2020年4月10日 (金)

意安地蔵尊(杉並区元天沼)

意安地蔵尊があるのは天沼児童遊園の角、ちょっと変形の辻に堂宇にはいって祀られている。向かいの角には関商店という昭和チックな商店があるが、営業はしていないようだ。たばこの袖看板とコカ・コーラの看板、脇にはロッテガーナチョコレートの色あせた看板が残っている。

Dscn1797_20200331213801

意安地蔵尊の堂宇の上に扁額っぽく「意安地蔵尊」と書かれている。しかしこの名前は最近のものである。元々は行き倒れの人々を供養する地蔵で「稲穂地蔵」と呼ばれていた。2006年に意安地蔵尊と名付けられたのだが、「意安」の意味が分からない。この変形辻では昔から一度も交通事故が起こっていないといい、それで意安地蔵尊となったらしいのだが意味が分からない。

Dscn1800_20200331213801

意安地蔵は舟形の地蔵立像。造立年は享保2年(1717)10月。「本願主 源左衛門」とあり「念佛講中43人」と彫られているので、天沼村の多くの人々がかかわってきたのだろう。こういう路傍の地蔵はぜひ後世に伝えていってほしいと思う。

場所  杉並区本天沼2丁目23-11

| | コメント (0)

2020年4月 9日 (木)

民家駐車場の庚申塔(杉並区本天沼)

早稲田通り、本天沼一丁目交差点のひとつ東側の路地を南に入る。数十m南へ進むと民家の駐車場、万年塀の脇にいささか場違いな立派な庚申塔が立っている。場所を知らなければたどり着けないようなところである。

Dscn1792

民家に地蔵や庚申塔が祀られているケースは時々ある。一番多いのは屋敷神としての稲荷だろう。ただ庚申塔の場合堂宇が建てられてその中にあるケースが多い。このように無造作に立っていることはあまりない。しかし、ゼニゴケが付着することもなく、花も供えられて大切に守られていることがわかる。

Dscn1793

笠付角柱型の庚申塔は青面金剛像に邪鬼・三猿の図柄で保存状態の良いものである。造立年は元禄14年(1701)11月で、富士山噴火の6年前のもの。「武刕玉郡天沼村」とあるので、武蔵国多摩郡天沼村の庚申塔である。明治初年の地図を見るとこの辺りには民家はない。早稲田通りの筋が昔からの街道筋で、長命寺道、石神道などと呼ばれたのでその道沿いにあったものを移設したのではないだろうか。そこは南の天沼村、北東の下鷺宮村、北西の下井草村の3村の村境であったので、塞ノ神を祀ったとしても不思議はない。

場所  杉並区本天沼1丁目19-20

| | コメント (0)

2020年4月 8日 (水)

阿佐谷庚申堂(杉並区阿佐谷北)

早稲田通り沿いにある堂宇。堂宇で早稲田通りから斜めに分岐する道と早稲田通りの間にある。この分岐点は江戸時代からあった分岐点で、路地の方の道は天沼村へ抜け青梅街道に出る。現在の早稲田通りも江戸時代からの道筋で長命寺道あるいは新高野道と呼ばれ、妙正寺川を渡り下井草村に向かう道であった。辻の南側一帯はお伊勢の森と呼ばれ神明宮の鎮守の森だった。すぐ東側には捨て場と呼ばれた家畜の死骸の捨場があり、そこにあった馬頭観音が現在世尊院墓地にある立派な馬頭観音である。

Dscn1791

お伊勢の森というものの、実は神明宮とお伊勢の森の間には桃園川が流れ水田地帯があった。おそらくはその北東側に森が広がっていたのではないだろうか。明治初期の地図には楢林の記述があるので、どんぐりの豊かな森だったのだろう。堂宇は阿佐谷庚申堂というものの、庚申塔は1基しかない。多数決でいうと地蔵堂(地蔵2基、庚申塔1基、阿弥陀如来1基、供養塔1基)。

Dscn1779

右から紹介すると、まずは舟型の阿弥陀如来立像。造立年は正徳5年(1715)9月で、「奉造立阿弥陀佛像念佛講成就所 願主 村主六左衛門 講同行19人」とある。その左隣は舟型の地蔵菩薩立像。享保7年(1722)10月の造立で、「奉造立地蔵墓猿二世安楽所」とある。また「武刕多麻郡阿佐ヶ谷村」の銘があり、「願主 益田杢右衛門 講中26人」とある。

Dscn1780

三番目にあるのが笠付角柱型の庚申塔で、青面金剛像に三猿の図柄で、邪鬼はよく分からない。「奉造立庚申供養 一基二世安楽所 武刕阿佐ヶ谷」と書かれている。側面には蓮花模様があった。その左隣は舟型の地蔵菩薩立像。宝永7年(1710)10月のもので、「奉供養地蔵菩薩一基為菩提也 武刕多摩郡阿佐ヶ谷村 願主 村主六左衛門 同行15人」とある。一番右の阿弥陀如来と同じ願主である。左手前に小さな自然石の石碑があるが、正面には「供養塔」とだけありそれ以外は不詳。この堂宇の建設時に立てたものだろうか。

場所  杉並区阿佐谷北5丁目42-1

| | コメント (0)

2020年4月 7日 (火)

阿佐谷北の小石仏(杉並区阿佐谷北)

阿佐ヶ谷駅の北側には素敵な散策スポットがある。駅からすぐにあるのが世尊院と阿佐ヶ谷神明宮、神明宮の南には欅屋敷(非公開)があり、意外と緑豊かな街になっている。欅屋敷の南側の砂利道は東京にいることを忘れさせてくれる道。そこからさらに北に住宅街を歩いていくと、もう一ヶ所、欅屋敷を彷彿とさせるような路地がある。場所は阿佐谷北5丁目8番と9番の間の道である。

Dscn1769

昔ながらの竹垣が砂利道の左右に延びている。森の間を抜ける50mあまりの私道だが、実に気持ちが良い。欅御殿同様個人宅なので、道を歩くことしかできないが、素晴らしい小径である。この道をさらに北に進むと路地から少し広い路地に斜めに出る。それを戻るように南西に向かうとすぐに小さな祠がある。

Dscn1770

堂宇には小さなお地蔵様が座っている。地蔵菩薩坐像で宝珠を持っている。大きさは38㎝程しかない。見てみたが文字は見当たらず、杉並区の資料を見ても、年銘は無いとある。見た感じはそれほど古くなく、明治から大正期のもののような感じである。

場所  杉並区阿佐谷北5丁目10-8

| | コメント (0)

2020年4月 6日 (月)

福泉寺墓所の地蔵(杉並区高円寺北)

阿佐ヶ谷駅の東側、高円寺駅との間は旧地名では馬橋と呼ばれたエリア。現在杉並学院高校があるがその南側の道は昭和中期までは桃園川の開渠だったが現在は完全な暗渠になっている。桃園川には阿佐ヶ谷川という支流があり、荻窪駅付近から現在の阿佐ヶ谷駅を東に向かって流れていた。阿佐ヶ谷駅前からこのエリアは現在でも大雨が降ると冠水する。川が合流する周辺は当然ながら水田として適した土地であり、かつては馬橋田圃という水田が広がっていたが、大正時代頃から開発が進んで田んぼは無くなった。

Dscn1760

そんな路地裏に広い墓所がある。門柱に福昌寺跡墓地とあり鉄格子扉は施錠されていた。江戸時代、ここ馬橋では馬橋稲荷神社の別当寺として福昌寺があった。馬橋村の西に在り、阿佐谷村に接する土地で、福昌寺は寛永年間(1624~1644)の創建らしい。しかし廃仏毀釈の折、明治7年(1874)に中野宝仙寺に吸収された。しかし墓所だけは現在もまだ残っているという訳である。

Dscn1763

墓所の門から近いところに地蔵が2体並んでいる。左の地蔵は大正3年(1914)5月の建立で、豊多摩郡杉並村字馬橋の銘がある。右の地蔵は10頭身のスタイルの良い地蔵。寛政元年(1789)10月の造立とかなり古い。武刕多摩郡野方領馬橋村の銘がある。光明真言供養とあり、馬橋村の女念仏講中によるものである。墓所にはこの他元治2年(1865)の馬頭観音もあるらしいが施錠されており確認できなかった。

場所  杉並区高円寺北4丁目8

| | コメント (0)

2020年4月 5日 (日)

世尊院墓所の石仏【2】(杉並区阿佐谷北)

世尊院墓所には沢山の石仏があるので多少割愛したい。現在の阿佐ヶ谷駅周辺は南北に中杉通りが貫いているが、昔はパールセンター(アーケード商店街)が鎌倉街道だった。阿佐ヶ谷駅から北は松山通りと呼ばれ、世尊院の南から東へ分岐していたのは堀ノ内道。古くから阿佐ヶ谷駅は交通の要衝だったのである。それゆえにここに宝仙寺が起こり、世尊院が残されたのであろう。

Dscn1745

そんな交通の要衝だから馬頭観音は当然あるべきで、ここの馬頭観音はひときわ立派なものである。罵倒観音の造立年は天保11年(1840)2月。しかしこの馬頭観音は阿佐谷6丁目86より移設されたもの。その場所は蓮華寺に近く、現在の早稲田通り沿いだったようだ。

Dscn1754

上の写真は地蔵菩薩2体と庚申塔である。庚申塔は駒型で青面金剛・邪鬼・三猿・一鶏の図柄、右側には「奉供養庚申講中為二世安楽也講中18人」とあり、左側には造立年と「武刕多摩郡阿佐ヶ谷村願主朝倉与兵衛」の銘がある。造立年は享保7年(1722)11月である。真ん中の小さな地蔵は享保3年(1718)10月のもので、「阿佐谷村」の銘がある。左の丸彫地蔵尊は享保6年(1721)8月の造立で、地蔵は両方ともかなり風化が進んでいる。

Dscn1737

こちらの地蔵は天明2年(1782)10月の造立で、「阿佐ヶ谷村向女念仏講中」とある。ただし台石には、「願主大野又七母 嘉永4年(1851)9月再建」とあるので、江戸時代末期のものだろう。元々は阿佐谷1丁目70にあったという記録があるが、この旧住所が古い地図でも見当たらない。もし700番前後ならば今の杉並区役所辺りになる。

場所  杉並区阿佐谷北1丁目26-6

| | コメント (0)

2020年4月 4日 (土)

世尊院墓所の石仏【1】(杉並区阿佐谷北)

JR中央線阿佐ヶ谷駅のすぐ北、中杉通り沿いに東側には世尊院の本院、西側には世尊院の墓地がある。中野区で最も反映した寺院は宝仙寺だが、現在の世尊院の場所にはかつて宝仙寺があった。室町時代に宝仙寺が中野に移転したため、その子寺であった世尊院がここに残されたのが始まりのようである。

Dscn1728

墓地の鉄格子の開き戸は大概開いている。入って中杉通り沿いに進むと、多くの石仏が並んでいる。上の写真は六地蔵と諸仏。後ろの六地蔵は正徳4年(1714)9月の造立。手前に並ぶ諸尊はほぼ墓石のようである。

Dscn1741

少し進むと一つの台石に地蔵菩薩立像と如意輪観音像が並んでいる珍しいタイプのものがある。どちらも阿佐ヶ谷念仏講によるもので、造立は大正10年(1921)とおよそ100年前。ともに9月とある。私の亡父が大正生まれだったので、それほど昔には感じないが、その時代にも念仏講が盛んだったことがわかる。

Dscn1748

少し奥に行くと供養塔がある。間にはいくつかの石仏があるがそれは後述したい。この供養塔はちょっと不思議。中央には「奉唱満供養道光智運法師」、左右には「光明真言三千万遍」「普門品六万八千巻施主朝倉〇〇」とあるので経典を納めたのだろうか。ところが造立年が、左側には安永8年(1779)、右側には安永7年(1778)、そして下部には明治43年(1910)とあるので一体どれが正しいのか分からない。こういう不思議なものもあるのである。

場所  杉並区阿佐谷北1丁目26-6

| | コメント (0)

2020年4月 3日 (金)

桜丘の子育地蔵尊(世田谷区桜丘)

私が住んでいる街だが、結構野仏がある。区の教育委員会もいろいろ調べているようだが、昭和の後期に出版したものはどうもやっつけ仕事らしく、漏れが多い。桜丘5丁目に2つの地蔵があるがどちらも資料には載っていない。もちろんWebを探しても出てこない。こういう石仏を見つけると心が躍る。

Dscn1685

場所は千歳通りがくねっているあたり。かつては品川用水が通っていたほとりである。私も以前から存在は知っていたが、調べてみて驚いた。角柱に陰刻で地蔵座像が彫り込んである。その下部には、「施主 …(判読不可能)…文化元年(1804)11月」と彫られている。右側面には「大山道」、左には「横根村」と大きく彫ってあるが、大正時代まで千歳船橋駅の南側は横根という地名だった。

Dscn1694

その数軒先にまた小さな地蔵が立派な堂宇に佇んでいる。こちらも地蔵座像のようだが、顔は少し恐ろしい。詳細はまったく分からない。しかし、こういうものが散見されるのは有難いものである。

場所  世田谷区桜丘5丁目16

| | コメント (0)

2020年4月 2日 (木)

蓮華寺の庚申塔(中野区江古田)

哲学堂公園の北にある広い寺院が蓮華寺である。蓮華寺の東側を南北に走る哲学堂通りは現在は新宿区と中野区の区境、江戸時代は葛ヶ谷村と江古田村の村境であった。蓮華寺は日蓮宗の寺院で、創建年代は不詳だが、室町南北朝時代と伝えられる。哲学堂を造った井上円了の墓所も境内にはあった。その井上円了の墓所の近辺に庚申塔がぽつぽつとある。

Dscn1670

上の写真は板碑型の文字塔の庚申塔。中央には「南無妙法蓮華経 南無千眼大菩薩」とあり、右左には貞享3年(1687)12月という造立年に加え、「同行12人 南無多寶如来 南無釈迦牟尼仏 」と彫られている。下部には蓮の花のレリーフが見られる。

Dscn1668

もう一つの板碑型庚申塔は、享保19年(1734)12月の造立。中央には「南無妙法蓮華経 南無帝釈天王」とある。こちらは下部には願主名らしきものがずらりと彫られているが、よく読めない。上部には日月がくっきりとみられる。

Dscn1671

こちらは駒型の庚申塔で板碑型のものと比べると小型である。造立年は宝永元年(1704)11月。下部には三猿がある。これにも南無票蓮華経とあり、日蓮宗の寺院らしい。

場所  中野区江古田1丁目6-4

| | コメント (0)

2020年4月 1日 (水)

路傍の小地蔵(練馬区旭丘)

上板橋の千川通りを越えて北に向かうと、練馬総合病院の手前に小さな堂宇がある。千川通りはかつての千川用水の跡、もとは用水路と道が平行していたものを広い車道の道に作り替えてある。明治・大正・昭和戦前期のそれぞれの地図にはこの道から少しだけ北に入ったところに石塔の地図記号があり、その場所を追うと現在もこの小さな地蔵堂が見つかった。

Dscn1652

ブロックを組み上げただけのシンプルな堂宇だが、昔はどうだったのだろう。近づいてしゃがんで中を覗き込むと、花やいろいろな飾りが巻いてあって彫られた文字がなかなか読めない。唯一読めたカギになる文字が「癸亥(みずのとい)」であった。

Dscn1657

江戸時代の癸亥の年を調べてみると、文久3年(1863)、享和3年(1803)、寛保3年(1743)、天和3年(1683)、玄和9年(1623)の5回だが、年号制だと4つが3年という驚くべき偶然。石の具合から考えて文久、享和、寛保のどれかだろうと思われる。しかし練馬区の資料にもまったく触れられていない。それなのに過去の地図には載っているという不思議が何とも言えない。

場所  練馬区旭丘1丁目12-6

| | コメント (0)

より以前の記事一覧