2020年12月 2日 (水)

根生院の庚申塔・石仏(豊島区高田)

金乗寺から東へ路地を100m足らず歩くと根生院がある。根生院はなかなか苦難の末に現在まで続いている寺院である。江戸時代初期の寛永12年(1636)に神田白壁町に建立。神田白壁町は現在の神田駅を含む駅東側の一角の旧地名。内神田は江戸時代職人の街で、白壁町は文字通り左官業が集中していた。ところが10年もしない正法2年(1645)下谷長者町へ移転、さらにその33年後の元禄元年(1688)に本郷切通坂へ移転、しばらく安泰だったが、明治になると明治22年(1889)上野池之端七軒町へ移転、そして現地の豊嶋郡高田には明治36年(1903)に移った。

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山門は時代を感じさせるが、本堂は戦後昭和28年(1953)に建てられ、平成14年(2002)にさらに再建された。山門に向かって左手に2基の庚申塔が祀られている。向かって右側の駒型と思しき庚申塔は、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、造立年は天保6年(1835)と立て札にあるが庚申塔からは読めない。しかし側面に「▢▢年乙未八月庚申」とあるので、立て札通りだろう。

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左側はもともと笠付角柱型だったものの笠が失われた形。日月、「奉供養庚申天子」の下に三猿の図柄。造立年は元禄3年(1690)4月。説明板には「宿坂下、(旧)大榎一里塚より移転したものと思われる」と書かれている。

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山門の中に入ると貴重な石仏にはきちんと説明書きがあって有難い。上の写真は大日如来像である。造立年は寛文6年(1666)8月。この大日如来は胎蔵界のものらしい。金剛界と胎蔵界のものがあって、金剛界の大日如来は「知恵」の面から見た姿、胎蔵界の大日如来は「慈悲」の面から見た姿だという。よく分からない。

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その近くには、「南無大師遍照金剛」と書かれた供養塔がある。造立年は宝暦7年(1757)5月。江戸時代の江戸府内八十八ヶ所の石標らしいが、そのうち現存するのは4基しかないとある。

根生院はもともと河岸段丘の中腹にあったようで、明治時代の地図では現在の境内周辺は広い池になっており、屋敷の庭園を利用して当初は造られたのだろう。無理なことだが、戦前までのこの寺院を見てみたかったと思う。

場所  豊島区高田1丁目34-6

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2020年12月 1日 (火)

目白不動金乗院の石仏(2)

金乗院にある目白不動尊脇の階段を上ると墓所への鉄扉があるが、その先にも石仏は並んでいた。また墓所の奥には丸八忠弥の墓がある。丸八忠弥といっても知る人はほとんどいないが、水道橋駅北東にある都立工芸高校と名門女子校桜蔭学園の間の名坂、忠弥坂のその人である。慶安事件(1651)は油井正雪が倒幕を企んで失敗した乱で、首謀格だった忠弥が江戸城を襲って将軍を誘拐し、京都では正雪が天皇を誘拐するという驚くべき計画だった。未然にバレてしまい、忠弥は死刑、正雪は捕まる前に自殺してしまった。

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鉄扉の奥には、不動明王像と如意輪観音像が並んでいる。不動明王像は文字が何もなく年紀等全く不明。舟形光背型の如意輪観音像は延宝8年(1680)5月の造立で、上部中央には「奉建立」、右側には「観音菩薩尊像」と彫られている。

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坂を戻り、目白不動に登ってみるとそこには10基の地蔵菩薩が並んでいた。どれも年紀等は分からないが、左から2番目から7番目まではひとまとまりの六地蔵である。一番左の大きな地蔵菩薩にはうっすらと元禄17年(1704)と読めた。おそらくはどれも江戸時代前期から中期のもののようだ。

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本堂前に戻ると、そこには倶利伽羅不動庚申があった。見事な倶利伽羅不動で龍が剣を飲み込もうとする姿は迫力がある。下部には三猿が描かれており、造立年は寛文6年(1666)2月とあるが、この見事な倶利伽羅不動は戦前は関口の目白不動尊にあったもので、不動尊と共に戦後金乗院に移されたものである。富山県、石川県の県境にある倶利伽羅峠も有名で、1183年に源平の戦い(倶利伽羅峠の戦い)があったところである。

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さらに本堂左手の植木の脇にも庚申塔が一基ある。駒型の庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。「小日向水道町 上野屋」の銘がある。造立年は見当たらなかったが、摩滅が酷いので消えてしまったのかもしれない。古道の坂道、目白不動、という条件からいろいろなものが金乗院に集まってくる何かがあるような気がしてならなかった。

場所  豊島区高田2丁目12-39

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2020年11月30日 (月)

目白不動金乗院の石仏(1)

目白駅で山手線を跨線橋で交差して渡る目白通りは神田川の河岸段丘の崖上に走る清戸道という古道である。目白通りから南側はすべからく急坂で、椿山荘まで名坂がまさに目白押し。最も急峻なのぞき坂から東に進むと次の坂道が宿坂。宿坂は江戸時代以前の街道で宿坂道と呼ばれ、宿坂の関という関所もあり、なおかつ竹木が生い茂る昼なお暗い道だったと伝えられている。

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上の写真の宿坂沿いにあるのが金乗院の不動堂(目白不動)。金乗院の創建は織田・豊臣時代の天正年間(1573~1592)、目白不動は戦前は椿山荘の先にあったが、戦災で焼失したため戦後ここに移された。その金乗院には沢山の石仏がある。

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山門は本堂とは90度向きが異なり、宿坂側にある。山門左手前の地蔵菩薩半跏像は江戸時代の富裕層の墓石だろうか、台石にはいくつもの戒名が彫られ、宝暦年間(1751~1764)、享保年間(1716~1736)、正徳年間(1711~1716)などの享年が刻まれているので、宝暦年間後半の建立と思われる。門の右手にあるのは不動明王像で台石には、享保6年(1721)9月の年紀がある。目白不動と共に移されたものだろうか。

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本堂と目白不動の間に崖上の墓所に上る階段道があり、その周りに沢山の石仏が並べられている。まず目白不動堂脇の2基の庚申塔だが、左の角柱型庚申塔は元禄5年(1692)11月の造立。上部に日月、中央には「奉待念庚申一座」と彫られており、下部に三猿が陽刻されている。右の庚申塔は舟型、延宝5年(1677)8月のもので、上部に日月、中央には「庚申塔信心衆」と刻まれる。下部には同様に三猿が陽刻されている。

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次に階段の左手にある大きな擬宝珠付きの笠付角柱型庚申塔は、日月、青面金剛像、三猿が描かれており、側面には二鶏が陽刻されている。正面右に「奉待念庚申講一座二世安楽所」とあり、左側には寛文8年(1668)5月の年紀がある。青面金剛像のあるものとしては最初期のものだろう。右の舟型光背型の地蔵菩薩立像は寛文10年(1670)10月のもので、「奉供養地蔵二世安楽所」と書かれている。

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階段道の右側を見るとこちらも大きな擬宝珠付きの笠付角柱型の庚申塔。上部に日月、下部には前左右面に合わせて三猿がいる。中央には「奉建立庚申塔婆二世安楽攸」と書かれ、造立年は延宝4年(1676)4月とある。並びには供養塔を挟んで、もう一基の角柱型庚申塔があり、下部に三猿が陽刻、正面には「奉信敬庚申禮三年講結衆諸願成就」と書かれる。造立年は万治2年(1659)11月である。

場所  豊島区高田2丁目12-39

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2020年11月29日 (日)

簸川神社の庚申塔群(文京区千石)

小石川植物園の西側は網干坂、その先に簸川神社があり、簸川神社の西側が簸川坂。どちらも見事な風景の坂である。簸川神社はこの二つの坂が見せる急な斜面の上に立つ神社。坂下にはかつて小石川(千川)が流れ時折洪水を起こしていた。そんな小石川も戦前の昭和初期には埋め立てられて暗渠となってしまったようだ。谷の対岸上の尾根には中山道が通り、ちょうど茗荷谷駅あたりになる。

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簸川神社の創建は飛鳥時代よりもさらに古い孝昭天皇3年(473)と神社庁では説明しているが、孝昭天皇は紀元前475年から紀元前392年というのが在位。もっとも古すぎてどちらもかなり眉唾である。そもそもその時代はここは海岸だった可能性が高い。真偽はともかくとして、そんな神社の境内にはコンクリートで固められた庚申塔群がある。

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上の写真は本殿側から見た図。右側の背の高いのは青面金剛像の形は分かるが、上部の日月と下部の三猿はかすかに痕跡がある程度。年代は分からない。隣りの庚申塔も年代不詳。青面金剛は分かるがそれ以外は殆ど判別できない。その隣は向きが90度変わるが、この庚申塔だけは残された一部で年代が判定できる。延▢▢▢己未五月とあるので、延宝7年(1679)5月とわかる。

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延宝7年の庚申塔は損傷が激しく一部の文字以外は読み取れないが「奉待庚申供養」という文字は見える。おそらく下のふくらみは三猿だろう。その上には上部と中央部が欠損し下部のみのこされ、青面金剛の下半身だけがわかる庚申塔が乗っかっている。邪鬼のふくらみがわかる。これも年代不詳。隣りは青面金剛、鶏、猿の一部が残る庚申塔で正徳4年(1714)の年紀が読めた。

本堂とは反対側(階段側)の駒型石塔は正体が判らない。その左もほとんど形を留めていないが、文京区の資料によると、青面金剛像の庚申塔らしい。年紀などの情報は全く不明である。その資料には「己巳三月」とあるので、元禄2年(1689)か寛延2年(1749)だろうが、もしかしたら文化6年(1809)の可能性も捨てきれない。

場所  文京区千石2丁目10-10

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2020年11月28日 (土)

一行院の庚申塔(文京区千石)

一行院は浄土宗の寺院。江戸時代の初期に開山したが、文化年間(1804~1818)に徳本行者が中興した。この徳本行者が一行院の主役と言ってもいいだろう。紀州(和歌山県)の人で念仏を唱えて諸国を順礼したが、徳川家との繋がりが深く、増上寺の大僧正の願いで一行院に住むようになったという。当時の十一代将軍徳川家斉の帰依を受けた。

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山門は素晴らしいが、特に説明板などはなかった。一行院の山門前の道は、一行院坂という坂である。この坂は一行院あっての坂道である。この辺りになると、指ヶ谷を流れていた小沢も源流以遠となるため坂の起伏は少ない。

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本堂と社務所の裏手に墓所が広がっていて、その中心に徳本行者の墓がある。その後ろに一基の庚申塔があった。駒型で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄である。造立年は享保2年(1717)11月で「庚申講中」とある。江戸時代中期の典型的な駒型庚申塔である。

場所  文京区千石1丁目14-11

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2020年11月27日 (金)

白山神社の庚申塔(文京区白山)

白山神社は天暦2年(948)の創建。もともと本郷元町(現在の本郷1丁目)にあったが、二代将軍秀忠の命により巣鴨原へ移された。今の小石川植物園の辺りである。ところがその場所に綱吉の御殿を作ることになり、移転を余儀なくされ現在の場所に落ち着いた。白山神社の境内にも庚申塔がある。

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境内と言っても、本殿脇の渡り廊下をくぐって奥へ進むと富士塚の小丘があり、浅間神社が祀られている。残念ながら現在は立ち入り禁止となっているが、その麓の鳥居の近くに庚申塔が立っている。紫陽花の公開時期のみ入ることが出来るらしい。この富士山は山の上の富士山のようなものなので、実際の高さは4Mほどしかないが随分高く感じられる。鳥居の右に銀杏の大木があり、そのさらに右側に庚申塔があった。

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角柱型の庚申塔は、上部に日月、真ん中に「奉起進庚申供養」とかかれ、下部にあったはずの三猿はなぜか荒々しく削られてしまっている。造立年は延宝8年(1680)4月とあるが、側面には寛政年間(1789~1801)に白山の庚申講中が再建したとあるので、実際は寛政年間のものであろう。

場所  文京区白山5丁目31-26

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2020年11月26日 (木)

妙清寺の石仏(文京区白山)

都営地下鉄白山駅は薬師坂の地下にある。白山通りからここを通って尾根伝いに通る中山道(国道17号線)に谷を上り詰めるのが薬師坂の道筋。厳密にいうと は坂下から中程までは谷筋を通るが、途中から谷は西に曲がる。東洋大学白山キャンパス辺りが源頭である。この谷のズレから妙清寺は山門を入ると谷底に落ちるように階段を下り境内に至るという不思議な地形になっている。

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階段を下ると石仏が並んでいる。この妙清寺に薬師堂があった為、江戸時代には薬師坂と呼ばれた。同様に心光寺が吸収した浄雲寺にちなんで浄雲寺坂、白山神社にちなんで白山坂などと、いろいろな呼ばれ方をした坂である。

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石垣の奥の折れ曲がりの隅に庚申塔がある。笠付角柱型の庚申塔で、「奉修庚申供養為二世安樂」と書かれた下に三猿が彫られている。造立年は寛文11年(1671)5月。下部に施主名が並んでいるが摩滅が激しいので読みづらい。

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左の本堂近くにあるこの地蔵菩薩像はもとは舟形光背型だったのだろう。しかしかなりの部分が欠損している。下部に寛文9年(1669)9月の年紀が入っている。妙清寺の創建は慶長11年(1606)であるから、まだ坂下は湿地帯だったころである。江戸時代の地名は指ヶ谷という。今でもお七の墓のある円乗寺の門前にはこの説明板がある。

場所  文京区白山5丁目33-3

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2020年11月25日 (水)

心光寺の石仏(文京区白山)

白山にある心光寺の入口は分かりにくいが、薬師坂を歩いていけば建物の切れ目に参道が見つかる。浄土宗浄雲院心光寺と書かれた門柱が目印。そこに足を踏み入れると、すぐに数段の階段があり古い山門をくぐる。この辺りに来ると都会の喧騒が掻き消えて、まるで別世界に入ったような錯覚を覚える。

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心光寺は寛永5年(1628)に本郷田町で建立された。後の大火で現在の場所に移転した。明治43年(1910)に隣にあった浄雲寺を合併し、浄雲院心光寺となった。山門の中の境内には沢山の江戸時代の石仏がある。今回はその一部を紹介したい。

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まずは左に並ぶ六地蔵。すべて舟形光背型だが、石工は異なる印象を受ける。左から、寛文5年(1665)9月の地蔵、二番目は万治4年(1661)4月で上部がかなり破損している。三番目は寛永16年(1639)6月と最も古く、四番目は寛文元年(1661)6月でこの尊像は蓮を持つところから聖観音とも思えるが尊顔や風体は地蔵菩薩っぽい。五番目は万治2年(1659)6月で薬師如来風の地蔵菩薩だろうか。一番右は明暦元年(1655)9月造立である。六地蔵はいろいろなバリエーションがあって不思議である。

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六地蔵の向かいの植込みの奥に庚申塔が立っている。左にある角柱型の庚申塔はかつては笠付だった様子。「奉供養庚申」と書かれた下に三猿、上部には日月が描かれている。造立年は延宝4年(1676)7月。中央の大きな庚申塔は駒型と思われる。日月、青面金剛像、二鶏、三猿の図柄で、造立年は元禄16年(1703)1月である。

心光寺の森の中の寺院にいるかのような雰囲気は素晴らしい。これ以外にも素晴らしい石仏がいくつもあったがそれは別の機会に。

場所  文京区白山5丁目36-5

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2020年11月24日 (火)

八百屋お七の墓と庚申塔(文京区白山)

白山にも名のある坂が多い。そのうちのひとつ浄心寺坂下にある円乗寺は元和6年(1620)の開山で、八百屋お七の墓があることで有名である。以前浄心寺坂の取材で来てから約4年ぶりの訪問で、円乗寺がすっきり都会的な改装をしていたのには驚いた。ごちゃごちゃしていた時代感のある山門付近もまるで新しい寺院が出来たかのように広々としてすっきりしていた。もっとも私は前の方が好みだが。

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山門からまっすぐに入っていくと塀側に六地蔵があり、その先に八百屋お七の墓がある。八百屋お七の話については浄心寺坂のページにも書いたので割愛させていただくが、ざっくりと言えば天和の大火が天明6年(1786)12月に起こり、その放火犯としてお七は罰せられ、翌年3月に火あぶりの刑で処刑されてしまった。

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お七の墓には3基の石塔がある。中央の小さなものは諸説あるが供養のために円乗寺の住職が建てたものとされる。右の中折れが痛々しい角柱は、後に歌舞伎役者の岩井半四郎がお七の興行が大成功した寛政年間(1789~1801)に御礼供養として建立したもの。そして左の新しい角柱は270回忌の昭和中期に近所の有志が建立した供養塔である。お七の処刑後わずか3年で井原西鶴は『好色五人女』にこの事件を描き、それ以降300年間もの間繰り返し作品にされてきた。至近のものでは2013年に元AKB48の前田敦子が主演でドラマ化されている。

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お七の墓の先にひっそりと角柱型の庚申塔が立っている。造立年は天明6年(1786)12月だから、八百屋お七の事件の数年後のものである。日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿の図柄で、保存状態は極めて良い。江戸時代の日本は実におおらかで、罪人がヒーローになったり、その傍らで庚申信仰のような民間信仰が盛んにおこなわれていたりする様子は、武士の時代だがとても平和な時代だったことが想像できる。

場所  文京区白山1丁目34-6

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2020年11月23日 (月)

沢蔵司稲荷の庚申塔(文京区小石川)

伝通院山門から東に下る坂は善光寺坂。ここは谷端川(小石川本流)と神田川に挟まれた舌状台地の先端にあたる。その為善通寺坂だけでなく、六角坂堀坂富坂などの多くの坂がある。そしてこの舌状台地は伝通院を中心とした多くの子院、学寮が建ち並んでいた。僧が仏教を学ぶ学寮の僧の中に沢蔵司という極めて優秀な修行僧がいた。この沢蔵司が伝通院の和尚の夢枕に立ち、「余は千代田城の内の稲荷大明神である。かねて浄土宗の勉学をしたいと思い、それがかなったので、これから元の神に帰るが、これからも伝通院を守護する。」と告げたという。

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そこで和尚は境内に沢蔵司稲荷を祀り慈眼院を別当寺とした。それがこの慈眼院沢蔵司稲荷の始まりである。また、『東京名所図会』には、「東裏の崖下に狐の棲む洞穴あり」とある。今も窪地があって稲荷が祀られているという。

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沢蔵司稲荷の前にムクノキの巨樹がある。これには沢蔵司が宿っているという伝説がある。道路はこのムクノキを避けて通っている。伝通院の門前にあるそば屋に沢蔵司はよく蕎麦を食べに行ったという。その日は必ず売上の籠の中に木の葉が入っていたという言い伝えもあって面白い。ムクノキは推定樹齢400年の木だが空襲で上部が焼けたもののまだ元気である。

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手水鉢の裏手に均整の取れた石仏がある。聖観音菩薩立像だが、「奉供養庚申講  二世安楽所」とあるので庚申塔である。造立年は天和3年(1683)5月だが、綺麗な保存状態である。

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その近くに面白い顔の地蔵菩薩立像があった。左下に寛文9年(1669)10月の年紀がある。地蔵の上には穴が開いて貫通いている。不思議な地蔵菩薩である。その他の文字は殆ど読めないが、この顔といい、上部の貫通穴といい、どういうものなのか興味が湧く。

場所  文京区小石川3丁目17-2

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