2020年9月19日 (土)

柏木神社稲荷大明神石祠(北区神谷)

江戸時代の神谷村は小さな村だったが、荒川(現在の隅田川)の流域で田畑が広がっていた。明治に入って合併で岩渕町となり、終戦後王子区から北区となった。現在の環状七号線の北側、北本通りと京浜東北線の間が神谷という地域である。その神谷村の鎮守として元享年間(1321~1324)に創建したのが柏木神社である。かつては広い境内を有していたが、周辺に軍需工場が出来て土地を奪われ、現在の地に収まった。

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柏木神社の境内に稲荷宮がある。小さな石祠なのに大きな鳥居がアンバランスだが、この石祠が実は庚申講によるものというとても珍しいケースなのである。石祠の建立年は享保3年(1718)12月。笠(屋根)に「太」と彫られているのは何の意味なのか分からない。

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石祠の正面には「稲荷大神」と彫られ、左面には造立年と「右志者村中施主 〇〇」とある。右面には「武州神谷村」の銘があり、「奉供養庚申講中 諸願成就」の文字が見られる。江戸時代中期は村中が庚申講中で盛り上がっていたのだろう。庚申塔だけでなく、この年代にはこういう石祠や手水鉢、まれに狛犬にまで庚申講と彫られていることがある。

場所   北区神谷3丁目55-5

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2020年9月18日 (金)

八雲神社庚申塔(北区中十条)

環状七号線と旧岩槻街道(日光御成道)の交差点にあるのが八雲神社。この東側の環七の緩やかな坂は馬坂と呼ばれるが、江戸時代は大川(隅田川)の河岸段丘の崖線で階段並みの急坂だった。馬坂のところでも触れたがこの八雲神社は小さい神社で見落としがちだが、昔は環七がないので日光御成道のランドマークだったのだろう。

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十条八雲神社の創建は寛政8年(1796)と伝えられる。かつて境内には樹齢三百年を超える大杉があり、天王の一本杉と呼ばれたというが、これも含めて日光御成道の目印だと言えるだろう。八雲神社となったのは八雲講が管理しているためで、元々は牛頭天王社だったようだ。もっともどちらも京都の八坂神社系列らしい。

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境内にあるのが駒型の庚申塔で、「庚申塔」という大きな文字、台石に三猿という図柄である。造立年は天明4年(1784)11月で、「武刕十条村講中」の銘がある。また道標も兼ねているようで、「是より左りいたばし道」とある。江戸時代は神社の東側は崖線を下る馬坂、西側には板橋への街道があり、姥ヶ橋から北西に向かい蓮沼で中山道へ繋がっていた。

場所  北区中十条3丁目33-12

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2020年9月17日 (木)

日枝神社庚申塔(北区十条仲原)

環状七号線がJR埼京線を渡る橋は親柱に富士見橋とある。しかし周辺には富士見と呼べそうな場所はない。そもそも埼京線はほぼ南北に走っているので、西にある富士山が見えるはずもない。ただ橋の少し東に富士見ビルというビルもある。また環七の北側には富士見診療所という内科小児科の病院もある。そして、日枝神社のすぐ西側で環七にぶつかる南から続く商店街が十条富士見銀座商店街ということが分かった。東十条駅の近くには富士講の富士もあるので、まあ昔は見えたのかもしれない。

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日枝神社は小さな神社で本殿は庚申塔の堂宇と大きさがあまり変わらないほどこじんまりとしている。庚申塔は本堂に向かって右手にある堂宇にあり、板碑型ではあるが、ほぼ駒型っぽく、日月、青面金剛像、二鶏、一猿の図柄。高さは124㎝もあり比較的大きな駒型庚申塔。造立年は延宝4年(1676)2月で古いものである。

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青面金剛の右側には「奉納庚申待供養二世安樂所」とあり、左側には年紀と「武刕豊嶋郡十条村」の銘が彫られている。近年も庚申の祭りは継続されており、「仲原庚申」というらしい。いったん途切れていた庚申講が近年復活し、庚申講では年6回庚申様のお祭りを開催している。神社の境内にあることで、庚申講が継続している例と言えるだろう。

場所  北区十条仲原2丁目6-5

 

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2020年9月16日 (水)

聖観音堂の石仏(北区上十条)

埼京線十条駅から西へ、環状七号線の姥ヶ橋との間にあるのが雪峰院長泉寺。その門前にあるのが聖観音堂という赤い門構えの小堂である。堂宇の中に何が祀られているのかは、門から中へは入れないので分からない。小堂の手前、左側に石仏が並んでいる。

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手前側は駒型の庚申塔で、高さが135㎝もある大きなもの。上部に日月、青面金剛像、その下に二鶏と三猿が彫られている。造立年は延宝5年(1677)12月、江戸時代初期のものである。青面金剛像の右には「奉造立青面金剛尊像一躰二世安樂処」と書かれている。平成8年(1996)発刊の北区の資料を見ると頂部の欠損がないので、それ以降最近壊れたものである。

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その隣の丸彫石仏は白衣観音立像。奥の舟型の石仏は大日如来像であろう。造立年は天和3年(1683)3月とある。いつも門扉がきっちり閉鎖されているのは、庚申塔の頭頂部を破損させたいたずらがあってその結果ではないかと思ってしまう。昭和、平成、令和と時代は移り変わるが、神仏に危害を加えるものは必ず報いを受けると信じるべきだろう。おどろおどろしいものではなく、人の生きざまとして問われる一線という意味である。

場所  北区上十条3丁目25-2

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2020年9月15日 (火)

十条民家門脇の庚申塔(北区上十条)

JR埼京線十条駅から西へ約200mほど、場所を知らなければ到達不可能なところである。しかしあくまでも民家なので、静かに見て通り過ぎるのがいちばん。このお宅は高木家、その門前に一基の庚申塔がある。

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植木鉢の植物に覆われていて、近所の人も気づかないかもしれないが、植木鉢の後方に立派な庚申塔が立っているのである。角柱型だが、もしかしたら元は笠付角柱型だったのかもしれない。門とブロック塀の角に置かれているので二面しか確認できなかった。正面上部には日月、その下に「庚申塔」の文字。

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そのさらに下には、「上十条村前新田 講中」とある。江戸時代末期この辺りは十条村だった。十条駅前の十条銀座周辺の小字が前新田、その西側が新堀、北が仲原町で、上十条村前新田となるとまさに地元である。横面には「東 王うじみち」とあるが、造立年は分からなかった。似たような角柱型文字塔で比較的近場のものは、東十条駅前にある寛政3年(1791)のものと十条駅近くにある天保15年(1844)のものがあるので、それと同じくらいの年代だろうと推測される。

場所  北区上十条2丁目22-3

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2020年9月14日 (月)

としまえん前の馬頭観音(練馬区練馬)

2020年8月31日で閉園となったとしまえん(豊島園)。94年前に開業した遊園地だが、場所は練馬区なのに何故豊島園という基礎的な疑問を持つ人も多い。もともとこの地は室町時代に築かれた練馬城という館城の跡地である。この地を治めていたのが豊嶋氏で、東京の半分は江戸時代から明治にかけても豊嶋郡だったほどである。また練馬区はもともと板橋区の一部だったが、戦後ようやく練馬区が誕生したくらい新しい。

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その豊島園のゲートの北側には現在も豊島園庭の湯というスーパー銭湯がある。その前の細路地に二基の馬頭観音が立っている。手前の切り株は長い事ここに生えていた銀杏の樹の切り株。いつ伐採されたのか分からない。去年はあったはずである。切り株のすぐ傍にある三角形の自然石の馬頭観音塔は明治43年(1910)6月の造立。施主名は鈴木芳太郎とある。

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もうひとつは角柱型の馬頭観音。こちらは昭和2年(1927)のもので、施主は大野太右衛門とある。この昭和2年(1927)という年にとしまえんは開業した。自然石の馬頭観音の横にとしまえんと同時に立てられた馬頭観音はとしまえんの閉園を見送ることになったのである。

場所  練馬区練馬4丁目19-7

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2020年9月13日 (日)

護国寺の石仏(2) (文京区大塚)

護国寺の石仏の多くが集まっているのが、太子堂の周辺。太子堂は元禄14年(1701)に再建された薬師堂を大正末期から昭和初期に大改修してこの場所に移し太子堂としたもの。この太子堂の周りには地蔵と庚申塔が建ち並んでいる。

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まずひときわ背の高い光背付きの丸彫地蔵尊、これは身代り地蔵である。時代は新しいもので昭和戦後の造立。第二次大戦の戦犯は現在のサンシャイン60のある場所にあった巣鴨プリズン(巣鴨監獄)に囚われ、千名余りが戦犯として死刑になった。その霊を弔う目的で護国寺が造立したものである。

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もうひとつの地蔵尊は堂宇に納まっている一言地蔵。これがなかなか面白い。小松未歩の『願い事一つだけ』ではないが、一つだけ願いを叶えてくれるという地蔵尊である。堂宇の内壁には、「お地蔵さんは寒がりです。足元だけに水を掛けてください 。」と書いてあった。素敵なお願いの方法である。

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地蔵の後ろの斜面に並んでいる庚申塔だが、まずは正徳2年(1712)9月造立の舟型光背型の庚申塔。面に対して大きな青面金剛像の上には日月、下には三猿が彫られており、「諸願成就」と刻まれている。

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次はシンプルな駒型の庚申塔。上部に日月、中央に種子(ウーン)が彫られ、下部に三猿が見られる。造立は延宝8年(1680)5月と比較的古いもの。昔は5基の庚申塔がまとめて並べられていたらしいが、現在は太子堂と鐘楼の間の斜面の植込みに点在している。

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その先には角柱型の庚申塔がある。形から推測すると、元は笠付だった可能性が高い。最上部には日月、その下に種子(ボローン)と「庚申」の文字。その下には小さめの文字で「講中」とある。造立は延享3年(1746)1月。台石には、資料によると、小石川大塚町、牛込などの地名があるようだ。

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分かりにくい場所にあったのが、上の庚申塔。角柱型で上部が丸みを帯びている。前面には日月と種子(ボローン)、「奉供養」「庚申塔」「諸願成就所」の文字があり、下部に二鶏と三猿がある。右面には「小石川御箪笥講中 敬白」とあるらしく、造立年は正徳6年(1716)5月。

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最後はとても彫りの見事な変わった形をしている。造立年は元禄2年(1689)3月。上部に日月、そして青面金剛像、その下に邪鬼、最下部に三猿が彫られているが、どれも極めて質が高い。左右面には一鶏がそれぞれある。護国寺の庚申塔はどれも個性的で、当時の江戸の人々の洒落っ気が出ているように思う。江戸時代の中でももっとも華やかで景気の良い時代のもので、少しアートに近づいている感じがする。

場所  文京区大塚5丁目40-1

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2020年9月12日 (土)

護国寺の石仏(1) (文京区大塚)

都内有数の寺院のひとつ護国寺、徳川五代綱吉が生母桂昌院の発願で開山した大型の寺院。江戸川橋から続くまっすぐな音羽通りは護国寺の参道である。交番脇から大きな仁王門をくぐる。護国寺の伽藍への入口は元禄10年(1697)の建立。表側左右に金剛力士像、右側が阿形(あぎょう)、左側が吽形(うんぎょう)。裏側には二天像という仏法を守る仏像が置かれている。

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真っ直ぐ進むと石段がある。これも河岸段丘。現在の道路と同じ筋に東から流れてくる音羽川、西から流れてくる弦巻川、この二つの河川の又にできた台地への上りである。実はこの階段を上る前に、右手にある音羽富士に登ると楽しい。東京に百を超える富士講富士の中でもよく保存されているもののひとつ。

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この石橋の向こうに音羽富士がある。橋はこっちと向こうを繋ぐもの、見方を変えるとこの世とあの世を繋いでいるとも考えられてきた。坂もそうであり、坂の上と坂の下は別世界と捉えられる。この橋の手前にある冨士道と書かれた自然石の裏に「庚申」の文字を見つけた。

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しかしおそらくは巣鴨の庚申塚のことである。その下に半分埋まっているのは「若者」という文字、その下を含めると「若者衆」ではないだろうか。音羽富士の高さは6mほどしかないが、沢山の石塔石仏が建てられていて、それを見ながら上っていくと結構な高さに達する。富士登山を楽しんで石段に戻る。

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その石段下に摩滅してボロボロになった庚申塔がある。角柱型で、正面には「庚申供養塔」、右面に「左江戸道」、裏面には「右いわつき道」とある。造立年は摩滅していて読み切れない。▢▢元年5月とあるが、元年で該当するのは、寛永元年(1624)、慶安元年(1648)、貞享元年(1684)、延享元年(1744)、文化元年(1804)、元治元年(1864)のうちのどれかだろう。

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石段を登り切って不老門(昭和13年建立)をくぐると広い境内に出る。正面には大きな本堂。この本堂(観音堂)も元禄10年(1697)に建立されたもの。関東大震災にも第二次世界大戦の空爆にも耐えた江戸の遺産である。伽藍は広く本堂の左右に広がる。左の方に進むと薬師堂がある。この薬師堂の建立は元禄4年(1691)で境内で最も古いものである。

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薬師堂の裏手にひっそりと佇む不思議な石塔がある。文京区指定有形民俗文化財の庚申塔で、造立年は天明5年(1785)。江戸時代も中期になるとあまり良い石材のものが無くなっていくのだが、これは材も石工も超一流である。台石にはびっしりと関係者の名前が彫られており、石工は安部勘助、細工人は安富与兵衛とある。このタイプの庚申塔は他に例を見ない。音羽下町講中によって造られたもので、塔の上部を三猿が支えている。

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正面側には二猿、裏に回ると一猿と唯の荒っぽい造りの支柱が一本。この支柱があまりに雑なので、前述の石工の考えはどうだったのだろうと気になった。台石に書かれた文言を見ていくと、どうもこれを造立する前に延宝8年(1680)の庚申塔があったらしい。それから105年後に音羽下町講中によってこの見事な庚申塔が再建された、というか新調されたのだろう。

場所  文京区大塚5丁目40-1

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2020年9月11日 (金)

腰掛稲荷社の庚申塔(文京区目白台)

目白台を形成した川は南の神田川と北、そして東を流れた弦巻川である。弦巻川は雑司が谷台の西側から流れ、護国寺前で音羽川と併流し、江戸川橋で神田川に合流していた。目白台の東側の流程上には首都高速5号線が通っている。腰掛稲荷のある目白台北部は江戸時代は百人組同心という下級武士の団地のような場所だった。現在は筑波大付属の視覚特別支援学校があるが、以前はこの前身の盲学校と東京大医科分院があった。(ハンディキャップの人に対する言葉が分かりにくくなればなるほど、言葉の定義が人を分断しているように思う)

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目白台の崖線上に腰掛稲荷があり、その前に2基の庚申塔が立っている。左の駒型庚申塔は元禄3年(1690)11月の造立。上部に日月、中央に「奉供養庚申講為二世安樂」とあり、その下に三猿が彫られている。三猿の岩座の凸凹には二鶏が組み込まれている。右の駒型庚申塔は貞享2年(1685)11月の造立。中程が折れて接合補修した跡がある。上部に日月、「庚申供養所」の文字、下部に三猿と二鶏が彫られている。

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稲荷神社には菊花石という珍しい石がある。岐阜県の根尾村で産出する石で、見事な菊花紋がある。稲荷とは特に関係がないようだ。腰掛稲荷というのは珍しい名前だが、由緒を見ると、徳川三代家光が鷹狩りで当地を訪れた時、切り株に腰掛けて休憩した。その時傍にあった祠に大願成就をしたという。その祠が腰掛稲荷の前身ということらしい。

場所  文京区目白台3丁目26-1

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2020年9月10日 (木)

妙足院の庚申石仏(文京区小日向)

小日向には名坂が多い。見事なのは鷺坂、その北には八幡坂鼠坂、そしてそれらの坂の上から南に下るのが大日坂である。この大日坂の坂の由来が坂の説明板にある。

「坂の名の由来は、坂の途中に大日堂があったことから里俗に呼ばれるようになったものであろう。堂のあるこの寺は天台宗で、覚王山妙足院と号し、開祖は浩善尼上人(紀州家の奥女)で、堂廟の創立は寛文2年(1662)といわれている。その後 何度か火災にあったので、堂は現在に至っていないが、坂の北の方の道造りは、妙足院で施工したと伝えられている。小日向の名の由来については、古く鶴高日向という人の領地だったが 絶家した後、「古日向があと」といっていたものが、いつか「こひなた」と呼ばれるようになったのであろうと、「御府内備考」では述べている。」

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その妙足院はとても小さな寺院で寛文年間(1661~1673)の創建と言われる。普通の広めの民家と思ってもいいくらいである。昔は長谷寺という寺号があったが現在はない。ご本尊の大日如来というのが、言い伝えによると慈覚大師が唐で賜ったというもの。真偽のほどは分からないが、江戸時代に信仰の対象になったくらいだからご利益はあるのだろう。本堂へのアプローチには丸彫の聖観音像が立っている。

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その奥にあるのが、舟型光背型の聖観音菩薩像の庚申塔。首のところで中折れしているが、補修の状態からして昭和年代だろう。本体の造立年は寛文8年(1668)11月と江戸時代初期のもの。右側に「庚申供養」の文字がある。

場所  文京区小日向2丁目17-6

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