2022年1月18日 (火)

興野庚申堂(足立区興野)

足立区興野は古くは興野村という村だった。現在の興野は興野村の南半分だが、善応寺と興野神社を中心にした農村であった。興野地区の西寄りの三叉路に興野西庚申堂プチテラスというものがあり、わずかな広場に庚申堂がある。足立区は所々にプチテラスというのを設けているが、区には設置要綱もあり20㎡~300㎡の広場という設定のようだ。

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庚申堂の外側にも1基の石碑がある。これは自然石で造られたもので順礼供養塔。「月山湯殿山羽黒山 三所大権現 西國坂東秩父百番 諸国神社佛閣拝禮」とあり「奥野邑 内田儀左衛門」という銘がある。造立年は天保12年(1841)5月。奥野邑というのは興野村のことだが、江戸時代はもともと奥野村と言っていたのが後に興野村に変わったという説もある。

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庚申堂の中には3基の石仏石碑がある。左のシンプルな角柱型は供養塔。「奉読誦普門品一万巻供養塔」と正面に書かれている。普門品(ふもんぼん)というのは法華経の代表的なお経である。この供養塔の造立年は安永3年(1774)3月。

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中央の駒型庚申塔はその基壇にあるダイナミックな三猿が特徴的。正徳4年(1714)10月の造立で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれている。左側面には「奉納庚申爲二世安樂也」とあり、下部には13人の施主名がある。右の板碑型庚申塔は古いもので、寛文10年(1670)9月の造立。中央に三猿が大きく陽刻されているが、その上には「奉納庚申供養」という文字が刻まれている。台石には蓮の花葉が描かれており時代を感じさせるものである。

場所  足立区興野2丁目30-1

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2022年1月17日 (月)

吉祥院阿弥陀堂の石仏(足立区扇)

舎人ライナー高野駅の東北200mほどの路地にある吉祥院阿弥陀堂。吉祥院そのものは大きな寺院で、周辺に阿弥陀堂、不動堂、常念坊などの境外仏堂がある。阿弥陀堂は本堂から最も遠い境外仏堂で1㎞以上も離れている。道路際に看板があり、そこを入っていくと阿弥陀堂がある。

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阿弥陀堂の創建年代は不詳。江戸時代の切絵図を見てもこの辺りに寺院はない。地理的には阿弥陀堂の西が宮城村で、阿弥陀堂を含む東側が高野村である。山門をくぐるとすぐ右に2基の庚申塔と1基の供養塔がある。供養塔は基壇が六面で上部が円筒になっており、「成田山八代講社満願  新廻国八十八ヶ所  弘法大師巡拝」とある。造立年は不明。

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左の2基が庚申塔。中央は駒型で年不詳。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が陽刻されている。脇には「持国天、増長天、広目天、多聞天」と刻まれている。この四つは四大王(しだいおう)と呼ばれる四神で、それぞれ東南西北を守っているとされる。左の角柱型の文字塔も庚申塔。造立は元文5年(1740)11月。下部には三猿が陰刻されている。正面には「奉供養青面金剛」と書かれている。また「庚申待講中 本木村」の文字が見え、施主名が6人刻まれている。

場所  足立区扇3丁目11-1

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2022年1月16日 (日)

恵明寺の石仏(足立区江北)

恵明寺(えみょうじ)の創建年代は不詳ながら、1650年頃(慶安年間)には既に大きな寺院だったという。また小台の七庚申の中で最も古い承応3年(1654)の板碑型庚申塔には「法王恵明寺」という文字がある。江戸時代には荒川はなく、小台七庚申があったのは荒川となった地域で、恵明寺の檀家エリアだったとしても違和感はない。

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また恵明寺は江戸六阿弥陀の第二番だが、元々は沼田・延命院という寺院が第二番であった。しかし延命院が廃寺となったため、阿弥陀如来が恵明寺に移されたたので第二番寺となった経緯がある。江戸時代の切絵図を見ると江北ジャンクションの真下、区立五色堤公園の辺りに阿弥陀堂があり別当恵明寺とある。荒川放水路の工事により阿弥陀堂も廃止され恵明寺に移ったもの。

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門前には2基の庚申塔と1基の地蔵が並んでいる。右は角柱型で日月の下に「庚申」、その下に大きく「青面金剛」と彫られている。造立年は文政8年(1825)6月で他に文字は見られない。中央は舟型光背型の庚申塔で、元禄5年(1692)9月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼が描かれているが三猿は見当たらない。尊像脇に「奉造立青面金剛 庚申」とある。左の小さい石仏は角柱型で上部に地蔵座像が陽刻されている。造立年は延宝8年(1680)。

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山門をくぐると立派な宝篋印塔が目に入ってくる。文化6年(1809)4月造立の宝篋印塔で、「武州足立郡沼田村 宮城山二十七世 開眼道師法印」とある。宮城山は恵明寺の山号である。

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向かいには子育地蔵堂があり、複数の地蔵菩薩がある。中央に大きな子育地蔵座像があり、台石には「子育安産地蔵尊」と刻まれている。年代は不明だがおそらく江戸時代であることは間違いないだろう。その右の丸彫の地蔵菩薩も年代は不詳だが、台石に「小伝馬貮町目 講中敬白 表門前通」とある。

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子育地蔵の裏手には板碑が無造作に置かれている。一般的に板碑は準秘仏扱いされて大切に保管されていることが多いが、このように境内に置かれているのは珍しい。ただし文字はほとんど読めない。恵明寺の創建年代からすると板碑の時代ほど古くないので、これは寺とは関係が薄いのかもしれない。

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墓所の入り口に気になる石仏があった。舟型光背型の聖観音菩薩なのだが、台石に三猿があるので庚申塔かもしれない。当然石仏と台石が元々は別物ということもあり得るのだが、サイズがほぼ合っている。聖観音像の造立年は寛文9年(1669)12月で、「宮城村 施主敬白」とあるが、庚申の文字はどこにもない。足立区の資料でも庚申塔には掲載されていない。

場所  足立区江北2丁目4-3

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2022年1月15日 (土)

路傍の順礼供養塔(足立区扇)

扇三嶋神社から西へ30mほど進んだ路地の角に石塔が祀られている。大きな角柱型の順礼供養塔と小さな簡易的な五輪塔が仮の堂宇のような屋根付きの場所にある。

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右の五輪塔風の石塔についてはまったくわからない。左の角柱型の石塔には、「月山 湯殿山 羽黒山 秩父 西國 坂東 為現當▢▢也」とあるので巡礼供養塔に間違いない。正面の左下には「右リ 六あみだ道」とある。その側面には「渕江領本木村太田 田中文衛門」と刻まれている。ちなみにこの塀の向こうのお屋敷はとても広い屋敷で400坪ほどあるが、表札に「田中」とあったので、この田中文衛門さんの御子孫だと思われる。

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右側面には「新四国八十八ヶ所 左リゑ▢▢」とあり、文政7年(1824)2月の紀年が刻まれていた。おそらくは田中氏が村を代表して建立したものだろう。足立区の六阿弥陀伝説は、北区の舟型神社の十二天塚の項で詳しく記載した。実際には8寺を廻る六阿弥陀巡りである。

場所  足立区扇2丁目8-19

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2022年1月14日 (金)

扇三嶋神社の石仏(足立区扇)

慶長年間(1596~1615)に小田原北条氏の家臣であった阿出川権左衛門知康が、本木村字太田一帯の開拓を進め、その時代に三嶋大明神を勧請して創建されたのが扇三嶋神社と伝えられる。江戸時代は太田と高野の鎮守であった。当時は太田と高野を合わせて約40軒ほどの民家があったというが江戸時代には増えていったようだ。

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三嶋神社はその名の通り静岡県三島市にある三嶋大社が本社。源頼朝が崇敬したことで大きくなった。全国的には400社ほどあるようだ。北海道から鹿児島まで意外に広い範囲にある。基本は大山祇命(オオヤマツミノミコト)を祀る。山森農産の守護神である。三嶋神社の玉垣の前に対の仁王像が立っている。

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傍にはいまでは珍しい電話ボックスがある。この仁王像2基は庚申講中によるもので、造立年は元禄10年(1697)11月、台石の文字はかなり消えかかっているので足立区の資料を参照した。書かれている文字は「庚申待成就 三嶋御宝前 本木太田村」とある。左が吽形、右が阿形である。

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鳥居をくぐると左手に真新しい御影石の石仏がある。牛頭天正宮と書かれたものと、馬頭観音と書かれたもの。紀年は書かれていないので分からないが昭和末期か平成のもののように思われる。

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境内奥に進むと水神碑が祀られていた。この場所で水神というのはちょっと不思議だったが、荒川放水路開削工事でここに移設したものらしい。その後再建されたのか、裏側には「昭和18年(1943)9月 本木6丁目6434番地より移転」と書かれている。旧番地の地図とにらめっこしたが6000番台の番地はない。やはり水没してしまった場所なのだろうか。

なお資料によると延宝6年(1678)の燈籠型庚申塔があるようだが、訪問時は見つけられなかった。いずれ再訪して確認したい。

場所  足立区扇2丁目9-3

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2022年1月13日 (木)

吉祥院地蔵堂の庚申塔(足立区扇)

新交通システム舎人ライナーが荒川の扇大橋を越えると足立区扇に入る。最初の駅が扇大橋。荒川は大正時代から昭和の初期にかけての大事業で開削された放水路なので、昔の街や道路をぶった切る形で流れる。しかし一歩路地を入るとそこには沢山の昔からの道が残っている。道は決して五番目ではなく、かつての農道をそのまま広げた様子で曲がりくねっている。そんな扇の一画に地蔵堂を囲んで吉祥院の境外墓地があり、その外塀に3基の庚申塔がある。

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左の小さな板碑型の庚申塔は貞享5年(1686)正月の造立。かなり摩滅しているが正面には「奉供養庚申待」の文字がある。下部には願主名が刻まれている。中央の板碑型庚申塔は上部がやや欠損、下部には蓮葉が陽刻されている。造立年は万治3年(1660)9月とさらに古い。中央には「奉造立庚申供養結衆諸願就二世安樂処攸」とあり、その下に線刻の三猿が彫られている。いかにも庚申講が広まる初期のものという感じである。

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右の板碑型庚申塔も頂部が欠損している。下部には蓮花が描かれている。造立年は明暦元年(1655)8月とさらに古いもの。中央には「奉供養庚申待三年二世悉地成就所」とある。この庚申塔も下部に沢山の願主名が刻まれているが、ほとんど苗字はない。塀の中の地蔵堂の創建年代は不詳だが、江戸時代の切絵図には「地蔵堂」と記されている。この辺りは本木村で少し西が宮城村、小台村との村境になっていた。太田という小字で江戸時代から民家が密集した地域であった。

場所  足立区扇2丁目3-6

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2022年1月12日 (水)

長原の庚申堂(大田区上池台)

東急池上線長原駅の改札口から20mほど左に歩くと、江戸時代以前からの古道に出る。西に進むと洗足坂上で中原街道にあたる。東に進むと大井を経て東海道に繋がっていた古道である。通称を中通りと呼んでいた。洗足坂上から長原駅をへて第二京浜までは江戸時代のままの直線路である。現在は環七通りで分断されているが、この古道(中通り)の北側が小山村、南側が上池上村であった。

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長原駅から100mほど東の丁字路の角に大興電設という会社のビルがあり、丁字路を入ったビルの裏側に庚申堂がある。この前の道も江戸時代からある道。この道を南に下って池上本門寺に向かうルートだった。その関係が庚申塔にも表れている。

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堂内の庚申塔は駒型で上部に日月、下部に三猿が陽刻されている。造立年は享保17年(1732)2月。中央には「南無妙法蓮華経 日摂」とあり、脇に「両山四十三世  池上邑」とある。三猿の上にあるのはデフォルメされた邪鬼だろうか。よくわからない。日摂は本門寺第46代住職で昭和56年(1981)に亡くなっている。両山というのはわからない。もちろん南無妙法蓮華経は日蓮宗の題目でありここに池上本門寺の影響が濃いことが分かる。

場所  大田区上池台1丁目43-6

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2022年1月11日 (火)

叶仏堂の石仏(大田区西糀谷)

京浜急行線は京急蒲田駅で羽田線を分岐する。その羽田線の最初の駅が糀谷駅。以前は京急線は地上を走っており、第一京浜(国道15号線)も環八通りも京急線の踏切で大渋滞を起こしていたものだ。今は高架化されて2階と3階で発車方向がまちまちで慣れないと混乱してしまう駅になった。糀谷駅も地上駅だったがきれいな高架の駅に変わった。その糀谷駅から北東へ10分ほど歩くと民家の間に叶仏堂(かなぶつどう)がある。

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堂宇の中に説明を彫りこんだ御影石がある。「この御堂には今より貮百九十年前祀られた石像がある。向かって右が大日如来で、左側は青面金剛即ち庚申である。昔から私達の先祖や先輩が代々建物を改めお祀りして来た。境内無縁仏は元禄時代より近所居住者の共同墓地で在ったが今は参詣する者もないので之を合祀して無縁碑を建て誰にでも御参りが出来るやうにした。茲に御協力下された方々を記して紀念とする。
(昭和43年5月)」とある。

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右の背の高い石仏が大日如来坐像かと思いよく見たがどうやら阿弥陀如来のようだ。造立年は延享元年(1744)5月、台石正面には「奉納大乗妙典六十六部供養塔」とあり左右にそれぞれ「天下泰平 武州六郷領」「國土安穏 糀谷村念西」と書かれている。右側面には「三界万霊」と彫られている。写真中央は面白い形の庚申塔。元は駒型だろうか、戦災でかなり痛めつけられている。舟型の石の中央に塔型の陽刻があり、「南無青面金剛」の文字、脇には延宝6年(1678)9月の紀年と「六江領糀谷村」の銘。六江は六郷の誤字だろう。下部には三猿が陽刻されている。

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堂の外には一つに纏められた古い石仏(墓石)が山になっている。前の2基はともに墓石だが、左の舟型如意輪観音像は宝永6年(1709)6月のもの。左の舟型地蔵座像は正徳4年(1714)11月のものである。まだまだ東京にもこういう街の古い墓地跡は散見されるが、年々消えて行っているのも事実である。

場所  大田区西糀谷1丁目26-10

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2022年1月10日 (月)

山王大権現碑(世田谷区砧)

小田急成城学園前駅から南東へ数百m、千川沿いの崖っぷちに小祠がある。ここは仙川の流れが台地を削って出来た河岸段丘が川まで迫っている場所で、崖下の道の標高は32m、崖上の標高は41mと落差は9mもある。ここから100mほど下流に行くと、ゴジラやウルトラマンなどを生んだ東宝撮影所。

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小祠の中には笠付角柱型の石塔が1基祀られている。かなり摩滅が進んでいるが、正面には「南無妙法蓮華経  山王大権現」とあり、脇には「南無妙法如来、南無釈迦如来」とある。脇にある紀年を見ると、元禄15年(1702)8月の造立である。

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山王大権現というのは中世の神仏習合で生まれた天台宗の鎮守神らしい。比叡山(日枝山)の山岳信仰と神道、天台宗の融合によるもので、日吉権現とも言われる。山王社は明治の廃仏毀釈(神仏分離)で比叡山延暦寺から無理矢理分離させられ日吉大社に組み込まれた歴史がある。庶民は地神から仏教まで平らかに信仰しているのに、権力はつまらぬ争いを繰り返し続ける。それは文明が出来てから今まで、人間が進歩していない部分である。

場所  世田谷区砧8丁目32-7

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2022年1月 9日 (日)

大蔵水道橋脇の庚申塔(世田谷区砧)

東京には所々に水道道路と呼ばれる直線路がある。井の頭通りがその代表だが、杉並区と世田谷区を袈裟切りにするように走る荒玉水道道路もそのひとつ。荒玉水道は多摩川の水を中野区野方や板橋区大谷口へ供給する地下水道管で、その上を直線路が伸びている。正式には都道428号高円寺砧上水線という道路名。所々に杭があり大型車が通れないようになっている。

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荒玉水道道路が砧で仙川を越えるところで水道管も地表に姿を現しており、その袂に2基の石塔がある。囲いのない方は「石井」という文字が見えるが他は摩滅して読めない。石井姓はこの辺り大蔵の昔からの第一の姓で、大蔵は沢山の石井家がある。しかしこの石塔が何なのかは分からない。その右には車がぶつかっても大丈夫なほどの頑強な鉄柵に囲まれた石橋供養塔がある。

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正面には日月、その下に「奉石橋供養塔」とあり、下部には三猿があるが左の猿は欠損している。手前の路上コンクリートに1767年立之とあるが、この石塔は庚申塔であり明和4年(1767)3月に造立されたもの。願主は河野平四郎とあり石井ではない。各面にはおびただしい数の願主名が刻まれている。その中には庚申講中や念佛講中、散屋講中を含め関東近郊各地の村名とその願主名がある。年代からして水道橋とは無関係である。私の推測はもともと次太夫堀の橋に関わるものではないかと考えている。石工の名前が六郷の永井佐兵衛という人で、次太夫堀は狛江で引いた多摩川の水を六郷まで流していたから、この流域に関わる人々、そして次太夫堀沿いに走る筏道に関わる人々が参加したのではないかと。

場所  世田谷区砧7丁目1-21

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