2019年12月12日 (木)

石井戸の地蔵堂(世田谷区大蔵)

石井戸は現在の大蔵3丁目、4丁目、5丁目辺りの古い地名。 うちの菩提寺もこの石井戸の妙法寺。 但し私はたまたま境内に墓所を買っただけでもともと長州の人間である。宗派も気にしないので、故郷では曹洞宗だったがこちらでは日蓮宗にお世話になっている。 石井戸は仙川の谷に狭い田んぼを耕していた土地である。仙川と野川の間にある丘は昔は殿山と呼ばれ、鎌倉時代の石井氏の館跡と伝えられる。

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永安寺から尾根筋を北に延び妙法寺門前を経て世田谷通りと成城への道の分岐点に達するルートは古道である。また砧公園裏から世田谷区立総合運動場裏を下る座頭ころがしを経て仙川を渡り丘を登ってこの地蔵堂前の丁字路に達する道もまた古道である。その丁字路に昔からあるのがこの地蔵。

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地蔵の造立は元文5年(1740)、地蔵の右には「念仏供養之所」とあり、左には年号と「多麻郡大蔵村」の銘がある。それ以外のことは不詳。もしかしたら妙法寺の住職に聞いたら何かご存知かもしれない。 逆戻りになるが、ここから座頭ころがし方面へ下り仙川を渡る橋が中之橋という橋で、その少し上流に江戸時代から昭和中期まで水車があったという。現在左岸の大蔵団地の建替えが始まっているが、団地が出来たころ(1959年)まではあったようである。

場所  世田谷区大蔵5丁目19-21

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2019年12月11日 (水)

大蔵氷川神社の庚申塔(世田谷区大蔵)

世田谷区大蔵は南北に長い地域で、北は小田急線祖師ヶ谷大蔵駅の少し北から、南は多摩川沿いまで。昔は環八の西側から南北に延びる横根村という村があったが、明治8年(1875)に大蔵村に併合された。横根村の住民の一部はかつて千歳船橋駅付近に開墾のために移転したので、千歳船橋の稲荷神社の氏子はいまだに横根睦という会である。大蔵村に氷川神社が出来たのは暦仁元年(1238)で江戸氏が勧請したと伝えられる。

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大蔵村の鎮守様である氷川神社は野川と仙川が形成した国分寺崖線の突端にある。地形はまるで岬のようである。神社の階段の脇にあるのが庚申塔の堂宇でなかなか立派なもの。右の2基が庚申塔、左の1基は供養塔と思われるが不詳。右端の庚申塔は駒型で高さが62㎝と小さめ、青面金剛像に三猿の図柄である。大蔵村講中の銘がある。造立は享保17年(1732)11月。

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中央の庚申塔は文字のみの駒型角柱の文字塔で極めてシンプルなもの。造立年は文化7年(1810)11月で大蔵本村講中の銘がある。ただどうも台石は当時のものだが上部は違うような気がしてならない。ちなみに大蔵村の本村は永安寺と氷川神社の周辺の小字。明治時代まではこの辺りが最も人口が集まっていた。さて、謎の左端の石塔だが、折れたのか最初からこの高さなのかはわからない。正面には「法界」とあり、寛延2年(1749)10月と彫られている。

場所  世田谷区大蔵6丁目2-6

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2019年12月10日 (火)

永安寺門前の石仏<左側>(世田谷区大蔵)

永安寺山門の左側には地蔵菩薩などが4基並んでいる。一番門側にある右端は、地蔵ではなく六十六部廻国供養塔。丸彫の立像は正徳元年(1711)10月の造立。六十六部廻国というのは法華経を66部書き写し、それを全国の66寺に奉納して廻ることだが、実際にはその僧は乞食のような姿となって米銭を乞いながら廻ったらしい。

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真ん中の2基は地蔵菩薩立像。右側は高さが126㎝ある大きなもので、念仏講中による。造立は寛文12年(1672)8月で江戸時代前期のものである。武州多磨郡菅刈荘大蔵村とある。菅刈荘は荘園の名残りのある地名。まだこの時代は純粋に念仏供養をしていたものであろう。中左の小さめの光背型の地蔵菩薩立像は明和3年(1766)10月の造立。地蔵ではないかもしれない。というのは右側に「龍花山十四世起立之」とあるためである。左端は明治19年(1886)の比較的新しいもので、大蔵村の念仏講中によるものだが、幼くして他界した男の子二人と女の子二人の弔いのようである。大蔵本村石井の銘がある。

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道路わきに立っているひときわ大きな石塔はてっきり大きさから供養塔だとばかり思っていたが、よく見ると馬頭観音であった。これほど大きいものは珍しい。中間の台石に観音講とある。年代は新しく、大正10年(1921)2月である。世田谷区の西部から狛江市にかけては、開発がかなり進行したもののまだあちこちに昔の名残がある。特に細くてまっすぐでない道はもっとも典型的である。

場所  世田谷区大蔵6丁目4-1

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2019年12月 9日 (月)

永安寺門前の石仏<右側>(世田谷区大蔵)

永安寺は天台宗の寺院で、元は鎌倉の大蔵ヶ谷(鶴岡八幡宮の東側の滑川の流域)にあったが、戦国時代の戦火で廃れていた。その鎌倉の地と同じ地名のこの地に延徳2年(1490)に鎌倉の永安寺に因んで建立され、以降大蔵の菩提寺のひとつとなった。本堂前には日本の銀杏の巨樹があり、樹齢は数百年と言われる。

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寺の境内から墓所に向かうところに六地蔵があり、その裏手に数百基の無縁仏の墓石が並んでいる。この中にいくつかは庚申塔なり地蔵菩薩なり、墓石でないものも混じっていそうだがまだ調べていない。そんな古刹の入口の山門がなかなか渋くていい。その山門前には左右にいくつもの石仏が並んでいる。

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まずは右側から紹介したい。門側から、最初は馬頭観音塔である。造立年は文政8年(1825)6月と馬頭観音としては割と古め。右面には施主名が井山七良兵衛と彫られている。続いて左から二番目は、敷石供養塔で造立は寛政7年(1795)3月とある。大蔵村と彫られており、願主は石居市右エ門、石工は六号の永井佐兵衛。三番目は真ん中にあたるが、この地蔵立像がよく分からない。首から上が一度折られた形跡があり、悪ガキの仕業か、戦災かは不明。

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右から二番目がこの列では最も大型の石塔。比較的新しく明治33年(1900)2月造立の石橋供養塔である。「高津村二タ子(二子)」とあるので川崎市の高津にあった二子村のものだろう。江戸時代は現在の国道246号の川崎側周辺は二子村であったが、東京側には二子村は存在しなかった。これも多摩川が暴れ川である所以である。最後に一番右は馬頭観音塔。大正9年(1920)7月のもので、願主は井山伊三郎とある。

供養塔は種類も多くブログに書いたり書かなかったりするが、いろんな情報が含まれていることがあってこれもまた興味深い。

場所  世田谷区大蔵6丁目4-1

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2019年12月 8日 (日)

野川沿いの庚申塔(世田谷区宇奈根)

野川沿いに2基の庚申塔がある。なぜこんな場所にポツンとあるのだろうと不思議に思う。場所は東名が頭上を越えるところから200m程野川の右岸を下流に進んだところ。宇名根は標高でいうとほぼ15m~16m、近くの多摩川の平水時の水面標高が9m~10mなので、5mも水位が上昇すると越水して水害に見舞われる可能性がある。またこの辺りの多摩川はここ数百年の間だけでも大きく右岸左岸に流れが変わっている。その為に川崎市にも宇奈根という地名がある。元は陸繋ぎだったのが多摩川の氾濫で東京と神奈川に分かれてしまったのである。

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屋根も堂宇もないがなかなかいい彫りの庚申塔である。左側は高さが71㎝程、駒型で青面金剛像に邪鬼・三猿の図柄、造立年は享保2年(1717)11月である。武州多麻郡世田谷領宇奈根村講中十五人の銘がある。右側の庚申塔は57㎝とちょっと小柄の駒型、こちらは青面金剛像のみ(日月はあり)で造立年は寛政2年(1790)2月。武州世田谷領宇奈根村の銘がある。

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何故ここに庚申塔があるかという疑問に一つの答えは筏師の話にあった。多摩川は度々氾濫を起こし、流れを変化させたが、野川が合流するこの辺りはワンド(入江)になることが多く、流れが淀む場所だったという。奥多摩や青梅から筏を流してくるとなぜかこの辺りの淀みに捕まってしまうことが多く、しばしば浅瀬に乗り上げて動かなくなってしまうことから「筏の昼寝場」と呼ばれたという。この庚申塔の場所はまさにその筏の昼寝場にある。ということはこの界隈に石仏を残したと言われる筏師たちが絡んでいる可能性が極めて高いということ。だから昔から家のほとんどないこの場所に庚申塔が立っているのだと、一人合点している。もちろん史料などの証拠はないが。

場所  世田谷区宇奈根3丁目13-3

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2019年12月 7日 (土)

観音寺の石仏(世田谷区宇奈根)

宇奈根の観音寺は東名高速道路のすぐ南側にある。東名で多摩川を渡る直前に左にわずかに「岩井園芸」の屋上看板が見えるが、観音寺はその隣り。しかし境内に入ると騒音はあまり聞こえない。意外に感じた。観音寺の創建は永生年間(1504~1521)に小田原で開かれた円正寺がもと、当時は北条が小田原城におり城下にあったが火災で焼失し、元亀年間(1570~1573)に宇奈根に移ってきた。

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北条氏の家臣で荒井という人物がおり、結局宇奈根に帰農した形だったのだろう。その後1590年に北条氏は秀吉に小田原城を攻められ滅亡しているので、荒井家としては正しい選択だったのではないだろうか。観音寺山門脇にある大銀杏は樹齢500年と言われるので、その辺の時代の流れも70歳から100歳の頃に見ていたに違いない。

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山門を入って右側にいくつもの石仏が並んでいる。その中央にあるのが2基の地蔵菩薩。左の丸彫地蔵菩薩立像は台石の文字が風化で消えてしまってほとんど読めないので年代も不明である。武州宇奈根村というのがかろうじて読める。右の舟型光背型の地蔵菩薩立像は、寛文12年(1672)8月の造立。念仏講中によるものである。台石に宇奈根とある。

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地蔵の左にあるのが3基の石仏。左は、駒型の庚申塔で、青面金剛、三猿の図柄。造立年は宝永7年(1710)9月。そのとなり、中央の像は摩滅がひどく何もわからない。右の庚申塔はおそらく笠付の角柱型だったのが笠が無くなってしまったようである。青面金剛と三猿は分かるが、文字はほとんど読めない。

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地蔵の右側には供養塔が2基。左側は明治31年(1898)10月造立の敷石供養塔。右側は平成15年(2003)の敷石供養塔。左側の明治の供養塔の施主は荒井倉吉、右の施主は荒井一男。北条氏の家臣だった荒井氏の末裔であることは多分間違いないだろう。明治の供養塔には「為先祖代々一切精霊」とある。

場所  世田谷区宇奈根2丁目24-2

 

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宇奈根氷川神社の庚申塔(世田谷区宇奈根)

宇奈根の地名の由来ははっきりしない。この辺りの多摩川右岸左岸は高い頻度で氾濫する暴れ川の多摩川によって、しばしば地形の大変貌を遂げてきた。野川が多摩川に流れ出る地域で、水害記録も恐ろしく多い。史料によると、1704年、1721年、1742年、1749年、1757年、1766年、1780年、と10年に一度の勢いで多摩川の洪水に襲われている。昭和に入ってからは戦後のカスリーン台風(1947 国内死者不明1,930人)、キティ台風(1949年 同160人)の時に氾濫している。

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そんな宇奈根の鎮守がこの氷川神社。以前は観音寺の別当であったが、明治40年(1907)に鎮守として独立、しかし戦災で社殿が焼失し、昭和の後期になってやっと再建した。広い境内にまっすぐな参道が印象的である。世田谷の多摩川近くには氷川神社が多い。大蔵、喜多見、宇名根とも鎮守は氷川神社だが、大宮の氷川神社を本社とする氷川神社は素戔嗚尊を祭神とした水に関係の深い神社であるから、多摩川の氾濫にたびたび襲われたこの地域には氷川神社が鎮守となるのであろう。

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神社の最初の鳥居の左に小さな堂宇があり、庚申塔が祀られている。昔は堂宇はなく野ざらしだったが、なかなか素晴らしい堂宇になっている。駒型の庚申塔で青面金剛、二鶏、邪鬼、三猿が彫られている。造立は宝暦7年(1757)11月、左面に武刕多麻郡世田谷領宇奈根村とある。下部には庚申講中として8人の名前がある。250年もの間村の人々に守られてきたことを感じられる庚申塔である。

場所  世田谷区宇奈根2丁目13-19

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慶元寺境内の諸仏(世田谷区喜多見)

慶元寺は広い寺である。幼稚園を含めるとざっと33,000㎡(1万坪)ある。そのうち4分の1が墓所で、墓所の中には三重塔もある。この三重塔が建てられたのは平成5年(1993)とごく最近の事。しかしなかなか見事な三重塔である。

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広い墓所なので墓石でない石塔を探すのはなかなか骨が折れるが、概ね墓所入口近くにあるのでその辺を集中的に見て回った。無縁仏の中にも庚申塔らしきものが混じっているそうだが、今回は二つの地蔵立像を見つけた。

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舟型光背型の地蔵菩薩立像。造立年は明暦2年(1656)10月と古い。台石と合わせて162㎝の高さがある。念仏供養とあるので念仏講中のものだろうか。脇に武刕多麻郡喜多見村の銘がある。

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もう一基は明和3年(1766)10月造立の地蔵菩薩立像。願主は単独で河野市郎兵衛とある。世田谷領吉沢講中の銘がある。この場所は有史以前から人間が住着いていた土地で、境内にもかつては7基の古墳があったが、現在では4基が残されているという。寺の周辺にも古墳が多い。

場所  世田谷区喜多見4丁目17-1

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慶元寺六地蔵と念仏車(世田谷区喜多見)

慶元寺は喜多見の古刹、境内参道に江戸重長の像がある。ここは江戸の名前の由来となった江戸氏に深い係わりのある場所。喜多見は昔は木多見と書いた。鎌倉時代、江戸氏が源頼朝に助力し喜多見を含む武蔵七郷を領地にしてからで、当所の本城は現在の皇居の紅葉山あたり。室町時代に江戸氏は太田道灌に江戸城を明け渡し、一族の多く住む喜多見の地に移転した。それ以降は小田原の北条氏の配下の世田谷の吉良氏に仕えたりしていた。天正10年(1590)に秀吉に攻められ北条氏、吉良氏が滅亡すると、徳川氏に遠慮して江戸の姓を喜多見に変えて徳川の世も切り抜けたものの、元禄時代にお家騒動があり喜多見家は取り潰しになってしまった。

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慶元寺は江戸氏の氏寺として皇居紅葉山に文治2年(1186)に創建、江戸氏が喜多見に移転するとともに現地に移った。現存する本堂は享保元年(1716)の建立で世田谷区で最も古い建造物である。木造で300年は凄いものがある。また小田急線脇の喜多見不動堂はこの慶元寺の境外仏堂で明治になってから建てられている。

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山門から墓所の方に向かうと立派な堂宇に入った六地蔵が目に入ってくる。六地蔵の堂宇としてはかなり立派である。地蔵の造立年は宝暦10年(1760)。台石にびっしりと文字が彫り込んである。願主は河野平四郎、惣村念仏講中による立像、武刕多摩郡喜多見村の銘がある。また石工和泉屋とあるが、これは地元狛江市和泉の石工だろうか。

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六地蔵の傍に念仏車がある。喜多見の筏道の路傍にある念仏車の方が遥かに古いが、この念仏車の造りは昔のものとほぼ同じである。念仏を唱えながら回すとお経を一巻読んだのと同じ功徳があると信じられている。正式には摩尼車(マニグルマ)という。

場所  世田谷区喜多見4丁目17-1

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中道の庚申塚(世田谷区喜多見)

民家園のすぐ裏を通るのが昔の田渕道、世田谷通りの「二の橋」交差点から分岐して喜多見の知行院脇を抜けるのが筏道、念仏車と地蔵・庚申のあるところで分岐して東名高速下まで繋がっていたのが中道である。江戸時代から明治大正期にかけての喜多見の中心は知行院の周辺であった。現在のような街の様子になったのは昭和に入って小田急線が開通してからで、それまでは筏道周辺が賑わっており、知行院の周辺にはたくさんの商家があった。

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そんな中道と、後に出来た水道道路(荒玉水道道路)の辻にあるのが庚申塚。地元では古くから庚申塚と呼ばれているが、庚申なのかどうかは分からない。道路わきの駐車場の塀の下にあり、高さ1尺程度の凹みに石碑がある。現在では書かれた文字もほとんど読めないが、史料によると、「左り ふちう(府中) 八王子」、「右り のぼりと」とあり、「武刕多摩郡…」と書かれているようだ。

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かつての筏師たちは喜多見辺りで休むことも多く、道中の安全を祈願感謝して筏道周辺にこういう石仏を置いたと伝えられる。中道も筏道のバイパス的な道であったので、所々に石仏が残っていたのであろう。この石仏についてはほとんど情報はなく、いろいろな想像を掻き立てられる。

場所  世田谷区喜多見5丁目22-8

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