2017年7月21日 (金)

浄瑠璃坂(市ヶ谷)

長延寺坂を坂下に戻り、外濠方面へ。 外堀通りに出る1本手前の路地を保険会館本館角で左折すると、ルーテル教会の先の辻、そこから左に曲がるとまっすぐに上る浄瑠璃坂が現れる。坂名の由来は、あやつり浄瑠璃の芝居小屋があったからだとか、江戸時代にあった光円寺の薬師如来が東方浄瑠璃世界の主だからなどの諸説がある。

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坂の標柱には、その説に加えて、「江戸時代、坂周辺は武家地であった。この一帯で寛永12年(1672)に浄瑠璃坂の仇討ちが行われ、江戸時代の三大仇討の一つとして有名であると書かれている。坂上を進み路地をいくつか曲がると鼠坂の坂上に出るが、そこにこの説明板がたっていた。

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仇討ちは極めて返り討ちのリスクが高く、それだけに成功すると江戸中から注目されたのだろう。

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2017年7月20日 (木)

長延寺坂(市ヶ谷)

「昔、この坂に長延寺という寺があった。そこに参詣する人々がこの坂を通ったことから、自然にそう呼ばれるようになったという。」と坂の途中の標柱には書かれている。江戸時代の切絵図を見るとこの辺り一面が境内だったようだ。

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谷底の道沿いは大昔の沢筋で「長延寺谷」とよばれ、この道筋は長延寺谷町と呼ばれた。一方長延寺の境内の上は左内坂町である。この坂の入口より外濠側は定火消(江戸時代の消防署)屋敷だった。

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坂上は袋小路になっていて車は進入できない。 ただいくつも抜け道の細路地があるので、別の機会に探索をしたいと思っている。 ここの町名が現在でも市谷長延寺町、市谷左内町となっているのが嬉しい。 この市谷長延寺町は袋小路だらけで本当に面白い街である。

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2017年7月19日 (水)

芥坂(市ヶ谷)

左内坂と浄瑠璃坂の間に通る谷筋は江戸時代は長延寺谷と呼ばれた。 谷の浄瑠璃坂側は和歌山紀伊新宮藩の水野家の上屋敷、左内坂側は長延寺の境内と外濠側には定火消屋敷があった。鼠坂上・浄瑠璃坂上から谷に下る道が芥坂(ごみざか)である。

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手摺り付きの緩やかな階段の向こうは長延寺谷を越える歩道橋になっている。 江戸時代はこのまま長延寺谷に下る道だったが、ゴミ捨て場になっていたので坂名が芥坂になったようだ。

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水野家の屋敷があった方の面は石垣になっているが、これが江戸時代のものかどうかはわからない。明治初期の地図を見ると谷のこっち側の方は相当な崖になっている。この階段はこのままあと20段くらい続いていたに違いない。

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坂の説明書きはどこにもないが、歩道橋の名前のプレートがあって「ごみ坂歩道橋」とある。辺りは大日本印刷の工場敷地で、それをまたぐように架けられている。 辺りには名前のない路地がいくつかあり、ぜひ別の機会に散策したい魅力がある。

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2017年7月18日 (火)

鼠坂(市ヶ谷)

中根坂の凹の底から東に路地が走る。 概ねDNPの敷地脇をくねるように通る。 この曲がり方はなかなか魅力的だ。 長い間道路わきに養生壁を作っていたが、今はどうなっているだろうか。 そのくねった道を進むと目の前に急な上り坂が現れる。

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左側の石垣もいいが右の塀も悪くない。 石垣の上は駐車場、右の塀の中はDNPの社員寮である。 江戸時代の鼠坂を想像するのは難しいが、同じような景色だったろうと思われる。 現在は安藤坂と中根坂の交差点から長延寺へ道が通っているが、江戸時代は鼠坂の坂下がその道だった。 長延寺への通りの途中からこの鼠坂が分かれていた。

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辺りは小さな武家屋敷が立ち並んでいた。鼠坂の坂上の南に折れたところは、江戸時代の切絵図には鷹匠丁と書かれている。 鷹匠が住んでいたのだろうか。 もっとも鷹匠丁というのは江戸の初期からの名前のようだから、開発が進んで鷹匠も住めなくなったか。 坂上のDNP寮の前に浄瑠璃坂の仇討ち跡の説明板がある。これについては浄瑠璃坂の所で書くべきだろう。

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2017年7月17日 (月)

中根坂(市ヶ谷)

市ヶ谷の外濠の北側は自衛隊と大日本印刷に尽きる。 左内坂上から安藤坂を下り、3方向にDNPを見ながら下って上る道がある。 見事に薬研の形をしているが薬研坂とは呼ばれない。

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江戸時代以前の地形を想像するに薬王寺町辺りを源頭とする沢がこ低い部分を流れて外濠(江戸以前は紅葉川)に流下していた。 その時代の地形の記憶が見事にここ中根坂で正体を現している。

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中根坂の由来は江戸時代にこの坂の西側が旗本中根家の屋敷だったためである。 坂脇の標柱にも、「昔、この坂道の西側に幕府の旗本中根家の屋敷があったので、人々がいつの間にか中根坂と呼ぶようになった。」と書かれている。 坂の一番低いところから東へ入るのが鼠坂。

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この坂のくぼみにはその昔拝み石があり、これを拝めば子供の咳が治ると信じられていたという。沢を渡る石橋のようなものがあったのだろう。

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2017年7月16日 (日)

安藤坂(市ヶ谷)

左内坂の坂上をさらに進む。防衛省の裏口で道は北に曲がる。 そこから先の左手は日本学生支援機構(かつての日本育英会)とJAICAなどのある敷地になる。 その先の中根坂が見えてくる。DNP(大日本印刷)の敷地に囲まれた十字路までの下りが安藤坂である。

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写真の右側の敷地が江戸時代には旗本安藤家の屋敷であったために安藤坂と呼ばれた。 安藤坂の坂上は防衛省の裏口だが、切絵図の道の形から察するに江戸時代は尾張藩屋敷の裏口だったのではないかと思われる。

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2017年7月15日 (土)

左内坂(市ヶ谷)

市ヶ谷駅前の市谷見附からマクドナルド角を入っていくと左内坂。坂の標柱には、「この坂道は江戸時代初期に坂上周辺の町家とともに開発された。名主島田左内が草創したので町名を左内坂町と呼び、坂道も左内坂と呼んだ『御府内備考』」と書かれている。

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坂上長泰寺の南側に細路地があり、実は亀岡八幡宮の境内に通じているが、まだ歩いていない。次回はここも散策したい。 ここは正式な八幡宮の裏参道のようである。 標柱にあった島田左内は明治に至るまで市谷田町、市谷船河原町、左内坂上、寺町、牛込揚場町の5町の名主だった。揚場町は飯田橋駅前だからそれぞれ濠の傍にある街を手広く管理していたようだ。

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島田左内の兄に島田久左衛門がいる。 東大久保にある久左衛門坂を開いた人物である。兄弟でディベロッパーをやっていたわけだ。 それが平成の今でもそれぞれの名を冠した坂名が残されていることは大したことだと思う。 坂上に至ると西側は自衛隊の敷地内になる。

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2017年7月14日 (金)

市谷八幡男坂・女坂

釣堀の見える市ヶ谷駅を降りる。釣堀の脇、外堀を渡る橋は江戸時代からの石垣の残る市ヶ谷橋。 ここは江戸時代城の外郭の門のひとつ、市谷御門があったところ。 交差点の名前は市ヶ谷見附。この一角で靖国通りと外堀通りが絡み合うような交じりをしている。市谷見附から市谷八幡町交差点までの100mほどは二つの通りが一つになる。そこに市谷亀岡八幡宮がある。

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目の前に立ちはだかるような男坂の階段。途中踊り場を経て60段の石段である。鎌倉の鶴岡八幡宮を分祀したので亀ヶ岡八幡宮とは洒落なのだろうか。境内には4つの神社がある。亀岡八幡宮・茶ノ木稲荷・金毘羅宮・出生稲荷の4つである。

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西側には車道になっている女坂がある。 こちらは上り下りに歩く人はほとんどいない。 この八幡宮を勧請したのは徳川ではなく太田道灌である。1479年の創建だから540年前。 茶ノ木稲荷はそれ以前から市谷にあったものだという。

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亀岡八幡宮は一度衰退しているが、江戸時代になってから再び賑わいを見せるようになった。 三代将軍家光の信仰もあって、たいそう栄えたという。境内脇にならぶ力石も7基残っており区の指定文化財となっている。

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再び男坂を下る。上の踊り場にある鳥居は珍しい銅鳥居。 1804年に建立されたものである。 江戸の雰囲気を残した境内にしばしたたずむ。 眼を閉じると200年前の喧騒が聞こえてくる気がした。

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2017年7月13日 (木)

銀杏坂(市谷薬王寺)

23区内には二つの銀杏坂がある。 芝の銀杏坂と、この市谷薬王寺町の銀杏坂である。 銀杏坂が出合う外苑東通りはこの辺り拡幅工事中。この辺りの町名は昔ながらでよい。市谷薬王寺町、市谷加賀町、二十騎町、市谷甲羅町、市谷柳町、と小さな区域を不思議な街区で区切られている。

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坂下から望む。 左手には群青色の新しい標柱がある。「坂の北側にあった久貝因幡守の邸内に銀杏稲荷があった。」とだけ書かれている。また右側にもアルミ板を張った標柱があり、「この坂道の北側に旗本久貝家の屋敷があり、屋敷内に銀杏稲荷という社が古くからあったので銀杏坂と呼んだという(『御府内備考』)」と少しこちらの方が丁寧に書かれている。

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坂そのものは緩やかでまっすぐな坂である。銀杏稲荷は明治初期の地図を見ると、上の写真の白いビルの辺りにあったようだ。この道をまっすぐ東に進むとDNP(大日本印刷)のエリアに入る。この道のひとつ北の道(牛込柳町)は茶道通りとでも呼ぶべきか。 裏千家の東京会館や道場がある。

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和風の風流な建物が道場らしい。今日庵とあった。元は二番町にあった東京道場をこちらに平成7年に移転した。庭も素晴らしいと聞く。裏千家の理事長や理事には千氏の名前を持つ人が何人もいる。千利休の子孫だろうか。 今度茶人の友人に聞いてみよう。

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2017年7月12日 (水)

薬王寺坂(牛込)

児玉坂のひとつ北の路地が薬王寺坂である。 坂の標柱はシンプルで、「江戸時代、現在の外苑東通り沿いに薬王寺という寺院があった。」とだけ書いてある。 江戸時代はこの薬王寺坂を挟んで6軒の寺があった。現存するのは、北側の長昌寺、南側の浄榮寺、長厳寺の3寺で半分しかないというか、5割残っているというか、後者だろうな。

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外苑東通りからの道は写真のように高低差を回避するようにつけられ、まっすぐに繋がる階段も新調されてブルーシートがかぶせてある状態。以前外苑東通りが2車線路だった時にはまっすぐに接道していたが、4車線に拡幅したことで坂上の高い地面が詰まってしまって苦肉の策だったのだろう。

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坂は少し上ると平坦になる。 江戸時代は坂上の先は月桂寺の境内だった。今は東京女子医大の敷地に突き当たる。この辺りのマンション名には薬王寺という名前がついたものがいくつもあると感心したら、実はここの住所が市谷薬王寺町だった。坂の南側の浄榮寺の山門は江戸時代後期の薬医門で、なかなか重厚な作りをしている。都内で江戸期の建築物が残されているケースは少ないので貴重である。立札には「常栄寺の山門 甘露門」と書かれていた。

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