2021年2月25日 (木)

妙義神社の庚申塔(豊島区駒込)

久しぶりに駒込の妙義神社を訪問して驚いた。妙義神社が壊されていると思った。しかし冷静にその先を見るとコンクリートの擁壁の上に輝くような社殿の一部が見えたのである。隣りとはいえ神社の移転を見られるのは極めてレアなこと。

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もとの妙義神社は上の写真で、社殿は3mほど高い土地の上に立っていた。ところがこの場所は更地になっており、マンション建設と思われる工事が進んでいるのである。しかし、その先には真新しい擁壁の境内が作られていた。神社の北にはかつて谷田川が流れており広い谷を形成し、妙義神社の前は下の谷と呼ばれ、谷田川に注ぐ細流が削った小ぶりな谷地形である。神社はその高低差をうまく使って建てられている。

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こちらは今の神社の姿である。擁壁の上にはきれいな神殿がある。こちらに移ったのは令和2年(2020)8月とのこと。もともと日本武尊伝説に始まり白雉2年(651)創建と伝えられ1300年の歴史を謳っているが、太田道灌との関係も深く、移転した石塔石仏は太田道灌霊社脇に祀られている。

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右端の角柱は由来碑のようである。「延宝年間既有之、明治五壬申年水無月従奮奮地遷宮標▢、稲荷明神、天満宮祠、弁財天」と書かれている。明治5年にどこから移したのだろうか。中央の自然石は歌碑、その向こうにあるのが板碑型の庚申塔である。

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この板碑型の庚申塔は造立年が寛永19年(1642)霜月(11月)と都内でも有数の古さで、板碑を除くと豊島区では最古である。引越し前も末社の道灌霊社の脇にあった。正面には、「奉造建庚申供養之佛塔也」とあり、駒込村の銘も読める。駒込村の農民が400年近く前に協力して建立したものである。昭和40年(1965)に神社の復興工事が行われた際に境内土中より発見されたものである。説明板によると、『新編武蔵風土記稿』には「末社稲荷庚申・寛永寛文の碑にあり是を神体とす」と書かれているが、寛文の庚申塔は戦災で破壊され失われたと書かれている。

場所  豊島区駒込3丁目16-1

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2021年2月24日 (水)

染井通り民家の庚申塔(豊島区駒込)

駒込駅から染井霊園に続く江戸時代からの直線の道が染井通りである。江戸時代通りの南西側は3万坪の津藩藤堂家の大名屋敷、染井坂のある染井坂通りから先は植木屋の立ち並ぶ江戸随一の園芸通りだった。明治時代の地名は「駒込染井」、昭和に入ってからは駒込三丁目と味気ない名前に変わった。

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通りの途中には植木屋街を思い起こさせるような公園があり「私の庭みんなの庭」という名前がある。昔ながらの東屋の奥にはビオトープのような施設もあり、井戸があったり、ザリガニが採れたりして有名な場所。入口のモニュメントには「花咲か七軒町植木の里」とあり猫が佇んでいる。地元の人々が地上げマンションでつまらない街になるのを何とか止めようと区を動かして作ったらしい。

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実はこの公園の西隣のお宅には石塔がいくつかあり、玄関脇には角柱型の庚申塔が保存されている。上部に日月を拝し、下部には三猿が描かれている。造立年は延宝8年(1680)8月と江戸時代初期から中期にかけてのもの。「湯嶋弐丁目」とあるので古い時代に誰かがここへ移したものだろうか。場所が分かっても個人宅なので、門扉からそっと覗く程度にしていただきたい。

場所  豊島区駒込3丁目8-3

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2021年2月23日 (火)

駒込小前の庚申塔(豊島区駒込)

豊島区立駒込小学校はソメイヨシノの発祥地である染井霊園と山手線駒込駅の間にある。駒込駅前からまっすぐに染井霊園に延びる染井通りは、六義園の角で日光御成道と分かれ、染井の植木屋が建ち並ぶところに向かう江戸時代からの道である。染井通りの南西側は三重県の伊勢津藩藤堂家32万石の大名屋敷で3万坪の大屋敷であった。この染井通りに北東から染井坂を上って突き当たる手前に駒込小学校がある。

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小学校の塀の外にあるのが笠付であっただろう角柱型の庚申塔。日月に珍しい合掌の二猿が彫られ、横には蓮の花葉が大きく描かれている。造立年は寛文12年(1672)3月と江戸時代初期のもの。この時代はまだデザインが流動的だった。その為二猿であり、通常の不見、不聞、不言の三猿ではないのだろう。二猿もなかなか魅力的である。

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庚申塔の向かいには古い大きな蔵と門がある。この門は旧丹羽家腕木門といい、前述の藤堂家大名屋敷の裏門をここに移築したもの。小学校側にある蔵も旧丹羽家の住宅蔵である。丹羽家は江戸時代から明治時代まで染井を代表する植木職人で、もとは土蔵造りだったのを昭和11年に鉄筋コンクリートに建て直した。江戸から明治にかけての染井の植木職人がどれほどの財力があったかがよく分かる。

場所  豊島区駒込3丁目13-1

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2021年2月22日 (月)

無量寺の石仏(北区西ヶ原)

和洋の庭園が楽しめる旧古賀庭園の西隣にある寺が、真言宗豊山派の無量寺である。創建年は不詳ながら江戸時代の初期には既にそこそこの規模であったらしい。古賀邸も無量寺も傾斜のある土地だが、南にはその昔谷田川が流れており、その流れが削った窪地が染井霊園を源頭に刻まれ、やがて藍染川と名前を変えて不忍池に注いでいた。南面の斜面にあり北側には日光御成道が通るロケーションから将軍もしばしば立ち寄ったという。

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入口の近くには両側に丸彫の地蔵菩薩像が対で立っている。写真は向かって右側の地蔵である。もともとは墓石として造立されたもののようだが、没年は享保17年(1732)5月で、六阿弥陀一番目道と書かれているが、向かって左面を見ると、寛保元年(1741)に本所材町の桔梗屋清正によって建てられたとある。向かって左側にも同じような地蔵があるが、こちらの土台には「供養佛」と大きく書かれており墓石ではない感じがする。蓮座の花弁には「新一町地蔵講中」と彫られており、浅草あたりの講中のようだが分からない。

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本堂に参拝し、右奥に進むと境内の隅に板碑型の庚申塔がある。上部に日月、下部に三猿が描かれており、造立年は延宝4年(1676)2月と古いものである。うっすらと残る文字は「奉修庚待二世安樂」と読める。下部には7人の願主名が苗字なしで刻まれている。これ以外にも墓所に庚申講中による地蔵菩薩像があるのだが、コロナの関係なのか墓所は施錠されており入ることが出来なかった。

場所  北区西ヶ原1丁目34-8

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2021年2月21日 (日)

上中里庚申堂<上>(北区上中里)

上中里は崖の街でこちらは崖上の上中里庚申堂。崖下の上中里庚申堂の標高は5.6mなのに対して、こちらの標高は23mと18m近い高低差がある。崖下は彼方まで水田が広がる農村地帯だったが、崖上には日光御成道が駒込から王子に通っており、城官寺と平塚神社の周りに民家が多数あったようだ。

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こちらの堂宇もなかなか立派なものである。堂宇内には江戸時代の絵図などがあり、表には庚申塔の解説が掲示されているなど、崖上も頑張っている感じが伝わってくる。ここから数十m西が城官寺の入口になっている。そしてここから丁字路を南へ行くと間もなく日光御成道に出る。現在は路地裏だが、昔はそれなりに要衝だった。明治時代の地図にはなぜか史跡のマークが付いている。

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祀られている庚申塔は駒型、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄。右横には「奉供養庚申待二世安樂所」とあり、左横には年紀がある。造立年は享保6年(1721)10月。ここに祀られる前は、JR上中里駅付近にあったと資料に記されている。ということは崖下か中腹にあったのだろうか。前の場所を調べたいが、堂宇内にあった安政2年(1855)の絵図では坂下と坂上の両方に「庚申」がある。となるとここに移されたのは江戸時代ということになるが。

場所  北区上中里1丁目41-2

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2021年2月20日 (土)

上中里庚申堂<下>(北区上中里)

京浜東北線の上中里は王子と田端の間にあるが人々の記憶にはあまり残っていない駅。しかしここにはかつて平塚城という館城があった。別名豊嶋城といい、平安時代後期から豊嶋氏の城(室町時代中期から本拠地は石神井城)として存在し、太田道灌に攻め落とされる文明10年(1478)まで続いた。そのあとにあるのが平塚神社であり、その脇の蝉坂もなかなかの名坂である。

上中里の江戸時代前期の地名は宮外戸(みやがいと)村。宮は平塚神社を意味している。江戸時代中期の元禄の頃から上中里村という呼び名になったがその理由は不明。明治になると上中里村、西ヶ原村、滝野川村、田端村、中里村が合併して滝野川村となり、大正時代には町制へ、昭和に入ると滝野川区となり、戦後王子区と合わせて北区になったという経緯である。

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上中里は崖の町で、崖上が一丁目、崖下が二丁目と三丁目になっている。大正時代までの崖下は遥か彼方まで水田地帯で、崖上はいわゆる街になっていた。崖下は京浜東北線の周辺のみに民家が広がっていた程度だった。その崖下にある庚申堂には3基の庚申塔が祀られている。

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堂宇の中にあるのが駒型の庚申塔で、摩滅が進んでおり造立年は分からない。日月も不明で、青面金剛像と三猿はきれいに残っている。三猿が菱形なので江戸時代中期以降のものの可能性が高い。正面下部に「施主」「おふへ」という文字のみが確認できる。この堂宇に安置される以前は、現在のJR線路内の石神井川下郷用水側にあったとされるが、位置的にはこの近くである。この用水路はかつて線路沿いに流れ、日暮里駅東側の芋坂下の羽二重団子店と向かいの善性寺の間の街道脇を流れていた石神井川の分流である。

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堂宇の左右には別の庚申塔があり、向かって左側は笠付角柱型の武骨な庚申塔。正面、左右面にそれぞれ一猿があり、正面には「奉造立庚申塔」そして脇に「為二世 安樂也」と書かれている。造立年は寛文5年(1665)8月29日とある。側面にも文字らしき痕跡があるが読めない。

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堂宇の右側にも同じような笠付角柱型の庚申塔がある。こちらの造立年は寛文5年(1665)と同じだが9月と書かれている。とはいえほぼ同時期と見て差し支えないだろう。こちらも正面と左右面にそれぞれ一猿があり、正面には「奉建立庚申塔爲二世安樂也  逆修」とある。また日付の下には宮外戸村とあるのは、前述した上中里村の江戸時代初期の名前。これら両脇の庚申塔も以前は用水路の側にあったらしい。江戸時代鉄道がない頃は、蝉坂がここまで急な下り坂で、下りきると用水路を渡っていた。その脇にあったに違いない。

場所 北区上中里2丁目25-4

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2021年2月19日 (金)

袋村の庚申待供養塔群(北区赤羽台)

北赤羽諏訪神社の参道は宮の前の坂の赤羽桜並木道でぶった切られている。諸説あるが、この道沿いはなぜか巨大な造船ドックのように武蔵野台地を削った窪地になっている。この窪地は中世には稲付川の北側の支流が削った谷地で、そこを利用して軍が射撃施設を建設して広げた際に、明治期に宮の前の坂を切通しにしてしまった可能性が高い。

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実際に参道は道の対岸に延びており、そこから見ると参道が途中で切通しによりぶった切られた様子が分かる。本殿が向こう岸だとすると、こちらの参道部分はどこから来たのかが疑問だが、おそらく岩淵村から袋村に向かうと、参道手前で右に宮の坂が分岐する。そこから参道が始まったのだろう。しかし袋村の鎮守の参道が岩淵村側にあるのも何となく不思議である。

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参道側の切通しの際には5基の石仏が並んでいる。左の4基が庚申塔、右端が供養塔である。北区の資料によると、袋村には元禄時代に始まったとされる庚申講中が存在していて、昔袋村の各地に建てられたこれらの庚申塔が、諏訪神社が村の鎮守だったことから、その参道に移設されたものとしている。

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左端の庚申塔はおそらく駒型だが上部が欠損している。その為日輪月輪のうち日輪の方が欠けている。主尊は青面金剛像で、邪鬼、三猿が描かれている。造立年は享保19年(1734)12月。向かって左側面の年紀の下には「左 板橋道」、右側面には「右 練馬道  奉供養庚申講」とある。その右の廣回り大きな駒型の庚申塔は、享保17年(1732)11月の造立。日月、青面金剛像、自二鶏、三猿の図柄で、向かって右側面には、「武刕豊嶋顧(郡)岩領衾村講中」とあり、この誤字が何とも江戸時代らしい。基壇には沢山の願主名がある。

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続く中央の庚申塔も駒型で、天明5年(1785)12月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれており、向かって右側面には「奉納庚申供養塔爲二世安樂也」とある。基壇には「右 大山ねりまみち  左  いたばしみち」とあるので、小豆沢村に近い地区にあったものではないだろうか。右の駒型庚申塔は、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、正面には「武刕豊鳥(嶋)郡岩淵領袋村  奉供養庚申待二世安樂」とある。造立年は元禄16年(1703)11月とここでは最も古く、袋村でも初期のものと思われる。

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右端の駒型の角柱は供養塔で、正面には光明真言百萬遍供養塔とある。天明5年(1785)12月に建てられたもので、百万遍というのは念仏講のひとつであり、念仏を百万回唱えるという浄土宗に見られたもの。1080個の数珠で造った大数珠を、100回順送りに回して唱えることで合わせて108万遍になるというものであり、決して100万回唱えているわけではないようだ。数十年前までは各地で行われていた。京都には百万遍という場所があるが、これは百万遍の寺号を持つ知恩寺に因むもので、実際に14世紀の後醍醐天皇時代には知恩寺で百万遍が行われ疫病を収束したという。

場所  北区赤羽台4丁目19-5

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2021年2月18日 (木)

諏訪神社境内の石仏(北区赤羽北)

赤羽北の諏訪神社は埼京線北赤羽駅の南の武蔵野台地の際にある。諏訪神社というだけに信州の諏訪神社の勧請で、創建は応永3年(1396)と古く、長い時代赤羽の真頂院が別当を務めた。創建時に諏訪から持ってきたという袂杉(たもとすぎ)の切り株が本殿裏にある。境内は台地の縁なので、荒川方面の展望が良い。

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鳥居の前を走る赤羽桜並木道は環八の交差点(北赤羽駅入口)からここまで上り坂で、宮の前の坂という名がある。この坂道は明治から大正にかけて軍が作ったのではないかという説が有力。詳しくは坂のページを参照していだたきたい。階段を上り鳥居をくぐった左側に石仏石塔が並んでいる。

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左端は角柱型の庚申塔。大きな文字で「庚申(塔)」と彫られている。正面右には年紀があり、天保13年(1842)6月の造立。左には「東岩淵宿渡船場〇〇」とある。庚申塔の塔の字はほぼ地中に埋まっている。向かって左側面には「南 野みち」、右側面には「北 當村かしば」とある。また背面には「西 中仙道志村より戸田渡船〇〇」とあり道標を兼ねている。右側の駒型庚申塔は、日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿が描かれているが三猿はほぼ埋まっている。造立年は安永7年(1778)9月。向かって左側面には「是より東 川口(わたし)場十五丁  豊嶋郡袋村講中」とある。

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その右にあるのは供養塔で、左の角柱は「奉納大乗妙典日本廻国二世安樂攸」とあり、造立年は明和2年(1765)である。向かって左面には、「武刕豊嶋郡岩淵宿 袋村行者 行言」とある。右の角柱には「八日講諸願成就」とあり、向かって右側面に宝暦7年(1757)2月の造立年がある。反対側には「武外豊嶋郡岩淵宿 袋村講中」とある。毎月8日に講中で集まるコミュニティだが、もとは出羽三山信仰だったようだ。

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本殿裏手には末社が並んでいるが、その中に猿田彦大神がある。猿田彦大神は庚申信仰の一種で、この塔は自然石で造られている。猿田彦大神の碑は自然石が多い。造立年は明治11年(1878)4月。下部には「村講中」とある。袋村には元禄時代に始まった庚申講中が続いており、この塔は袋村内で造立されたが、後にここに移されたものだという。

場所  北区赤羽北3丁目1-2

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2021年2月17日 (水)

民家の庚申(板橋区小豆沢)

龍福寺から寺坂を下る。かつての荒川低地はこのすぐ北に浮間の渡しがあり、浮間を経て川口へ向かう道筋。かつてのこの辺りの小字は下臺という。臺は台の旧字。すぐ東に袋村との村境があったが、下臺は浮間の渡しの南岸の位置づけだったのだろう。そんな坂下の民家の塀に堂宇が作られている。

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ブロック塀によるものだがおそらく昔は木製の堂宇だったのだろう。中にあるのは2基の庚申塔。左側はシンプルな角柱型で、上部に日月があるが、正面は「庚申塔」という文字のみである。向かって左面には「南 いたばし  西 志村根葉吹上道」とあり、右面には「東 岩渕道  北 ▢▢▢」おそらく北は浮間渡だったのではないだろうか。造立年は嘉永6年(1853)4月で明治維新の15年前である。願主は平岩〇〇とある。

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右側は台石に載せられた駒型の庚申塔。時代は新しく、明治36年(1903)3月の造立。青面金剛像、邪鬼が描かれているが三猿は見当たらない。もしかしたら昔の台石にはあったというようなこともあり得る。向かって左面には、「西 中仙道  南 いたばし   小豆沢村」とあり、右面には「北 わたしば  東 あかばね道」とある。台石には「下講庚申講中」とあるが、これは下臺の庚申講中ということだろうか。

場所  板橋区小豆沢4丁目21-20

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2021年2月16日 (火)

龍福寺の境内石仏(板橋区小豆沢)

龍福寺には本当に多数の石仏石塔がある。本堂に向かって左手には、板碑や六地蔵、供養塔など様々な石塔が建ち並んでいる。その中から一部を紹介したい。板碑は中世(13世紀~16世紀ころ)に全国のあちこちで造立された。緑泥片岩で造られたものが多いが、この緑泥片岩は主に秩父で産出したものが中心であるため、都内の板碑も埼玉県のものを持ってきて寺院で保存しているものも多い。

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まず目に飛び込んでくるのは屋根付きの3枚の板碑である。中央の大きな阿弥陀三尊種子の板碑は鎌倉時代中期、建長7年(1255)3月のもので高さが基壇を含め173㎝もある。ほぼ私の背丈と同じくらいだ。右の角がちょっとだけ欠損した板碑は、鎌倉時代後期の延慶2年(1309)5月のもの。左の上部が欠損してしまっている板碑は、南北朝時代初期の建武3年(1336)のもの。

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その後ろの塀沿いに回り込むと、そこには中小の板碑が4基あった。龍福寺には9枚の板碑があるそうだが、境内にあるのはこれら7基である。残りの2基は寺で別途保管されているという。板碑は庚申塔の前身という一面もあるが、造立された目的は死者の冥福を祈る追善供養や、生前に死後の菩薩のための仏事を行う逆修供養と言われる。生きているうちに自分の供養をするという、まあ都合の良い信仰だと思う。

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塀沿いに進むと六地蔵が二組あり、これは向かって左側の大きい方の六地蔵である。造立年代は分からない。面白いのは、基壇の下部に願主名が沢山彫られているのだが、ほぼすべて仮名の女性名である。おさん、おつね、おさつ、おせん、おさき、おとよ、おかる・・・など沢山の女性名が記されている。

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残りの六地蔵はその右手に並ぶ。こちらは天明4年(1784)9月の造立。台石には願主名もあるが、三界万霊、先祖代々一切供養、光明真言百万遍供養、などの文字が刻まれている。

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六地蔵の脇に塀の隅にへばりつくように一基の庚申塔があった。駒型の庚申塔だがかなり摩滅が進んでいる。造立年は享保19年(1734)1月。日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿の図柄である。右にある文字は「奉造立青面金剛為二世安楽」。左面には「武州豊嶋郡峡領小豆沢村」と書かれているという。この庚申塔は資料によると、板橋区小豆沢4丁目23からの移設とある。ふか坂の坂下、北区との区境の近くであるから、江戸時代は小豆沢村と袋村の村境になる。

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最後に山門を入ったところにある地蔵菩薩を忘れるところだった。造立年は正徳6年(1716)2月で、台石には武刕豊嶋郡小沢村とあるが、小豆沢村のことであろう。龍福寺には石仏石塔がありすぎてまた時間を掛けてゆっくりと拝観したいと思う。板橋区では板碑の寺として知られており、寺で祀っている薬師如来は、平安時代に寺坂の下まで来ていた七々子崎という入江で発見されたという薬師如来を祀っているようだ。この辺りは平安時代は豊嶋荘という荘園で、潮の上がってくる荒川を通って東京湾と容易に往来できた。

場所  板橋区小豆沢4丁目16-3

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