2019年2月22日 (金)

聖橋(千代田区神田駿河台/文京区湯島)

JR中央線御茶ノ水駅の聖橋口にあるのがその名の通り「聖橋」である。都心部の神田川に架かる橋の中でもっとも象徴的な橋。 南側が千代田区神田駿河台、北側が文京区湯島、そして南側にはニコライ聖堂、北側には湯島聖堂がある。

橋が架かったのは昭和2年(1927)で、関東大震災(1923)の復興橋の一つとして架けられた。 聖橋の名前は一般公募で付けられたそうである。 おそらく二つの聖堂を結ぶので聖橋という考えが多かったのだろう。 長さが92mの鉄筋コンクリートの近代的な橋である。

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仙台藩伊達家の天下普請で彫られた神田川(仙台堀)の水面近くを地下鉄丸ノ内線が渡り、川岸にはJR中央線と総武線が崖にへばりつくように走る。上の写真はホームの反対側にあるお茶の水橋の上からのもの。 上京した40余年前から気に入っている東京の風景だ。

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一方、上の写真は秋葉原寄りにある昌平橋から撮影したもの。この水路はクルーズ船が沢山通る。 神田川に限らず、東京を川から見るのはいたって面白いので、徐々にブームに火が付いた感がある。 欧州では、都会の川をクルージングするところが沢山ある。 人間という生き物は水があると心が落ち着くらしい。 みんな童心に帰って風景を眺めている。

現在JRはこの聖橋側の駅を人工地盤を設置して大きく変貌させようとしている。 個人的には今の姿が好きなので、ちょっと嫌な気がしている。 無理して作った重ね張りのインフラが都市の成長を描いていて、そこに街の息吹を感じるからだ。 これを現代的なもので覆うようにすると極めてつまらない街になる。 渋谷駅も同様だ。 やっていることは1964年の東京五輪で臭いものに全部蓋をした稚拙な日本人から何一つ進歩していない。

西洋の先進国はすでにそういう街の歴史を大切にした街づくりになっているが、日本は本当に学ばない国である。 建設による経済効果でどれほどの取り返しのつかないものをなくすのかを考える人間が、財界政界に居ないからである。彼らには自分の足で街を歩いて、自分で舟をこいで川面から街を見てもらいたい。 そうすれば少しはまともな考えを持った人間が現れるだろう。

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2019年2月10日 (日)

太鼓橋(目黒川、目黒区下目黒)

江戸時代の地図で「朱引」「墨引」という区分がある。 管理する「江戸」の範囲によって付けられたのだが、朱引というのが概ね寺社奉行の管理していた範囲で、墨引は町奉行の支配範囲となっている。 だいたい朱引のほうが外側で、町奉行の墨引はその内側であるが、目黒だけは異なっている。

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左下の出っ張りである。そこを拡大すると下のようになる。

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概ね目黒川を境に江戸の内と外に区分されるのだが、中目黒村と下目黒村だけが墨引に含まれている。 これはここに龍泉寺(目黒不動)があるためで、江戸っ子たちはこぞって目黒不動参りに行くのが、今でいうと千葉県浦安の東京ディズニーランドに行く感覚に似ていたようだ。 多くは江戸から行くので、そこまでは警察としての町奉行が管理するという発想なのだろう。

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目黒川から外へ出るのには太鼓橋という橋を渡った。 権之助坂が出来る以前は、行人坂を下り、この太鼓橋で目黒川を渡っていたのだが、行人坂があまりに急なので権之助が新しい坂を切り開いた。 江戸時代は権之助坂を「新坂」、その橋を「新橋」と呼んだ。 行人坂については、ブログでも以前に紹介している。 → 東京の坂 行人坂
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浮世絵は安藤広重の『名所江戸百景』の「目黒太鼓橋夕日の岡」である。左側が目黒駅で河岸段丘が見える。 この絵が描かれたのは安政4年(1857)だからまもなく明治維新という時代である。当時の雅叙園あたりはこんな感じだったはずだ。

太鼓橋は明和7年(1770)頃完成している。 宝暦14年(1764)に木喰上人が架橋に取り掛かり、江戸八丁堀の商人たちが支援して6年越しで橋が完成した。 この橋は江戸で初めての石橋で、橋脚を立てず両側から石を積んでアーチ型にして支えるという西洋的な方法だった。 当時長崎の眼鏡橋など、西洋や中国の技術が鎖国の中でも入ってきて国内に広まったという。 目黒不動への参詣客が数多往来する道筋にこの橋はさらに集客効果があっただろう。 その結果広重の『名所江戸百景』に描かれることになったのだから。

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今の橋はまことに味気ない。 もう少し何とかならなかったかと思われてならない。 それでも橋の西側から見上げると河岸段丘を感じられる。 森に見えるのは雅叙園と大円寺の樹木のおかげである。

行人坂は大円寺が火元になった江戸三大火事のひとつ「行人坂火事」が歌舞伎などで有名である。 雅叙園の入口にお七の井戸が残されているが、江戸のあちこちにお七の話が転がっているのでほとんどが創作話である。 白山の円乗寺にもお七の墓がある。

しかしここの大円寺は火元ということで76年間も再建を許されなかったという史実もあるので、お七の大円寺がここということは間違いないだろう。

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大橋(目黒川、目黒区玉川通り)

玉川通り(国道246号線)が目黒川を渡る橋を大橋という。 最寄駅が東急田園都市線の池尻大橋である。玉川通りはかつての厚木街道。 江戸と厚木(大山)を結ぶ街道として多くの大山詣での人々で賑わった。 現在は首都高速に覆われた国道246号線が片側数車線で南北を分断する形になっているが、大橋の辺りは目黒川の氾濫でたびたび川筋が変わっているので、旧道は今の玉川通りではない区間が多い。

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地図は関東大震災前の大橋の周辺である。 この時にはすでに玉電を通すために直線的に道が通っているが昭和30年代までは片側1車線+軌道の狭い道だった。また目黒川の流程は現在とはかなり異なっている。地図の北側にあるのは駒場の陸軍、そして目黒川の南側は駒沢練兵場で、陸軍一色の街だった。昭和30年代になると、北側の陸軍大隊は警察(機動隊)や学校、病院になった。 南側はしばらくの間防衛庁が占拠していた。

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現在の大橋はいつ渡ったのかも分からないような状態になっている。頭上には大橋ジャンクションがあり、昼なお暗い。 ここは首都高でも有数の渋滞ポイントになってしまった。 全体計画を欠いた状態でパッチワークのように開通させても渋滞は永遠になくならないだろう。

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その大橋から上流の目黒川は完全暗渠になる。 ここから下流は河口の天王洲アイルまで開渠で、両脇に植えられたソメイヨシノが近年になって東京でも千鳥ヶ淵に並ぶ桜の名所になった。

私が中目黒に住んでいた1970年代は川沿いの桜はほとんど知られていなかった。 他にもっといい桜並木は五万とあるのになぜ目黒川がもてはやされるのかが分からない。 ただ、歩いて感じるのは、いろんな飲食店があって花見客の財布からお金を抜き出そうとしのぎを削っている。 商売になるからPRされる。 そうすると単純な花見客はすぐに寄ってくる。 金が落ちる。 さらに宣伝になる。 という循環ではないだろうか。
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大橋から上流は暗渠上の親水公園になっている。 水は落合水再生センターからの供給で、目黒川とは無関係の水である。 昔の目黒川はどこにもない。

『新編武蔵風土記稿』には、「大橋、目黒川に架す。土橋にて長さ七間、幅九尺、此の橋の傍らに水車在り。文化年中、村民勘右衛門と云う者願い上げて作れり。」とある。したがって江戸時代は川幅(橋長)12.7m、道幅2.7mの土でできた橋だったということになる。 洪水の度に流されて付け替えられたのだろう。 また水車は大正時代まであったようだ。

この大橋がちゃんとした鋼橋になった記録は昭和に入ってからである。 となるとそれ以前の明治40年に三軒茶屋まで玉電が開通した時はどうやって目黒川を渡していたのだろうか。 普通のコンクリート橋だったのだろうと考えている。

またこんな小さな橋を大橋と呼んだのは、かつての厚木街道の時代、大坂を下った先にある目黒川の橋は大坂の下の橋ということで大坂とセットで名付けられたという説がある。ただ 多摩川までの区間でもっとも大きな橋ではあっただろうから、地元の人々にとっては大橋だったのかもしれない。

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2019年2月 9日 (土)

千住大橋(荒川区南千住/足立区千住橋戸町)

徳川家康が江戸入城して隅田川に最初に架けられた橋が千住大橋である。 以降、江戸には350以上の橋が架けられてきたと言われる。 それだけ江戸には水路を整備したということにもなる。 その中でも隅田川に最初に架けられた千住大橋の意味合いは特別だ。
当時当然多摩川には橋はない。 もちろん昭和になって完成した荒川もない。 今の荒川は隅田川の放水路として赤羽から人工的に掘られた河川である。 隅田川は当時は荒川と呼ばれていた。 江戸の防御を考えると橋は架けない方がいい。 しかし街道を整備するのに、ここは日光街道、奥羽街道、水戸街道の要なので、渡しでは対応できなかった。
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最初の橋であったので江戸市民は単純に「大橋」と呼んだ。 そのために今の橋のプレートも「大橋」と書かれている。 両国橋などは落橋して大惨事になったが、千住大橋は文禄3年(1594)に架けられてから、明治18年(1885)まで一度も流失しなかったのはすごいことである。 もちろんその間に改修や補修は何度も行われている。
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橋の南にある荒川ふるさと文化館にある模型が江戸初期の様子を伝えてくれる。 木橋としては異常なほどの長寿命。 この橋を架けたのは伊奈備前守忠次で、彼は徳川家康に命じられて江戸周辺の大きな川の治水工事を行った。 東京湾に注いでいた利根川を、銚子方面に付け替えたのも彼の事業。 神田上水を開発した大久保主水と合わせて、江戸の街を作った主役である。 大橋の材には水腐れに強いイヌマキ(高野槙)の巨材を用いたりという工夫もあったようだ。 昔の工事レベルは本当に感心するものが多い。 ちなみに資材調達は伊達政宗が行った。
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今の鉄の橋は昭和2年(1927)に架けられた近代的なアーチ式の鋼橋で、イヌマキの橋杭はこの時まで使われたようだ。 元の木橋があまりに凄いので存在が霞みがちだが、この鋼橋も橋脚のない橋でなかなかの土木技術だと思われる。
松尾芭蕉の『奥の細道』もこの橋が旅立ちの地である。 北千住側に「奥の細道 矢立初めの地」という石碑がある。 ここから先は別世界というのはつい150年前の話。 江戸と東京はそれほど違う。
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橋の下に潜れるようになっている。 千住小橋という橋があって、そこにはここに浮く3つのブイの話が書かれていた。 このブイは木橋時代の橋杭がその下に埋まっていることを示している。 上を歩く人にはまったく気づかれないが、千住大橋にはたくさんの痕跡、史跡があって興味深い。
おそらく千住大橋について調べられることをまとめようとすると1冊の本になりかねないほどの橋であるが、その道の専門家ではないので、ここらへんで。

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2019年1月22日 (火)

淀橋(神田川 中野区中央/新宿区西新宿)

ヨドバシカメラの由来の淀橋である。 青梅街道が神田川を渡る歴史ある橋。 橋の中野区側にはかつて都電の淀橋電停があった。 現在の住所は中野区中央と新宿区西新宿の区境だが、昭和の地名では北東が柏木、南東が淀橋、西側が本町通りだった。 また関東大震災以前は北東が淀橋姿、南東が淀橋、北西が小淀、南西が本郷。

しかし大正時代以前の神田川はほぼ自然河川の流れで、この辺りも複数の流れに分流していた。南東から淀橋付近に合流してくる流れがあった。 「神田上水助水堀」と言われているが、それは江戸時代に玉川上水が出来てから、神田上水に補水する目的の人工水路の扱いだ。

しかしこの流れは地形を読む限り、間違いなく十二社の池から流下していた流れである。十二社あたりと淀橋では5mほどの高低差があり、この間を流れていた小川を利用して江戸時代に水路が開かれたのだろう。

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淀橋周辺には平成の間に高層ビルが林立した。 もっとも新しいのがパークハウスという60階建てのタワーマンションだ。 この脇にはかつて「けやき橋商店街」という素朴な昭和の商店街があった。

少し南にもかつて初台に通じる商店街があり、はっぴいえんどのファーストアルバム(通称ゆでめん)のジャケット写真になった風間商店という製麺所があった。 神田川笹塚支流を渡る商店街通りの橋「柳橋」の脇に、今もまだ古いアパート付き商店がシャッターを閉めたまま残り(風間荘)、これがゆでめんの場所である。

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青梅街道の神田川に架かる橋はいたってそっけないもの。 もっとも長さの何倍も道路幅があるので、車で通る人は橋を感じることはない。 しかし淀橋は徳川家康の江戸入城以前からある古橋である。

『江戸名所図会』にも描かれており、「淀ばしは、成子と中野との間にわたせり。大橋・小橋ありて、橋よりこなたに水車回転(マワ)れるゆゑに、 山城の淀川に準(ナゾラ)へて、淀橋と名付くべき台命ありしより、名となすといへり。大橋の下を流るるは神田の上水堀なり。」と記述されている。

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題名は『淀橋水車(ミズグルマ)』、左頁の木橋が淀橋である。 水車は左頁の最下部にある。右頁にある橋は神田川の分流に架かっていた小淀橋だろう。今は路地にその痕跡を感じることが出来る程度である。

橋の北東側に淀橋という名前以前の『姿不見の橋』についての物語が書かれている。

『淀橋』の名は、江戸時代の三代将軍徳川家光が名づけたといわれる。 古くからあるこの橋は、昔は「姿見ずの橋」とか「いとま乞いの橋」と呼ばれていた。中野長者といわれた鈴木九郎が、自分の財産を地中に隠す際に、他人に知られることを恐れ、手伝わせた人を殺して神田川に投げ込んだ。 九郎と渡るときに一緒にいた人が、帰るときにはその姿が見えなかったことから「姿見ずの橋」と呼ばれた。

江戸時代に鷹狩りに訪れた家光がこの話を聞き、「不吉な話でよくない、景色が淀川を思い出させるので淀橋と改めよ」と命じたので、それ以降は「淀橋」と呼ばれるようになった。

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2019年1月18日 (金)

勝鬨橋 (隅田川 中央区築地/勝どき)

東京の近代化のシンボルでもあるのが勝鬨橋。 2018年11月に豊洲市場移転に伴う環状2号線の開通で築地大橋に隅田川の河口の橋の座を明け渡したが、存在感の点では築地大橋は到底勝鬨橋には及ばない。

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勝鬨橋が完成したのは昭和15年(1940)のこと。 日露戦争に勝利した結果、日本の世界的地位は高まり、国家的イベントして1940年の東京オリンピックと東京万国博覧会が計画されていた。 その東京万国博覧会のメインゲートとして、新たに埋め立てた現在の晴海と豊洲の万博会場と東京市内を結ぶ橋が勝鬨橋であった。 しかし戦争の足音とともに東京オリンピックも東京万博も幻と消えたのである。

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勝鬨橋は珍しい可動橋(跳開橋)である。 これは当時隅田川を通る大型船舶が多かったためで、陸運よりも水運に重点を置いていた時代であった。 橋が跳ね上がるのは9:00、12:00、15:00の一日3回、約20分間開いていた。 戦後、昭和22年(1947)には都電が開通し、開閉回数は徐々に減少し、ついに昭和45年(1970)に閉じたままになった。 ちょうど大阪万博開催の年というのも因縁を感じさせた。

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勝鬨橋が架かる以前はここに「勝鬨の渡し」があった。 渡しというから江戸時代からかと勘違いしそうだが、江戸時代現在の勝どき地区や晴海は海の中である。明治になり、佃島から沖合の浅瀬がどんどん埋め立てられ、月島に工場が立ち並ぶようになった。 明治25年(1892)から月島の渡しが聖路加ガーデン近くにあったが、到底輸送量不足となり、明治38年(1905)に京橋区民の有志が渡しを始め、後に東京市に渡船と渡船場を寄付し、勝鬨橋が出来るまで運行された。

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橋の築地側に「かちどき 橋の資料館」がある。開館は毎週、火、木、金、土曜日という変則、入場は無料。 訪問時は高齢者のボランティアと思える老人が受付におられた。 無料だが貴重な橋の遺産や資料が沢山あって興味深い。 資料館の裏手は、2018年に役目を終えた築地市場がガランとした空間を見せていた。

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2019年1月15日 (火)

柳橋(神田川、中央区東日本橋/台東区柳橋)

神田川の最上流は井の頭公園の水門橋、最下流は隅田川に合流する直前の柳橋である。 神田川が隅田川に注ぐ場所として最初は「川口出口の橋」と呼ばれた。 また近くに幕府の矢倉があったので、矢の倉橋・矢之城橋などとも呼ばれたという。 最初に橋が架けられたのは元禄11年(1698)だが、まもなく江戸時代中期正徳年間(1711~1715)頃には柳橋という名前が定着した。 定説では橋のほとりに柳の木があったからとされている。

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その後明治28年(1895)に鉄橋に架け替えられたが、関東大震災で落橋してしまった。 現在の橋は昭和4年(1929)のもの。 それでも90年経過している。 この妖艶な曲線は戦前のものだと最初に感じたが、果たしてその通りであった。 永代橋に似ていると思ったら、やはり永代橋のコピーとしてデザインされたものだった。 しかし永代橋など隅田川の橋が総崩れになっただけでなく、この柳橋のような小さめの橋まで崩れるとは、関東大震災がとんでもない地震だったことを再認識させられる。

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柳橋から上流にかけて数多くの屋形船が停泊している。 船宿もいくつかある。 柳橋脇にあるのは小松屋。 創業は昭和2年とあるが、実は明治15年に船宿として開業したという記録もある。 この辺りには江戸時代からたくさんの船宿があった。 粋な江戸っ子はこの辺りで船をチャーターし、宴会をしながら隅田川を上る。 やがて待乳山昇天の山谷掘に入り、日本堤から大門をくぐり吉原に入っていった。 この辺りで船に乗るのは、今でいえば修学旅行のバスに乗り込む直前の学生のようなものだったろう。

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上の写真は、上流の浅草橋から柳橋を望んだもの。 今もたくさんの屋形船がある。 ここの屋形船は橋が低いので、屋根が低く作られている。 川船と橋の高さは常に相反するのである。

江戸末期には、幕府の天保の改革などで岡場所が限られてしまい、柳橋に芸妓らが集まり一大花街を形成した。 明治になると、後発の新橋と東京の二大花街と言われるようになった。 その後関東大震災や戦争を乗り越えては復活した花街だったが、江戸の粋も21世紀になる前にはその灯を消してしまった。 それでもまだこれだけの屋形船が並ぶと風情ある景色に感じられる。 

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2019年1月14日 (月)

永代橋(隅田川、中央区新川/江東区永代)

隅田川の橋には歴史のあるものが多い。 江戸時代に4番目に架けられたのが永代橋。元禄11年(1698)に、幕府が伊奈忠順(イナタダノブ)を普請奉行に任命し架けたもの。

伊奈家は代々江戸の治水に大きな貢献を果たしてきた家柄。 利根川東遷事業の大河川改修を率い、伊奈家3代をかけて現在の銚子に流れる利根川の流れを築いた。もともと利根川は江戸川で海に流れ出していた川だったので、とてつもない大工事だった。 利根川東遷事業を行った伊奈忠次の玄孫が伊奈忠順である。

伊奈家は他にも多くの事業を果たした。 玉川上水の開削は玉川兄弟と水道奉行の伊奈忠克により成し遂げられた。 また永代橋を架けた忠順は富士山の宝永大噴火の被災で、ほとんど滅亡しかかっていた足柄地区酒匂川流域の農民への多大な援助を行い、事業半ばで他界したが、村人たちは須走に伊奈神社を建立し、忠順の菩提を弔った。

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現在の永代橋は大正15年に開通したアーチ橋で、夜間にはライトアップされたりして近代の橋ながら美しい橋である。 橋長は185m、幅は22m、アメリカの技術者の援助を受けて架橋した。

しかし江戸時代の永代橋はこの場所ではなく、150mほど上流の日本橋川合流地点の北側に架けられていた。 江戸時代の広重の『東都名所永代橋全図』 は箱崎側からの眺望を描いており、左手に永代橋、右手に日本橋川の豊海橋が見える。

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江戸時代の永代橋はもちろん木橋だった。 そして明治30年(1897)に鉄橋に架け直されたのだが、それはほぼ現在の位置だった。ところがその後大正12年の関東大震災で隅田川の橋はことごとく壊れてしまった。

参考) 江戸深川情緒の研究 驚きの「記録写真」たち―80年前の新旧永代橋

従って現在の橋は関東大震災後の大正15年(1926)に新たに架け直されたもので、間もなく100年になろうとしている。 この橋が今もまだ現役で、しかも美しさを保っていることは、明治から大正にかけての日本の土木建築技術の高さを物語っている。 その結果というべきか、永代橋は、土木学会選奨土木遺産、および国指定重要文化財に指定されている。

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江戸時代の文化年間にあった落橋事故では死傷者・行方不明者1,400人という大惨事になったことは有名。

幕府は財政難から永代橋の維持管理を困難として廃橋を決めたが、町人が自分らで負担して管理するからと嘆願し永代橋は残った。 1807年9月20日、富岡八幡宮の12年ぶりの祭礼が行われた折、江戸市中から群衆が橋に詰めかけた結果、橋が重さに耐えきれず崩れ落ちた。後ろにいた人間には何が起こったかが分からないので、早く行けとばかりに押し合いへし合いするので、橋の上からどんどん人が落ちていくという悲惨な事故であった。

この話は落語にもなっているので、お時間のある折に30分ほどお楽しみください。

古典落語 『永代橋』 六代目三遊亭圓生

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2019年1月13日 (日)

二重橋(千代田区皇居)

皇居の橋で最も有名なのは言うまでもなく二重橋である。平成31年の新年一般参賀は、平成の最後として154,800人という史上最高の参賀者数となった。 平成2年は喪中で行われなかったが、平成3年~平成30年までの平均が75,793人なので、その倍が参賀したことになる。

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平成6年のピーク111,700人は前年の皇太子と小和田雅子さんご成婚後の一般参賀だったが、平成30年がそれを超えて126,720人となったのは前年末に天皇陛下が平成31年に退位の意向を発表したためである。そして平成31年は15万人超えとなった。

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一般参賀の入口がこの通称二重橋からである。東京に観光に来ると九分九厘この前で記念撮影をする。 一般には、マスコミでさえこの橋を二重橋という名前で扱っているが、実はこれは二重橋ではないことは知られた話。 ところが最寄りの駅名まで千代田線二重橋駅となっているので、大多数の人は疑いもなくこの眼鏡橋を二重橋と思っている。

皇居は皇居である以前に江戸城であったことを思い出すと、元々この橋は江戸城西の丸の登城口で、将軍らは本丸に居たので、西の丸は引退した前の将軍や世継ぎが住むところであるため、二重橋はメインルートではない。 長い江戸時代の間には何度か大火で城が焼けており、将軍が西の丸に住んだ時期もあるが、江戸の最後に近い1862年には本丸、西の丸ともに焼けてしまったので、1863年には西丸に仮御殿を建てこの通称二重橋が正門扱いとなった。その数年後に無血開城となったのである。

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通称二重橋は正式には「正門石橋」という。 その場所に建つと奥の小高いところにもう一本の橋がある。 江戸時代の橋の造りが二重に見える構造の木橋だったので、こちらを本来は二重橋と呼んでいたのである。 明治19年にドイツの会社に依頼してこの橋を架け替えて鉄橋となった。

手前の正門石橋も同年、木橋から石橋に改められた。 総花崗岩造りの美しい橋になった。 戦前はこの二つの橋を渡るのは天皇家、皇族、外国の貴賓と大使公使だけだったが、昭和23年から一般参賀が始まり国民も渡る機会を得ることになった。

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2019年1月10日 (木)

井の頭池・ひょうたん橋と水門橋(神田川)

東京には数千の橋がある。 橋の数え方は「本、基、橋(キョウ)」の三種があるが、河川に架けられるものは「本」を用い、建造物としてカウントする場合は「基」だそうだ。 坂の研究でも第一人者である故石川悌二氏が『東京の橋』というとてつもない書物をお書きになっている。 石川氏の調査のカウントではおよそ5,500橋となっているが、その踏破はさすがに真似できない。

それ以前にあまりの数の多さに、どれを選ぶかという悩みが付きまといそうである。 坂と違って、もちろん橋はまだ全踏破していない。 だから追々書き連ねていくしかないだろう。 日本橋の次はということで、その源流を今回は選んでみた。 神田川源流の井の頭池、その吐出し口に架かっている二つの橋、ひょうたん橋と水門橋である。

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井の頭池の北西奥の岸にある湧水が「お茶の水」、現在は湧水ではなく地下水をポンプで吸い上げている。 都内の自然湧水の多くは同じような状況である。 徳川家康が井の頭池の湧水を関東随一の名水と誉めてお茶を淹れたという伝説から「お茶の水」と呼ばれるようになった。

地下水の水位はかなり変動しているようだが、実は井の頭池の池底のあちらこちらから湧いている。 大雨が続いたりして地下水水位が上昇すると、ほぼ神田川の流量に匹敵する湧水が今でも湧く。 このお茶の水も地下水位さえ上がれば湧水が出てくるのである。

しかし昔と違って、現代は下水排水はすべて下水管に流され、地下に浸透することはほとんどない。 そのために地下水が減少しているといっても良いだろう。 多摩地区の住宅開発が進むにつれて、湧水量が減ったのは致し方ないことなのである。

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井の頭池の水が神田川に流れ出す手前にひょうたん池を通過する。 井の頭池と瓢箪池の間に架かっているのがひょうたん橋。  厳密には神田川の橋ではなく、井の頭池に架かる橋という扱いである。 しかしここで取り上げたのは、ひょうたん池の方が水門橋よりも見た目の雰囲気が良いからだ。

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水門橋は公式な神田川の起点なのだが、ちょっと味気ない造りの橋である。 しかし橋の脇には、石柱とともに説明板が立てられている。

「ここが神田川の源流です。 神田川は善福寺川、妙正寺川と合流して隅田川に注いでいます」 と書かれている。 神田川の全長は約25㎞程だが、東京の中小河川では珍しく、暗渠のない「全開渠」の川である。 神田川を全踏破したのは2015年~2016年にかけてであった。 区が変わると雰囲気が変わるという面白さもあって、おすすめの散歩ルートである。

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