2020年7月 8日 (水)

新宿天龍寺の庚申塔(新宿区新宿)

新宿高島屋と新宿御苑に東西を挟まれた一角に都立新宿高校と天龍寺がある。高校と天龍寺の間にはかつての木賃宿、今は名前こそビジネスホテルだが一泊4000円ほどの怪しい宿が並んでいる。このごった煮感が新宿の醍醐味なのだが、新宿高校の生徒はそんなものには目もくれず、なかなか優秀な学校である。天龍寺の山門は立派なもので、江戸時代は内藤新宿の時の鐘を鳴らす寺といわれた。新宿は江戸から遠い為登城に時間がかかるため、江戸にあった8カ所の時の鐘のうち、この天龍寺の鐘のみが朝四半刻(30分)早く鐘を打っていた。また遊興地である新宿から客を追い出す鐘「追い出しの鐘」とも言われていたという。

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天龍寺の境内に入り本堂前を右に行くと墓所があり、その手前に三界万霊塔を挟んで六地蔵と庚申塔が並んでいる。六地蔵は元禄14年(1701)8月に造立されたもの。ただ統一性がないので、時代は前後したのかもしれない。向かって右手にある3つの古い石塔は3基とも庚申塔である。

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一番左はかなり摩滅していて年代は不詳。隅丸の角柱型のようである。青面金剛像があり、その下におそらくは三猿があったのだろうという凹凸がある。中央の庚申塔は駒型で、これも年代は不詳。上部の日月と青面金剛像は割と鮮明だが、下部の三猿はかなり摩滅している。さらに右端の庚申塔はほぼ完全に摩耗していて時代どころかデザインも不詳である。ただよく見てみると僅かに青面金剛像と三猿の凹凸は感じられる。形からして笠付角柱か笠付丸柱だったのではないだろうか。

場所  新宿区新宿4丁目3-19

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2020年7月 7日 (火)

上板橋子育地蔵尊(板橋区上板橋)

上板橋駅の南、東武東上線と国道254号(川越街道)の間にある商店街が旧川越街道。昔の宿場だけあって今でも賑やかな通りである。この商店街の中心になっているのが子育地蔵尊。祭りの御輿なども、この地蔵が起点になっている。古い街道の商店街のお地蔵さんというものは、なかなかいいもので、絶えず誰かが拝んでいたりして、地域住民に密着している様子がうかがえる。

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堂宇の中には3体の地蔵があるが、古いのは奥の2体。左側は安永6年(1777)10月の造立。左に「光明真言四百万遍供養仏」、右には「上板橋栗原講中  宝田市良右衛門 同久良右衛門」とある舟型光背型の地蔵立像。右側も舟形光背型の地蔵立像で、安永7年(1778)2月の造立。「武州豊島郡上板橋村之内栗原村」の銘がある。

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手前の地蔵立像は新しいもののようだが、詳細は分からない。この2体の地蔵はもともと栗原堰の一本橋付近にあったという。現在の桜川1丁目5番地でここから1㎞近く南の石神井川、茂呂遺跡のある辺りである。川越街道のこの地に移されたのは明治の初め。当初は3体の地蔵があったというが、明治時代に1基は失われてしまったらしい。大正時代になって、無残に路傍に放置された地蔵をこの地に祀ったのは豆腐屋を営んでいた宝田半次郎氏。左の地蔵の宝田市良右衛門の子孫かもしれない。

場所  板橋区上板橋2丁目2-19

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2020年7月 6日 (月)

大谷口上町の庚申塔(板橋区大谷口上町)

西光寺の北西の角は大谷口通り(旧大谷道)が五差路になっている。ここから西へはえんが堀への下りになる。しろかき地蔵がもともとあったと言われる坂道(地蔵坂)である。ここにある庚申塔は2基、どちらもなかなかきれいな庚申塔である。

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左の庚申塔は上部に日月、下部に三猿の図柄で、正面には「奉供養庚申二世安楽所」と書かれている。右面には「武州豊嶌郡上板橋大谷口村」の銘がある。左面には「願主 大谷口村」の跡に大野姓が6名名前を連ねている。造立年は元文3年(1738)2月である。右側の庚申塔は三猿が台座に彫られている。青面金剛像は邪鬼を踏みつけ、二鶏も描かれている。こちらは享保16年(1731)2月のもので、同じく「武州豊島郡上板橋村大谷口 願主 大野仁兵衛 講中9人」とある。江戸時代中期の庚申塔全盛期のものだが、見事な細工である。

場所  板橋区大谷口上町83-1

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2020年7月 5日 (日)

西光寺のしろかき地蔵(板橋区大谷口)

板橋区と練馬区の間にかつて流れていた川にえんが堀という石神井川の支流(跡)がある。定説としては千川上水の水が地下にしみこんでそれが湧水となって出てきた流れと言われるが、地形から見てそれは言い過ぎだと思った。最初から細流があって、練馬区旭丘、板橋区向原、大谷口などの地域の湧水を集めて谷を形成したはずである。この辺は以前「地蔵坂(大谷口)」にも書いた。

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大谷口に西光寺という古刹がある。江戸時代初期に創建された観音堂が始まりと伝えられる。この寺の境内にしろかき地蔵がある。年不詳だが、言い伝えによると室町時代の作の可能性が高く板橋区でも最古の地蔵らしい。この辺りは武蔵国の典型で、台地の上に武蔵野の林が広がり、細流が削った谷あいで細々と米作が行われてきた。村に伝わるしろかき地蔵の昔話がある。

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ここの下りは「地蔵坂(大谷口)」で書かせていただいたのでリンクで読んでいただければ幸いである。地蔵菩薩にこのような昔話があることは極めて多い。お互い様、の気持ちで生きてきた日本の農民の民度の高さが地蔵信仰や念仏講になっていったのだと思う。現代の日本人も石仏からいつでもそういう心を学べるはずなのだが、世間は世知辛い。

場所  板橋区大谷口2丁目8-7

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2020年7月 4日 (土)

大谷口の庚申地蔵(板橋区大谷口)

前述の大谷口の庚申塔(2基)の向かいに屋根付きの地蔵がある。ここにこれほどの石仏があることにいささか驚いた。しかもこの場所は大谷口の中心にあたる。普通は塞ノ神として村境に石仏が置かれることが多いのである。おそらくは西光寺が大谷口の中心的な存在だったのだろう。そして昔はもっと広い境内を持っていて、門前にあったのかもしれない。西光寺が面積縮小することでこの場所に残ったという可能性もありそうだ。

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こんな路地だが真っ直ぐ向こうの道も左の道もすべて江戸時代からある道である。微妙な歪曲が昔の道であることを物語っている。庚申塔は2基とも江戸時代初期の古いものだったが、地蔵菩薩像の方は少し時代が若く、江戸時代中期の延享5年(1748)2月である。丸彫の自走菩薩の尊顔は若干剥離が進んでいて時代を物語る。

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台石には「武州豊島郡上板橋大谷口村」の銘がある。願主は大野清左エ門、庚申講中12人とあるのでこの地蔵尊も庚申塔として扱われている。また裏面には石工の名前もあり、「江府駒込肴町 石工 宇兵衛」とある。「江府」というのは聞きなれない地名だが、江戸幕府のあるところという意味である。「えふ」とも「ごうふ」とも読んだようだ。駒込肴町は現在の文京区向丘あたり。大谷口村と駒込の関わり具合いも興味深い。

場所  板橋区大谷口2丁目11-8

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2020年7月 3日 (金)

大谷口の庚申塔(板橋区大谷口)

大谷口の地名の由来は不詳だが、一説には石神井川へ注ぐ沢の入口という意味があるようだ。西光寺の北側の道は大谷道とかつては呼ばれた街道。現在は大谷口通りと呼んでいるらしい。大山で川越街道に合流する。明治時代は農村地帯で上板橋村だった。そんな大谷口の西光寺から少し南に進んだところに、2基の古い庚申塔が立っている。

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どちらも唐破風笠付の角柱型庚申塔でかなりの時代物。まず左は延宝5年(1677)2月の造立。擬宝珠(ぎぼし)もきちんと残っている。下部に三猿が描かれ、正面には「奉供養庚申二世安楽所」と書かれている。側面には蓮の葉が描かれている。右側の小さい方も古く、貞享2年(1685)9月の造立。これも下部には三猿が彫られ、「奉供養庚申家世安楽之処」とあり同行8人となる。この時代にこれだけのものを作れるのはこの辺りの農家が意外に裕福だった可能性も感じられる。

場所  板橋区大谷口2丁目13-12

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2020年7月 2日 (木)

下北沢踏切地蔵尊(世田谷区代沢)

小田急線は永年の計画が実現して2013年に下北沢駅前後(東北沢~世田谷代田)を地下化した。周辺の踏切はほぼ開かずの踏切で、駅の近くには踏切が5ヶ所あった。ここは駅の小田原側最初の踏切だったが車の往来は比較的少なかった。下北沢村だったころは川沿いに水田が開け、沢の形成する谷地が毛細血管のように広がる地形で、この辺りは目黒川支流の北沢川、その支流の森厳寺川のさらに支流で、村の時代は「西山谷」と呼ばれた。その谷を横切るように昭和初期に小田急線が通ったので、ここは土橋にされた。その為踏切は峠越えのような地形になっていて向こう側が見通せない、そんな地形である。

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そんな踏切脇に地蔵尊がある。地元では「踏切地蔵」と呼ばれている。造立は昭和11年(1936)7月。この踏切では昭和の初期に連続して死亡事故が発生した。昭和2年(1929)に76歳の斎藤安五郎さん、昭和7年(1932)に13歳の小関美彌子さん、昭和10年(1935)に10歳の小関清くん、昭和11年(1936)に42歳の崔垣斗さん、とまるで呪われた踏切のようになってしまった。

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小関美彌子さんと小関清くんはなんと姉弟。13歳と10歳だが3年の時間差があるので、お姉さんが亡くなった時、弟は7歳。それが3年後に弟も踏切事故で他界するというのは堪らない。最後の崔さんは、地蔵を計画している最中の事故だったのかもしれない。しかしそれ以降この踏切では一度も死亡事故は起きていないという。地蔵脇に古い如意輪観音座像があった。これは踏切とは無関係だろう。享保14年(1729)の墓石である。

場所  世田谷区代沢5丁目34-1

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2020年7月 1日 (水)

三軒茶屋の大山道道標(世田谷区三軒茶屋)

東急田園都市線は昔は新玉川線と呼んだ。私が上京した年に二子玉川と渋谷区間が開通した。そのずっと前には国道246号(玉川通り)には通称玉電が走っていた。三軒茶屋は瀬田方面と下高井戸線の分岐点。三軒茶屋から下高井戸までは現在もまだ東急世田谷線が健在で、私もしばしば乗車する。どう乗っても147円(Pasmo)でバスと併用しているとバスクーポンで割引になることもある。現在では路面電車部分は亡くなったが、都電荒川線とここだけに残る市電の名残りである。

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玉川通りと世田谷通りの分岐する股の部分の駅出入口脇に大山道道標がある。この道標は昔はここにあったが、交通量が増加し始めると区立郷土資料館に移され、昭和58年(1983)に再びここに戻された。江戸時代からの街道の分岐点だけに、造立年は寛延2年(1749)だが、文化9年(1812)に再建、さらに昭和31年(1956)にも再建(おそらく補修)されている。

正面には大きく「大山道」その上に「左 相刕通」とある。左面には「右富士 世田谷 登戸道」、右面には「此方 二子通」とある。この道標は元は渋谷方向に向けて立っていた。「相刕通」というのは相州通の意味で、相模の国への街道(大山街道)である。世話人の欄には多くの記載があるが、出てくる世話人の住居地は、「太子堂村、江戸日本橋四日市町、三軒茶屋、野沢村、上馬引沢村、中馬引沢村、など広域にわたる。

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写真は昭和30年代のこの場所。交差点の見張り台と交番が並んでいるが、この道標は見当たらないから、郷土資料館に移された後だろうか。ミゼットとオート三輪が懐かしい。左真っ直ぐの電車のいる道が玉川通り二子玉川方面、右が世田谷通りである。記憶ではこの角には協和銀行があった。今はビックエコー(カラオケ)である。周辺は全盛期から再開発に指定された地域だが、渋谷と違いまだ何十年もかかるだろう。

場所  世田谷区三軒茶屋2丁目13-14

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2020年6月30日 (火)

野沢テコテン坂の庚申塔(世田谷区野沢)

世田谷区の環七通りは上馬から南はかつての品川用水の流路を通っている。川は谷の一番低いところを流れるが、用水路は一番高い所を流すのが常である。環七通りから北東に向かうと中目黒だが、その手前には蛇崩川とその支流による谷が形成されていて、尾根筋から蛇崩川に向かって下るのが「テコテン坂」である。

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古い庚申塔が路傍にあるのはそこは古道である証拠である。この道は江戸時代から大山街道の南東側を並走する道で、野沢村と下馬引沢村を結んでいた。日本大学のスポーツ科学部がある辺りが蛇崩川流域の水田地帯だったのだが、環七辺りの標高が40mで日大辺りが27mなので実は13mも高低差がある。テコテン坂は庚申塔辺りで急に下ったのち平坦になり、日大の直前で残り半分の高低差を下っていたが、現在は土地が均されて傾斜はわずかである。

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庚申塔は板碑型で高さが1.66mもある。造立年は寛文10年(1670)10月。「陽月」と書かれているのは10月の事だと初めて知った。三猿の上には「奉造立庚申待供養塔爲二世安楽也」とあり、横に「武刕荏原郡馬牽沢村」とある。下部には願主11人の名前が彫られている。ずっと野ざらしだが、江戸時代初期の石仏は石が良い。

江戸は関東ローム層地質なのでこういう石は存在しない。しかし村人が伊豆辺りから運ぶのは無理である。しかし江戸城周辺の普請で余った石垣の石が大量にあったので、普請が終わっても石工が食えるようにとあちこちで庚申塔や地蔵の建立が盛んになった。石工の工賃は1基300文ほどだったというから、現在価格で22,000円ほど。大工よりもかなり低い(大工は日給で3万円程度)。だから石仏にもいいもの悪いものがあるのであろう。

場所  世田谷区野沢1丁目9-31

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2020年6月29日 (月)

満願寺前庚申尊(世田谷区等々力)

目黒通りは昔は「二子道」と呼ばれ、東ルートは玉川神社満願寺前から現在の世田谷区中町を抜け、上野毛で多摩川の国分寺崖線を下り二子の渡しに至る街道であった。玉川神社は江戸時代は熊野神社で、明治初期の地図にも熊野社とある。明治40年(1907)に等々力村にあった神明社、御嶽社、諏訪社を合祀して村の鎮守となり玉川神社と呼ばれるようになった。地元の通称では「おくまんさま」と呼ばれる。隣接するのが満願寺。江戸時代はこうして寺と神社が並んでいることが多かった。

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満願寺の外塀角に立派な堂宇があり、大きな庚申塔が祀られている。満願寺は等々力不動尊の本寺で、文明2年(1470)に当時の世田谷城主の吉良家によって創建された寺。創建当時は深沢村にあったが、1560年前後に現在の地に移転した。満願寺とこの庚申塔の関係は分からない。

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高さ115㎝ある大きな駒型の庚申塔である。青面金剛像に二鶏、邪鬼、三猿が描かれている。造立年は文化10年(1813)8月、地名は彫られていないが、願主6人はすべて高橋家である。

場所  世田谷区等々力3丁目15-1

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