2025年12月15日 (月)

杉田家馬頭観音(国立市谷保)

甲州街道(旧国道20号線、現在は都道256号線)に面した広い旧家の門に立っている駒型の馬頭観音がある。旧家は杉田家。昔は甲州街道沿いに民家が張り付いており、谷保村の中心に近いところにあたる。

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花崗岩で造られた駒型の馬頭観音は、正面に「馬頭観世音」の文字があるシンプルなもの。昭和28年(1953)の造立だが、再建とあるので以前の古い馬頭観音があったのだろう。それがどんなものなのかはわからない。

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杉田家の前を通る甲州街道は、平成19年(2007)に南の方に日野バイパスが開通すると、そちらが国道20号線になり、もともとの国道20号線は都道256号線となったが、こちらが甲州街道であることに変わりはない。この甲州街道は車道としては4車線だが大型車と並んで走るのは難しい狭い4車線である。1964年の東京オリンピックの際に多摩川の砂利を運搬するのに2車線を4車線にしたが、旧街道筋の為家が立ち並んでおり、結果歩道を削って無理矢理4車線にしたという改悪道路の典型である。行政は失敗を反省することなく、改善もせず、結局国が都に放り投げた形になっている。

場所 国立市谷保7078-1

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2025年12月12日 (金)

江戸街道庚申塚(国立市西)

国立市は武蔵野に開発された都市で、大正時代の末期に箱根土地(株)によって谷保村北部の山林が開発された折に、国分寺と立川の間なので国立という名前を付けた。紛らわしいが、国立音大は国立市ではなく立川市にあり、国立市からかなり離れているが、もとは谷保村にあったことで今も国立音大と名乗っている。国立市に今もある有名大学と言えば国立(こくりつ)の一橋大学である。市内の小学校も幼稚園も「国立」と地名を冠すると知らない人には「この街には国立の学校が沢山ある」と勘違いさせそうである。

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そんな国立市も開発前の大正以前は武蔵野の山林でおおわれて、一部甲州街道や村街道である江戸街道が東西に延びる人口過疎地帯であった。今は北に学園通り、南にさくら通りという生活幹線道路が通る間に、昔の江戸街道があった。その道筋は今も健在である。江戸街道が分岐する角の家に覆屋があり、風化した庚申塔が祀られている。

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笠付角柱型の庚申塔は摩滅が激しく、現在では文字はほとんど読めない。情報は国立市の資料から参照する。かつての江戸街道に面したこの庚申塔には、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれており(今は視認困難)、造立年は寛保元年(1741)とある。「奉造立庚申一躯」と書かれ、「是右(江戸)街道、左矢(川)」と記され道しるべにもなっていたようだ。

場所 国立市西3丁目6-3

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2025年12月 9日 (火)

円成院の石仏(小平市花小金井)

小平市花小金井にある野中山円成院は珍しい黄檗宗の寺院。野中山の由来はこの土地がかつての野中新田であったことで、江戸時代の武蔵国多摩郡上保谷村に創建されたのが宝永2年(1705)である。享保年間に幕府が周辺の新田開発を命じ、そこで尽力した矢沢大堅という人物が開基となった。

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江戸時代はまだまだ未開墾の武蔵野台地であったが、江戸時代も後期になると桑畑などが広がる農村地域になっている。円成院の北側には青梅街道が通っており、野中新田善左衛門組という土地である。立派な山門をくぐり本堂にお参りする。

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本堂脇に並んでいる石仏は7基、入口寄りの4基は小さな石仏。一番右は男根信仰の石棒で「根勢大権現」と書かれている。根勢は金精の意味だろう。この手の金精様には紀年などの文字がないことが多いがこれもない。その隣の地蔵菩薩像は摩滅が激しく詳細は不明。左の2基のうち、道側は墓石で享保7年(1722)と延享2年(1745)の日付がある。左端は舟型の地蔵菩薩像で、寛政2年(1790)5月の造立。

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本堂横に並ぶのは大きな3基の石仏。左の舟型光背型の聖観音菩薩は立派な石仏だが、詳細は不明。右の屏風風のものも描かれているのは施無畏印の聖観音っぽいが、側面には「當庵開祖…」の文字があるので違うかもしれない。これも詳細は不明。中央の駒型の庚申塔は素晴らしい彫りで感心する。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれており、青面金剛はショケラを下げている。ただし小太りの青面金剛像である。造立年は嘉永元年(1848)9月で江戸末期。「多麻郡野中世話人村役人 同善蔵」「願主講中」の文字がある。

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少し墓所よりの一角には石橋供養塔があった。文化5年(1808)3月のもので、願主は川里徳兵衛。「同所念仏講中」の文字もある。現在は完全に暗渠化されているが、青梅街道に並行していくつかの用水路が開削されていた。正面には「石橋四か所供養塔」とあるので、その水路に架けた石橋を供養して安全祈願したものだろう。

場所 小平市花小金井1丁目6-29

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2025年12月 6日 (土)

円成院前の地蔵堂(小平市花小金井)

西武新宿線花小金井駅から北へ向かうと円成院という大きな寺院があり、その向かいに地蔵堂がある。駅前通りからは緑地帯を渡るような橋があり、その先に堂宇がある。10年ほど前までは空地の中にある堂宇だったが、その後後ろの空地の半分が整形外科になった。

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堂宇の中に祀られているのは大きな丸彫の地蔵菩薩立像。基壇の正面には「南無・・・」という文字が6行、つまり六地蔵分の銘がある。左面には「武刕多摩郡野中新田」の文字、右面には文化3年(1806)3月の造立年が刻まれている。

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野中新田というのは青梅街道沿いの古い地名で、おおよそ現在の天神町、花小金井、花小金井南町、上水南町にあたる。興味深いのは野中新田村が、与右衛門組・善左衛門組・六左衛門組(国分寺市の青梅街道沿い)の三つの組に分かれており、それぞれが村請制の単位で名主や組頭などの村役人もそれぞれの組に置かれていたことである。「組」という単位でありながら、村の機能を果たしていた。

場所 小平市花小金井1丁目27-15

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2025年12月 3日 (水)

東京街道の馬頭観音(小平市花小金井)

都道227号線の通称は東京街道という。もとは江戸街道と呼ばれていたが、その名が徐々に東京街道に変わっていったのだろうか。並行して南には旧青梅街道、北には新青梅街道があり、その間の道。東大和で新青梅街道と分岐してから、萩山を経て、田無で旧青梅街道に合流するまでの道で、なぜ江戸街道や東京街道と言った大それた名前になったのだろうと疑問を覚えた。

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東京街道の花小金井に民家の一角を境内にして一基の角柱型の馬頭観音が立っている。正面には「馬頭観世音」の文字と造立年が刻まれ、文久元年(1861)11月の紀年が見られる。文久年間は幕末の3年間、福沢諭吉が欧州に向かい、薩摩藩がイギリス人を殺した生麦事件と薩英戦争、長州藩が起こした下関戦争など、西洋の先進諸国にボコボコにされた時代である。

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そんな時代であったが、庶民は江戸の中心部へ作物などを牛馬で出荷するために、街道筋を通っていた江戸時代然とした風景が想起できる。馬頭観音の右面には「武州多摩郡の中村 世話人村役人中」の文字、左面には「施主辰五郎」の銘がある。

場所 小平市花小金井3丁目1番地先

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2025年11月30日 (日)

地蔵堂の石仏(小平市花小金井)

田無のスカイタワーから南下する科学館通りは西東京市(田無)と小平市の市境である。そこを東西に走るのが江戸街道(東京街道)で、江戸時代は幅員4間(7.2m)の街道だった。南北の科学館通りの筋より西は小平村で、その境には今も覆屋があり石仏が祀られている。

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覆屋の中には地蔵菩薩、外には2基の石仏がある。覆屋の中の地蔵は丸彫の地蔵菩薩立像で、宝暦3年(1753)12月の造立。基壇正面には造立年と「奉建立…」の文字(下部は見えない)、「武刕多摩郡 柳窪新田」の銘が見られる。造立したのは小林原左衛門と川里伝六。

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覆屋の脇に立つ2基の石仏は庚申塔と馬頭観音である。江戸時代から明治大正にかけて多摩エリアのこの辺りは作物を江戸に運んで売るために牛馬が大活躍していた。加えて村境ということで、場所としては典型的である。

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右の馬頭観音は弘化3年(1846)5月造立のくし形角柱型。左面には川里捨五郎の銘が入っている。右側面には造立年が刻まれていた。左側の同じくし形角柱型の石仏は庚申塔である。文字塔で正面には「庚申…」とあり一部読めない。その脇には宝暦12年(1762)11月の造立年が刻まれている。

場所 小平市花小金井3丁目11番地先

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2025年11月27日 (木)

鎌倉街道の馬頭観音(西東京市芝久保町)

東京街道(江戸街道)と鎌倉街道が交差する芝久保町の交差点にかなり傷ついた馬頭観音が立っている。まさに辻の角に立っているので、何度となく車に激突されたのではないかと見える。

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鎌倉街道を挟んで向かいにはセブンイレブン西東京芝久保5丁目店がある。東京街道も鎌倉街道も古くからある古道である。残念ながらこの大きな角柱型の馬頭観音の詳細は分からない。田無の古い資料が入手できればと思うばかり。

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欠損と摩滅でほぼ読めないが、セブンイレブン側からみると「〇〇龍集…報」の文字が残るが、それ以外の面の文字は全く読めない。なぜ馬頭観音とわかるのかというと、それもどこで入手した情報か記憶にない。なんとも不甲斐ないが、記録にはとどめておきたい。

場所 西東京市芝久保町5丁目3-41

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2025年11月24日 (月)

小沢農園の庚申塔(東久留米市南町)

新青梅街道を走ると眼前に飛び込んでくる田無タワー。当初東京都西部の通信インフラ整備のための電波塔として電電公社(今のNTT)が建てたものだが、地元のお金持ちが道楽で建てたなどという都市伝説もあった。高さは195mあり、完成した1994年には都心以外にはこんな高い構造物はなかったから本当に目立ったが、今でも田無のランドマークである。

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田無タワーの北方向、約200mほどのところの小沢農園の角に庚申塔が祀られた堂宇がある。新青梅街道ではなく一本北側の久米川街道(柳新田通り)にある。柳新田通りはこの辺りが柳窪新田という土地だったことに由来、ヤナギクボではなくヤギクボと昔から呼ばれていたようだ。覆屋の中にあるのは駒型の庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、青面金剛像は蛇頭を巻き、ショケラを下げている。

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右側面には「奉供養庚申塚」と書かれ、左面には明和元年(1764)11月の造立年とともに「武刕多摩郡柳久保新田講中16人」の銘が刻まれている。また「是より左 ふちう道」とも書かれており、ここから南西に行くとやがて府中に行くことができる。

場所 東久留米市南町2丁目5番地先

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2025年11月21日 (金)

五差路の地蔵堂(東久留米市南町)

西東京市(旧田無市)と東久留米市の境界の辻に地蔵堂がある。この辺りは江戸時代は柳窪新田という土地で、地蔵堂の位置は東久留米市側にあり東西に延びる道は久米川街道と呼ばれる。田無方面に向かうと田無町で青梅街道に出る。

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北に延びる道も古くからある道で、10分ほど歩くと所沢街道に出ることができる。堂宇は立派なもので、手前に「柳窪新田自治会管理」とあるので、今もまだ柳窪新田としてのコミュニティが残っているのだろう。近年はこの地蔵は田無側の下田家の管理になっていたという情報があるが、昔の柳窪新田としての集団で保存しているのは好ましい形かと思う。

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祀られているのは舟型光背型の地蔵菩薩立像で、宝暦13年(1763)8月の造立。「武刕多摩郡柳窪新田 石橋建立」の銘があるが、この場所にはかつて玉川上水の水を引いた農業用水が掘削されていたらしい。その水路に架けた石橋の供養として建立されたものと思われる。

場所 東久留米市南町2丁目1番地先

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2025年11月18日 (火)

馬頭観音文字塔(西東京市西原町)

六角地蔵尊交差点から北へ、六角地蔵通りを歩くと、農地がいくつもあってその間に新築の戸建てが建っているベッドタウン化途中の風景が広がる。まもなく緑町二丁目の交差点に到着。

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交差点から南西に延びるのは西原自然公園通りという道だが、実はこの道も新しそうでいて古くからある村道である。西原自然公園は南西にしばらく行ったところにある植生豊かな公園。昔の武蔵野の一部を残したような雰囲気である。

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さて、緑町二丁目交差点の角にある堂宇の中に、自然石で造られた馬頭観音が祀られている。正面には「馬頭観世音」の文字があるがそれ以外は何もない。前の六角地蔵通りも古道で、江戸時代は幅二間半(4.5m)の道だったので牛馬も往来できたのだろう。東京に残る4.5m道路は概ねこの二間半の道である。

場所 西東京市西原町5丁目5-1

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