2023年3月20日 (月)

南小岩小学校角の庚申塔(江戸川区南小岩)

江戸川区南小岩は総武線小岩駅の南の一帯で、西は新中川と鹿本通り、東は都道501号線に挟まれたエリア。鹿本通りという通り名の由来は、昔このあたりが鹿本村だったことから来ている。千葉街道(現在の国道14号線)に広がる村で、小字としては千葉街道周辺が「上」で、少し南に下り現在の南小岩小学校辺りが「中」と呼ばれていた。

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南小岩小学校の体育館がある(現在小学校は工事中)角に屋根付きの堂宇があり、その中に庚申塔が祀られている。駒型の角柱に「青面金剛」と大きく彫り込まれている。一面ゼニゴケに覆われているので分からないが資料によると上部に日月があるらしい。台石には三猿が描かれているが花で見えづらかった。

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造立年は文化7年(1810)9月で、「仲曽根講中」と刻まれている。辺りに仲曽根という地名がないか調べてみたがどうも不明である。さらに調べてみると江戸川の上流(江戸時代は江戸川と呼ばず、太日川と呼んでいた。太日川はもともと利根川の下流で東京湾に流れ込んでいたが、徳川の江戸入城後、治水の為に利根川を東に流す大工事を行い、江戸川は江戸にとって重要な舟運の道となった。その上流の流山あたりに中曽根下谷新田という土地があったらしいが、それと関係があるのだろうか。

場所  江戸川区南小岩4丁目16-1

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2023年3月19日 (日)

宝林寺の石仏(江戸川区北小岩)

江戸川区北小岩にある宝林寺は真言宗の寺院。創建は説明板によると、慶長12年(1607)に没した大秀法印が創建したとなっているので、1600年前後だろう。ここはちょうど旧佐倉道が江戸川を渡る小岩市川の渡しに設けられた御番所の前で、旅人が滞留した場所である。境内には渡場にあったという成田詣での人々が建てたという常燈明が保存されている。

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門前には大きなタブノキがあり、幹を囲むように石仏が並んでいる。右手奥には無縁仏塔の塚もあり、寺の外にこれだけ並ぶのは珍しい。このタブノキは区の保護樹のようだ。この数倍のタブノキが東大井の旧仙台坂(くらやみ坂)に在ったのを思い出した。

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左端にあるのが駒型の庚申塔で、正面に大きく「庚申塔」と彫り込まれている。造立年は文化元年(1804)10月で、「伊與田(伊予田)御番所西村講中」とあり、左右に各4名ずつ計8名の願主名が刻まれている。その右隣りは、舟型光背型の地蔵菩薩像だが、尊像右に「奉造立庚申講人数一所」とあるので庚申地蔵である。造立年は寛文10年(1670)9月と古いもの。

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隣りには2基の舟型光背型の地蔵菩薩像があるが、右の小さい方はどうも墓石らしい。左の首の部分から折れた痕跡の残る地蔵は、正徳3年(1713)6月の造立。「▢▢智三世一切仏奉造立念仏講中」と右にあり、左には「法界性切唯心造」とある。江戸中期には念仏講中も盛んだったのだろう。

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その横の満員電車に乗ったような丸彫の六地蔵はくっつき方がユニークであった。造立年等を探してみたが、文字が見当たらなかった。石質が異なるようでもあるが、大きさはほぼそろっておりもともと六地蔵として造られたものだろうと思う。

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その先の無縁仏塔の手前には板碑型の小さな墓石と、駒型の庚申塔が立っている。駒型の庚申塔は、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、造立年は貞享3年(1686)12月とある。上部に「奉供養」の文字があるが、それ以外は読み取れない。下部にあるのは願主名だろうか。脇の小さな板碑型の石塔は、延宝6年(1678)のものである。庚申塔の後ろに移っている御影石の石仏は平成元年(1989)9月に建てられた馬頭観音である。これほど新しい馬頭観音は珍しい。

場所  江戸川区北小岩3丁目23-11

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2023年3月18日 (土)

御番所町の石造道標(江戸川区北小岩)

民家の塀のくぼみに「御番所町の慈恩寺道石造道標」がぽつりと立っている。実は一度通り過ぎてしまった。駅の方角から来ると塀の陰になって気づかないのだろう。江戸時代の初め、両国から竪川(たてかわ)の北岸を東に進み、逆井(さかさい)の渡しで旧中川を渡り、小岩で現在の江戸川を渡って房総へ向かう街道が開かれた。「元佐倉道」と呼ばれ、明治8年(1875)には千葉街道と改名している。

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江戸の防衛のために江戸川には橋が架けられなかったので、ここ小岩には小岩市川の渡しがあり、小岩側に小岩市川の関所(御番所)が置かれた。番所は時代が変わって明治2年に廃止されるまで続いた。佐倉道と共に賑やかだったのはここで分岐していた岩槻への慈恩寺道である。江戸時代には霊場巡拝が庶民の間で流行し、西國、秩父とならんで坂東三十三ヶ所霊場もその対象となった。そのひとつである岩槻の慈恩寺へ向かう道ということで慈恩寺道と呼ばれるようになったのである。

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石造道標の正面には「右せんじゅ岩附志おんじ道 左リ江戸本所ミち」、右面には「左リ いち川ミち 小岩御番所町世話人忠兵衛」、左面には「右 いち川みち」とあり、造立年の安永4年(1774)8月が刻まれている。それに続いて「北八丁堀 石工 かつさや加右衛門」とある。実は株は埋まっているし、右面は狭くて見えないので説明板を参照させていただいた。道標は250年もの間ここに立ち、人々を導いてきたのである。

場所  江戸川区北小岩3丁目23-7

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2023年3月17日 (金)

伊予田の観音道標(江戸川区北小岩)

京成本線の江戸川駅の東は江戸川橋梁、川を越えると千葉県になり国府台の駅。東京の東端ともいえる江戸川駅の改札前の通りがかつての岩槻街道、元佐倉道である。この辺りは小岩村で、国府台に渡るための渡し船は小岩市川の渡しと呼ばれ、近くには番所(関所)があった。

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佐倉道は房総の諸大名が参勤交代をする街道であるとともに、江戸の町民たちはここを通って成田山への参詣をしていた。多くは江戸小網町から舟で行徳まで行く者が多かったが、陸路もまた盛んだったらしい。佐倉道が小岩市川の渡しで千葉に向かうのとは分岐して、北に向かっては岩槻街道が伸びていた。分岐してすぐにこの道標があったと思われる。

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正面には「是より浅草観世音道 二里六丁」右には「右 船橋 市川道」、左には「左 新宿道 岩槻慈恩寺迄七里」(それぞれ誤字などは現代風に修正)と書かれている。この道標の造立年は安永4年(1775)とあるが、どうも近くから移設されたらしい。こういう道標は古の人々の息吹が感じられて興味がわく。

場所  江戸川区北小岩4丁目37-2

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2023年3月16日 (木)

十念寺の石仏(江戸川区北小岩)

十念寺は真言宗の寺院で元和元年(1621)の創建。他の寺社が江戸川右岸沿いにあるのに対して、十念寺だけが現在の江戸川堤防線沿いにある。江戸川も江戸時代以前は洪水を繰返したので、もともとの川の土手はこの辺りだったことが想像できる。これより東の江戸川沿いに開拓されたのが小岩田村で、十念寺はかつての中小岩村に位置している。

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本堂は素晴らしいシンメトリーの造りで屋根瓦の曲線が秀逸である。広々とした境内の西側に墓地があり、本堂の周りはゆったりとしている。本堂と向かい合うように小堂があり、その脇に石仏石塔が並んでいる。

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一番奥に在ったのがガラスのショーウィンドウに入った板碑2基。右の板碑は延文6年(1361)の造立、左の板碑は元応元年(1319)の造立で、左側の板碑は江戸川区の有形文化財になっている。寺の創建よりもはるかに昔の板碑だが、十念寺の旧本堂の縁の下から発掘されたもの。これ以外にも十念寺では10枚ほどの板碑が発掘されたという。

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板碑の手前には大きな駒型角柱で「庚申塔」と刻まれた庚申塔がある。基壇に「講中」とこれも大きく書かれており、側面には文化10年(1813)9月の造立年がある。反対側には「右両国江 三り、左市川江 三丁、左松戸江 一り、右河原江 一り」と書かれており、江戸川区の資料には「中小岩の庚申塔河原道石造道標」と記されている。左の駒型の下部が欠損した庚申塔は摩滅が進んでおり紀年は分からない。邪鬼と台石の三猿は確認でき、側面には道標があるが右面の「左りいちかわみち」しか読めない。基壇には「庚申講中」とある。こちらは「中小岩の庚申塔市川道石造道標」という名前のようだ。

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更に手前に2基の庚申塔があり、右の小さい方は上部に日月があり尊像は猿田彦大神の立像である。造立年は元治元年(1864)11月とあるが、猿田彦大神の顔は少し怖い。左の大きな駒型の庚申塔は、元禄5年(1692)11月のもので、こちらの方が遥かに古いのだが傷みが少ない。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれており、右上には「奉供養庚申爲二世安楽大菩提也」、下部には「中小岩村 同行廿四人」と刻まれている。

場所  江戸川区北小岩5丁目32-5

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2023年3月15日 (水)

真光院の石仏(江戸川区北小岩)

江戸川区の江戸川右岸沿いにはぽつりぽつりと寺院や堂宇、石仏がある。江戸時代からこの道は村々を結ぶ幹線路だったらしく、「慈恩寺道」という名前が各所に出てくる。慈恩寺は坂東三十三ヶ所霊場第12番の寺院で岩槻にある。八潮市から水元、金町を経て小岩に南下する道がその道で岩槻道とも言われたらしい。

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真光院は真言宗の寺院で、慶長7年(1602)の創建。南葛八十八ヶ所霊場の第26番である。山門の左側には大きな角柱石塔があって、「両大師供養塔」とある。弘法大師とあとは誰だろう?調べてみると慈眼大師(天海)と慈恵大師(良源)と書かれていたが天台宗の表現なので、よくわからない。そして右側には堂宇があり、その内外に石仏が並んでいる。

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左端の自然石は馬頭観音。「馬頭観世音」と中央に刻まれており、明治41年(1908)5月の造立年に吉永という名前が書かれている。その右には駒型の庚申塔。日月はなく、青面金剛像、邪鬼のみの図柄で、造立年等も何も書かれていない。堂宇入口を挟んだ右側の駒型角柱は「青面金剛」と大きく刻まれた庚申塔。こちらは文政11年(1828)5月の造立年がある。堂宇内にある大きな舟型光背型の石仏には二つの尊像があるが何も刻まれていないので不詳。

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墓所入口の無縁仏群の中に古い聖観音像があった。尊像右に「奉逆修為妙真禅定尼菩提也」とあり、造立年は延宝9年(1681)6月と刻まれている。当時の墓石だろうが、逆修ということは生前に建てられたということだろうか。

場所  江戸川区北小岩4丁目41-6

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2023年3月14日 (火)

正真寺の石仏(江戸川区北小岩)

正真寺は江戸川区北小岩の江戸川右岸堤防の脇にある真言宗の寺院で、慶長6年(1601)に国府台合戦の戦場となったこの土地に堂宇を建てたのが始まりとされる。国府台合戦は戦国時代の1538年~1564年にかけて小田原北条氏、里見氏、その他房州の武士が戦ったもので、後期の江戸川周辺が戦場であった。

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山門をくぐると左手に南葛八十八ヶ所霊場の第27番札所の大師像がある。その近くに別の堂宇があり、そこには舟型光背型の地蔵菩薩像と思しき石仏が祀られていた。錫杖を持っていることから地蔵と判断したのだが、脇の塔婆には「南無遍照金剛」と書かれており、もしかしたら大師像なのかもしれない。

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振り返って山門脇を見ると駒型の庚申塔が立っている。入口の正真寺の説明板にも書かれていた「小岩田の庚申塔ばんどう道石造道標」である。駒型で日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、造立年は享保8年(1723)6月と書かれている。かつて小岩村の大字の中で江戸川沿いが小岩田(現在の北小岩4丁目)、西に中小岩が隣接、南にいくと伊予田だった。

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尊像左側には「これより左ばんどうみち」とあるのが道標と言われる理由だろう。側面には「葛西領小岩田村 庚申講中 観音堂別当 了圓」と書かれている。観音霊場の道ということで岩槻道か浅草道を意味していると説明板に書かれているが、漢字で書くと坂東道で余計に方角が分からなくなる。

場所  江戸川区北小岩7丁目27-5

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2023年3月13日 (月)

慈恩寺道の石仏(江戸川区)

北小岩の江戸川堤防の近くに地蔵堂がある。南から北上してきた岩槻道と佐倉道が出合う。岩槻道はここから江戸川の右岸を北上して柴又帝釈天に向かう。この辺りはもともと三谷と呼ばれた土地で、南には上小岩という集落があったが、今は北小岩の住居表示でまとまっている。

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写真の右奥、道路の突き当りが江戸川堤防。堂宇の後ろには親水緑道がある。堂宇の中には石仏が3基祀られており、中央は丸彫の地蔵菩薩で、これはかなり新しいもののようである。

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堂宇内左にある駒型の角柱には「馬頭観世音」と書かれている。造立年は弘化2年(1945)2月である。右端の大きな笠付角柱型の石仏は中央に地蔵菩薩が陽刻されている。地蔵の右には「奉供養西国坂東秩父百箇所諸願成就所」とあり、枠に「同行12人」と書かれたその下に願主名が刻まれている。また角柱の側面には「右岩付(岩槻)慈恩寺道 岩付(岩槻)迄七里」「これより左 千手(千住)新宿迄壱里 千手(千住)迄弐里半」とある。新宿は都心の新宿ではなく当然新宿(にいじゅく)のこと。この角柱地蔵道標の造立年は正徳3年(1713)7月と刻まれていた。ちなみに慈恩寺は、埼玉県岩槻市にある天台宗の古刹。

場所  江戸川区北小岩8丁目29番地先

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2023年3月12日 (日)

小岩田八幡神社の石仏(江戸川区北小岩)

江戸川区北小岩にある小岩田八幡神社は創建年不詳だがかつての小岩田村の鎮守であった。現在の拝殿は大正2年(1913)に建替えられたもの。江戸川の右岸にあたるこの地域は昔は三谷という地名であった。

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鳥居は江戸川の方角に立っている。昔から参道は東向きだった。現在はすぐに江戸川の堤防だが、昔は現在の河川敷にあたる場所には多くの人々が住んでいた。そこが三谷の中心だったのである。鳥居をくぐると右手に北原白秋の歌碑、その先には古い手水鉢があり、文政7年(1824)霜月と記されている。

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本殿にお詣りをして右側にある地蔵堂を覗いてみると、堂内の奥の観音開きの向こうに舟型光背型の地蔵菩薩立像が祀られていた。この地蔵は万治元年(1658)造立の江戸川区内最古の庚申塔(庚申地蔵)だと資料にもある。もともと三谷地蔵として住民に親しまれていた地蔵だが、昭和36年(1961)に神社に移された。

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神社は脇の細い通路から西側の道に出ることができる。その脇がおそらく宮司さんのお宅だと思われるが、そのお宅の南側に新しい地蔵堂が建てられており、その中に比較的最近のものと思われる丸彫の地蔵菩薩像と、南葛八十八ヶ所霊場の札所にある大師像が祀られている。小岩田八幡神社は南葛八十八ヶ所の第24番札所でもあり、大正期に盛んになった巡礼が今も守られている。

場所  江戸川区北小岩8丁目23-19

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2023年3月11日 (土)

長延寺の地蔵(杉並区和田)

杉並区和田の路地通りにある曹洞宗の長延寺。どこかで聞いた名前だと思って記憶を辿ってみると、市ヶ谷に長延寺坂という坂道があったのを思い出した。江戸時代には坂の上に長延寺があったはずである。現在でも町の名前は市谷長延寺町である。

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その長延寺がここ杉並の一画に移転していたとは驚くとともに探し人に出会えたような不思議な感覚であった。長延寺は文禄3年(1594)に市谷長延寺町に創建したが、明治42年(1909)に杉並の現在地に移転している。この山門の前にある建物は庫裏で、その左手に本堂がある。山門を入ってすぐ左手に地蔵堂がある。

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左の白っぽい新しいものが作恵地蔵。造立年は昭和22年(1947)5月と新しい。右の丸彫の地蔵菩薩像はぼたもち地蔵と呼ばれている古い地蔵だが造立年は不詳。寺の門前に信心深い夫婦が住んでいたが、なかなか子宝に恵まれず、この地蔵に願を掛けて男児をようやく産んだ。しかしながら産後の肥立ちが悪く、母子ともに危うい状態だったところ、地蔵が化身したという小僧がぼたもちを持ってきて母子に食べさせると、間もなく母も元気になり母乳が出て子も元気になったという言い伝えがある。この話はおそらく市谷長延寺町時代のことではないかと私は考えているが、『まんが日本むかしばなし』にも『おけ屋とお地蔵さま』という話で取り上げられた時には杉並の長延寺となっていたようだ。

場所  杉並区和田1丁目44-24

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