1丁目の大部分を占める我善坊谷を埋めてしまおうという森ビルの計画が進んでいる。

上の写真はその我善坊谷を三年坂の坂上から眺望したもの。 崖上の歴史ある逓信の建物もなくなりそうである。東京は江戸時代から、丘に身分の高いものが住み、谷にはそれを支える庶民が住んでいた。出世すると標高も上がっていくようなところがあった。

坂は東京(江戸)の文化の骨格だと思う。 タモリ氏はいつも「キワが面白い」というが、キワというのは土地の骨格であり、そこが変わると土地全体の性格が変わるのである。そこには数多の物語がストラタ(地層)の如く積み重なり、掘ればいろんなものが出てくる。

838坂を歩き終えて、埋もれたものが忘れ去られることは、祖国が無機質な、冷たいものになっていく原因だと思うようになった。タワーマンション、高層ビル、商業施設、どれもうたかたの消えゆく泡である。 土地の記憶という生き物を、表面だけ取り繕った文明で覆ってはいけない。

自分にできることは、その土地の記憶を書き留めて残すことかもしれないという思いと共に幾多の坂を上り下りしてきた。 その記憶を何度もオーバーライトするために、これからもまた上り下りするのだろう。

2018年12月30日

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2018年12月29日 (土)

円山坂(渋谷区円山町)

江戸時代の俗は聖の傍にあった。 有名な神社や寺社仏閣の傍には遊郭や岡場所(娼婦の集まる街)があった。 戦後になり、赤線を廃止し、売春など社会の裏側をクリーンにしようとしてきたが、やっているのが人間なので巧くいくはずもない。 歌舞伎町を浄化しようと都庁の輩が躍起になると、渋谷が一大風俗空間として発展してしまう。 昔は、表裏を合わせてバランスを取っていたが、そのバランスを取れない人間が主導するのでどんどんおかしな社会になっていくように思う。

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円山坂はそんな渋谷の恥部的な場所にある坂道。 通りの半分はラブホテルである。なるべく人に会わないようにと時間を選んだが、それでも数組が出入りする脇を歩く羽目になる。坂下の入口に在った円山坂の表示は、道路の拡幅時に取り払われてしまったので、現在はここが円山坂という認識を持った人はほとんど皆無である。

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坂下の向かい角はかつての「松涛温泉シエスパ」、爆発事故を起こした会員制温泉施設である。その裏手は日本でも最高地価の住宅地松涛。 渋谷の混沌の街からも目と鼻の先で、邪悪な空気に包まれた気がしなくもない。

かくいう私もこの街で働いていたことが有る。 まったくカオスな街である。当時は平気だったが、現在は1秒でもそこに居たくない街になってきた。なので、この坂が東京23区の名前のある坂838坂の最後の坂としてやむを得ず再確認に訪問したわけである。

photo : 2018/12/28

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車坂(北) (台東区上野)

「上野のお山」と時代劇で言われるのは、現在の上野公園から鶯谷駅あたりまでの広い地域を指している。 天海が徳川家の庇護のもと築いた寛永寺の寺域は皇居(江戸城)に匹敵する規模であった。

そして現在上野駅は20本程度の線路が走っているが、その駅構内全体には寛永寺の塔頭(たっちゅう)が並んでいた。その塔頭は崖の下になるので、上野のお山と往来するための坂道が通っていた。

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その坂のうち最も鶯谷側にあったのが信濃坂でこれが写真の車坂(北)の場所よりも少し鶯谷寄りの江戸時代の坂である。信濃坂のすぐ都心寄りにあったのが屏風坂。これが現在の車坂の跨線橋(両大師橋)部分とほぼ同じ位置になる。

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現在の橋は1970年頃に架け替えられたもの。 それ以前は明治中期以降何度か架け替えられている。しかし坂名のように車が通れる斜路まで作られたのは昭和に入ってからのようだ。 現在の車坂を歩く人は意外にいて驚いた。しかし歩くと結構長い距離になるので、やはりJRの公園口から上野公園に行くのが良い。

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坂下の歩道橋から見るとなかなかセクシーな曲がり方をした坂道である。モナコGPやマカオGPのコースを思い起こさせる。道路わきの謎の巨大コンクリート建造物が気になって仕方がなかったが、東北新幹線に覆いかぶさるように立っているので新幹線関連の施設なのだろうか。

坂下の町名は現在は上野だが、以前は下車坂町といい、都電の電停「下車坂町」があった。昔の町名は素晴らしい。それに比べて現代の町名は情けないほどセンスがない。役所が管理しやすいのと、人々が暮らしやすいのは違う。 どうも前者に傾いてばかりいるようなところが多すぎる。

photo : 2018/12/28

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渡邊坂(新宿区天神町・中里町)

神楽坂の早稲田通りがヘンテコな曲がり方をしている交差点が牛込天神町。 このカーブ部分とそこから北方向へ下る坂道は地蔵坂だが、途中から渡邊坂に名前を変える。 坂の途中には何の区切りもない。 坂は北野神社の参道辺りで水平になる。

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数十mの距離に地蔵坂の標柱と渡邊坂の標柱があるのに坂は同じ坂という紛らわしいところだ。 坂を下ると山吹町のバス停だが、その辺りを昔は小川が流れていた。 その手前(南側)に渡辺源次郎(源蔵)という千石の旗本の屋敷があったので、渡邊坂と呼ばれるようになった。

江戸時代の道は山吹町に下る手前でクランクになっていたので、それより下を渡邊坂、上を地蔵坂と呼んでいたのだろう。

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緩やかな坂である。渡邊坂の部分の高低差は2m、地蔵坂部分は傾斜があって8mほど高低差がある。地蔵坂上は矢来町。 小浜藩10万石酒井家の下屋敷があり、39,000坪の屋敷内には素晴らしい庭園があった。 三代将軍徳川家光は好んで小浜家を訪問し、庭を楽しんだという。 この屋敷が警備のために竹囲い(矢来)で囲まれていたのが矢来町の地名の由来になった。

10万石39,000坪の酒井家を差し置いて、千石1,750坪の旗本の名が坂名として残るとは、大したことだと思う。

photo : 2018/12/28

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