2017年11月23日 (木)

切支丹坂(小日向)

ユニークな名前の坂道である。 坂名の由来は、坂上の切支丹屋敷跡に因む。 正保3年(1646)に建てられた転びバテレン(布教のために来日した宣教師・神父の呼び名)の収容所があった場所である。 江戸幕府はキリスト教を禁止し迫害した。 バテレンを収容し監禁したが、ここでは処刑するのではなく、生活を保障してバテレンの持つ知識や情報を得るのに使われていた。(別説でここでは拷問や処刑も行われていたというものもある)

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坂に説明板はないが、坂についての情報は多い。 明治時代の地図を見ると、この切支丹坂ではなく、丸の内線をくぐった先の春日通りへ上る階段坂「庚申坂」が切支丹坂と書かれている。真相はわからないが、ここではあちらを庚申坂、こちらを切支丹坂として区分したい。

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丸の内線の車庫のある場所には昔小川が流れていた。現在の拓殖大学辺りを水源とする小川が南流し神田川に注いでいた。 石川悌二氏によると上記坂名のズレについては、江戸時代は現在の同じ坂名と坂であったが、明治時代に誤って庚申坂を切支丹坂と呼び始めたのが混乱の元になっているらしい。

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夏目漱石もこの坂について書いており、明治期は小石川から庚申坂を難儀して下ると、谷の向こうにまた険しい切支丹坂があった。 坂は赤土の坂であったため、雨などでぬかるむと下駄で上るのはなかなか困難なことだったと記述している。当時は本来の地層の土面が現れていたのだろう。 現在の東京でそういう地面を見ることは極めて難しい。

昔は曲がりくねっていて樹木の生い茂る暗い坂だったと伝えられる。

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2017年11月22日 (水)

荒木坂(小日向)

神田上水の通っていた巻石通りから北に上る坂道。 坂上は丸の内線の電車車庫。 巻石通りの標高は7mで電車車庫は20mなので、13mほどを一気の上る坂道である。江戸切絵図で見る荒木坂(アラキサカ)は短い。称名寺の位置が今と同じなので、称名寺の裏手の墓地の角までが江戸時代の荒木坂である。

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坂下に説明板がある。

称名寺の東横を、小日向台地に上がる坂である。『江戸砂子』によれば「前方坂のうへに荒木志摩守殿屋敷あり。今は他所へかはる」とある。坂の規模は「高さ凡そ五丈程(約15m)、幅二間二尺程(約4m)(『御府内備考』)と記されている。この坂下、小日向台地のすそを江戸で最初に造られた神田上水が通っていたことから、地域の人々は、上水に沿った通りを〝水道通り″とか〝巻石通り″と呼んでいる。(後略)

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この辺りは第六天町と呼ばれていたが、坂下の先の神田川(江戸川)に第六天の社があったからである。 町名は昭和41年(1966)に消滅した。 第六天は第六天神社とも呼び、元々は神仏習合の時代に第六天魔王(他社自在天)という神を祀る信仰からできた神社である。 第六天は関東を中心に東北から中部まで存在するが西日本にはないという。

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2017年11月21日 (火)

猫又坂(千石)

千川通りと不忍通りの交差点、千石三丁目は千川が刻んだ谷筋の辻である。 千川は蛇行していたが、猫又橋の場所は交差点から北東に50mほどの路地筋だった。 千川通りに並行したこの路地はくねくね曲がった道でいかにも暗渠だということがわかる道である。

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上の写真は大塚窪町公園前から猫又橋方向を見たもの。 いったん千石通りに窪み、その向こうで斜面を登るように続く不忍通りの景色である。かつてはこの道筋を都電が走っていた。 なかなか素敵な景色だっただろう。

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猫又橋のあった場所には親柱の袖石が残っている。説明板がある。

「この坂下にはもと千川(小石川とも)が流れていた。 昔、木の根っ子の股で橋を架けたので、根子股橋と呼ばれた。江戸の古い橋で、伝説的に有名である。この辺りに狸がいて、夜な夜な赤手ぬぐいをかぶって踊るという話があった。ある夕暮れ時、大塚辺の少年僧がこの橋の近くに来ると、草の茂みの中を白い獣が追ってくるので、すわ狸かと慌てて逃げて千川にはまった。 それからこの橋は、猫股橋(猫又橋)といわれるようになった。 猫又は妖怪の一種である。

昭和の初めまでは、この川でどじょうを獲り、蛍を追って稲田(千川たんぼ)に落ちたなど、古老がのどかな田園風景を語っている。 大正7年3月、この橋は立派な石を用いたコンクリート造となった。ところが千川はたびたび増水して大きな水害を起こした。それで昭和9年千川は暗渠になり、道路の下を通るようになった。石造りの猫又橋は撤去されたが、地元の故市川虎之助氏はその親柱と袖石を東京市と交渉して自宅に移した。ここにあるのは袖石の内2基で、千川名残の猫又橋を伝える記念すべきものである。(後略)」

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大通りの坂道ではあるが、千川通り付近の曲がり方も含めていい坂である。 猫又橋の脇に猫又坂の説明板もある。

「不忍通りが千川谷に下る(氷川下交差点)長く広い坂である。現在の通りは大正11年(1922)頃開通したが、昔の坂は、東側の崖のふちを通り、千川にかかる猫又橋につながっていた。この今はない猫又橋にちなむ坂名である。」

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上の写真の歩道の右、ガードレールわきの細い隙間の坂がかつての猫又坂の上部の名残である。 電車道が開かれる以前はこの右の細い部分が猫又坂だった。

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この坂の一番の景色はこの脇の名残道の上からの遠景だと思う。 100年ちょっと前は電車道もなく、人だけが通れる狭い道が台地の上に向かって続いていた。その上から猫又橋の谷を見下ろす感じに近いのではないだろうか。

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2017年11月20日 (月)

簸川坂(小石川)

網干坂の西側に簸川神社(氷川社)がある。 江戸切絵図には湯立坂から下ると千川に祇園橋が架かっていてそれを渡ると神社の参道になる。 境内には宗慶寺別當とある。 氷川神社の方が古いので、江戸時代の名所だった氷川神社の参詣客を宗慶寺が狙って分院を建てたかどうかはわからないが、そんな想像もできるほど簸川神社は賑わっていた。

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簸川坂は氷川神社の裏口にあたる道筋で、境内を抜けて坂上に出ることができる。 説明板は簸川神社と簸川坂の両方を兼ねたものだった。

・簸川神社:社伝によれば、当神社の創建は古く、第五代孝昭天皇のころと伝えられ、祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)である。源頼家(1039~1106)が奥州平定の祈願をした社といわれ、小石川・巣鴨の総社として江戸名所の一つであった。もとは現在の小石川植物園の地にあった白山御殿造営のため、元禄2年(1699)この地に移された。社殿は空襲で焼失したが、昭和33年(1958)に再建された。(後略)

・簸川坂(氷川坂):氷川神社に接した坂ということでこの名がつけられた。 氷川神社の現在の呼称は簸川神社である。坂下一帯は明治末頃まで「氷川田んぼ」といわれ、千川(小石川)が流れていた。洪水が多く、昭和9年(1934)暗渠が完成し、「千川通り」となった。神社石段下には千川改修記念碑がある。

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網干坂よりも急角度の坂である。簸川神社の裏手から一気に落ちるような下り坂は、悪天候時は難儀しそうだ。 大正時代、坂下は昔たんぼを埋め立てた後中小の工場が集まる町になった。 その後町屋に変わっていった。

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坂下を複雑に流れていた千川。 そのほとりにあった工場の一つであった「太田胃散」の本社がある。 私は太田胃散は薬の名前だと思っていたが、ここを訪れて初めてそれが社名でもあることを知った。

坂上には林町小学校があるが、これは江戸時代簸川神社の裏手が林大学頭の下屋敷だったため、林町と呼ばれていた地名の名残である。 小学校の名前にみる貴重な昔の町名がうれしい。

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2017年11月19日 (日)

網干坂(小石川)

湯立坂を下り窪町東公園交差点で千川通りを渡ると、右手に小石川植物園の塀を見るようになると上り坂が始まる。 植物園の西側には簸川神社がある。 きれいになった御殿坂とは反対に、こちらの網干坂は昔の万年塀のままで、昭和のノスタルジーが残る。

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坂の途中に説明板がある。

「白山台地から千川の流れる谷に下る坂道である。小石川台地へ上る「湯立坂」に向かい合っている。 昔、坂下の谷は入江で船の出入りがあり、漁師がいて網を干したのであろう。明治の末頃までは千川沿いの一帯は「氷川たんぼ」といわれた水田地帯であった。

その後、住宅や工場がふえ、大雨のたびに洪水になり、昭和9年に千川は暗渠になった。なお、千川は古くは「小石川」といわれたが、いつの頃からか千川と呼ばれるようになった。」

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網干坂は、氷川坂、簸川坂の別名がある。もちろん簸川(氷川)神社に由来する。 この坂の風景の魅力は植物園の樹木に尽きる。 万年塀を嫌う人もいるが、私は悪くないと思っている。 ブロック塀よりははるかにいい。

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坂上からはかなりの遠景を望むことができる。坂下の標高は10mなのに対して、坂上は25mあり、15mの高低差がある。  国土地理院の古い地図を見ると、明治から昭和にかけて「網曳坂」と書かれているが、江戸の切絵図には「アミホシサカ」と書かれているのでどこかで変わってしまったのだろうか。

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2017年11月18日 (土)

湯立坂(小石川)

茗荷谷駅前の春日通りから筑波大学東京キャンパスの方へ入ると、キャンパス沿いに下る長い坂。 湯立坂である。 筑波大キャンパスには大学の施設と付属小学校と文京区民センターがある。 キャンパス内でかなりの高低差があり、茗荷谷駅側は標高28m、裏手の占春園は11m。 当然それに沿って下る坂道も長い。

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坂上のキャンパス脇に説明書きがある。 「里人の説に往古はこの坂の下は大河の入江にて氷川の明神へは川を隔てて渡る事を得ず。故に此所の氏子とも此坂にて湯花を奉りしより坂のなとなれり。」とある。湯花というのは、湯を沸騰させたときに上がる泡のことで、神社で巫女がこれを笹の葉につけ、参詣人にかけ清める。この儀式を湯立という。

私はてっきり、ここで一服と湯を沸かして茶を飲んだくらいに思ったが、どうも神事のようだ。

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筑波大は元は東京教育大。 今はつくば市が主体なので、茨城の大学のようだが、本来は東京の大学である。政府の閣議決定でつくばを研究都市にするために移転したのがいきさつである。 この場所は江戸時代、松平大学頭(陸奥国守山2万石)の上屋敷であった。 大学頭が大学になったわけだ。

坂下の窪町東公園前から東に上る坂があり、地元ではかつてこの坂を幽霊坂と呼んでいたらしい。 こちらの坂も曲がりながら上っていくいい坂である。(下の写真)

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坂下の公園や交差点に残る「窪町」の地名。 ただし窪町小学校は坂上の茗荷谷駅前にあるが、1966年の町名変更で東京教育大周辺は大塚窪町から大塚3丁目になってしまった。 大塚窪町は現在の小石川5丁目の一部までを含んでいた。

坂下西の占春園は水戸光圀の弟である松平頼元がここに屋敷を構えた。頼元の子が頼貞で後の松平大学頭。 その親子時代の大名屋敷庭園の名残である。江戸時代はホトトギスの名所でもあったようだ。 坂下の千川あたりの湿地には蛍も多くいたと伝えられる。

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2017年11月17日 (金)

団平坂(小石川)

団平坂、別名として、丹平坂、袖引坂という名前もある。 文京区立竹早公園の南東側を千川筋に向かって下る坂道。 この竹早公園は戦前は竹早小学校だったが、空襲で焼失し廃校になってしまった。

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公園の横に小石川図書館があるが、その前に説明板がある。

「町内より東の方、松平播磨守御屋敷之下候坂にて、里俗団平坂と唱候、右は先年門前地之内に団平と申者ツキ米商売致住居仕罷候節より唱始候由申伝、年代等相知不申候」と『御府内備考』にある。

団平という米つきを商売とする人が住んでいたので、その名がついた。何かで名の知られた人だったのであろう。庶民の名のついた坂は珍しい。

この坂の一つ東側の道の途中(小石川5-11-7)に、薄幸の詩人石川啄木の終焉の地がある。北海道の放浪生活の後上京して、文京区内を移り変わって四か所目である。明治45年(1912)4月13日朝、26歳の若さで短い一生を終わった。

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つい見落としがちな場所にその碑があった。 この碑が建てられたのは平成27年とごく最近のことである。説明板もあり、「石川啄木終焉の地歌碑」とある。

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2017年11月14日 (火)

播磨坂(小石川)

桜並木で都内でも有名な坂道である。 戦後新しく造成された環状三号線で、名前は古風だが江戸の坂ではない、昭和の新しい坂である。 江戸時代は坂上は小さな武家屋敷が立ち並び、坂下は松平播磨守の屋敷だった。 松平播磨守は水戸常陸国府中藩の藩主。

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江戸時代、大名屋敷の坂下には千川が流れており、辺りは田んぼだった。「播磨田んぼ」と呼ばれ湿地帯でもあったようだ。 現代の姿は40m幅の広い道路の真ん中を半分の幅で遊歩道がついていてその中央に桜並木が植えてある。

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坂の途中にある説明板には次のように書かれている。

この道路は終戦後の区画整理によって造られたもので、一般にいわれる環三道路(環状3号線)である。 かつてこのあたりは松平播磨守の広大な屋敷のあったところである。坂下の底地一帯を「播磨たんぼ」といい伝えており、この坂道もこの土地の人は播磨坂とよんでいる。 昭和35年頃「全区を花でうずめる運動」が進められ、この道路も道の両側と中央に樹令15年位の桜の木約130本が植えられた。そして地元の婦人会の努力によって「環三のグリーンベルト」は立派に育てられている。昭和43年から桜まつりが行われ、文京区の新名所となった。

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2017年11月13日 (月)

吹上坂(小石川)

坂下は小石川植物園前の変則交差点。 ここから播磨坂と吹上坂が小石川台地に上って行くが、どちらも実は戦後の坂道。 ただし、吹上坂は路地筋としては江戸時代からあった道である。 江戸時代から、宗慶寺も善仁寺も存在した。

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写真は宗慶寺。 近代的な寺院になっている。 この辺りは戦火でほぼ焼けてしまったようで、この吹上坂がそのおかげで真っすぐに春日通りに延びた。 春日通りの向こう側の谷へ降りるのは階段の庚申坂である。

坂下に文京区の説明板がある。

「このあたりをかって吹上村といった。この地名から名付けられたと思われる。
「吹上坂は松平播磨守の屋敷の坂をいへり(改選江戸志)。」
なお、別名「禿(かむろ)坂」の禿は河童に通じ、都内六ヶ所あるが、いずれもかっては近くに古池や川などがあって寂しい所とされている地域の坂名である。この坂も善仁寺前から宗慶寺・極楽水のそばへくだり、坂下は「播磨たんぼ」といわれた水田であり、しかも小石川が流れていた。この水田や川は鷺の群がるよき場所であり、大正時代でもそのおもかげを止めていた。

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小石川は千川とも呼ばれる。 宗慶寺の坂上にあった松平播磨守の屋敷には湧水の大きな池があり、水の豊かな地だったようだ。 この池は戦後の地図からは消えているので、昭和の初めころまではあったようである。 その湧水が吹上坂の由来になっている。

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2017年11月12日 (日)

三百坂(小石川)

三百坂という名前はユニークである。 そして伝わる由来もまたユニークである。 坂の景色はというとほとんど魅力的なところはない。 東京学芸大学附属高校竹早高校のグラウンドの裏を下る普通の道で、坂下手前でくの字に曲がっている。

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坂の途中にある説明板には次のように書かれている。

「別名、三貊坂(さんみゃくざか)

『江戸志』によると、松平播磨守の屋敷から少し離れた所にある坂である。松平家では新しく召抱えた「徒の者(かちのもの)」を屋敷のしきたりで、早くしかも正確に、役に立つ者かどうかをためすにこの坂を利用したという。

主君が登城のとき、玄関で目見えさせ。後衣服を改め、この坂で供の列に加わらせた。もし坂を過ぎるまでに追いつけなかったときは、遅刻の罰金として三百文を出させた。このことから,家人たちは「三貊坂」を「三百坂」と唱え、世人もこの坂名を通称とするようになった。」

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学校の敷地の大半は松平讃岐守の下屋敷で、周辺は小さな武家屋敷がずらりと並ぶ街並みだった。 三百坂の東側の武家屋敷の裏手はほぼ伝通院境内の中にある寺院だったが今では3軒ほどしか残っておらず、往時の姿を想像するのも難しい。

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