2024年9月12日 (木)

中村家馬頭観音(多摩市関戸)

上の都道(古道鎌倉街道)には石仏など史跡がたくさんある。さすが新田義貞軍対鎌倉幕府軍の戦いや、江戸時代以降の大山道として賑わった歴史が息吹いている。関戸古戦場・下の地蔵から南へ下る(坂は上り坂)と数百mで熊野神社下の上の地蔵だが、その少し手前に大きな旧家がある。

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旧家は中村家という。門のわきには燈籠があり、その横には馬頭観音が立っている。この燈籠は常夜灯で、「秋葉山常夜燈」と呼ばれているもの。この辺りがもともとは関戸村の中心であった。脇にある馬頭観音は80cmほどの基壇の上に建てられている。

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正面には「馬頭観世音」、右側面には明治36年(1903)6月の造立年が刻まれている。左側面には「願主 中村?蔵」とあるが、一文字解読できない。前の道路は旧鎌倉街道だが、江戸時代以前には「鎌倉往還」とよばれ「いざ鎌倉」となると御家人が馬を駆って馳せ参じる道であった。東京都周辺の鎌倉街道は、主に多摩エリアを通っていた上ノ道、品川近くを通っていた中ノ道、千葉から浅草を通っていた下ノ道があったが、ここは上ノ道である。

場所 多摩市関戸5丁目12-26

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2024年9月 9日 (月)

佐伯屋敷跡下の馬頭観音(多摩市関戸)

前述の観音寺入り口にあった地蔵堂(関戸古戦場跡)は熊野神社前の地蔵堂を上の地蔵と呼ぶのに対して、「下の地蔵」と呼ばれている。そこからわずかに熊野神社に上ると山手に向かう路地があり、路地の奥はかつての佐伯屋敷跡らしく森と竹藪になっているが、最奥の駐車場の一角にコンクリート土台に立てられた馬頭観音がある。

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摩滅が激しく文字が読み取れないが、山側が正面で「馬頭観世音」の文字が読める。側面の文字はよくわからないが左側面の下のほうには「氏」という字が見て取れる。当初、多摩市の資料にも記載されていない。紀年も読み取れないが馬頭観音であることは間違いない。この場所から裏山を見ると、鎌倉時代の佐伯屋敷は斜面に築かれた館城ではないかと思われる。延命寺もその一角で、この道もサブルートのひとつだった可能性を感じた。

場所 多摩市関戸5丁目25番地先

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2024年9月 6日 (金)

古戦場跡の地蔵堂(多摩市関戸)

多摩市関戸に古戦場跡がある。鎌倉幕府滅亡の主役である新田義貞軍と北条鎌倉幕府の戦いが分倍河原とここ関戸で行われた。関戸古戦場は北条氏に仕えた佐伯氏が館を構えた場所。旧鎌倉街道から小道を上ると時宗の延命寺があるが、その入り口にあたる小道脇に地蔵堂が立っている。

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分倍河原の戦いでは幕府軍が勝利したが、ここ関戸の戦いでは新田軍が幕府軍に勝利を収め、6日後には鎌倉が陥落している。堂宇の中には丸彫りの地蔵菩薩像と角柱の供養塔が祀られている。地蔵菩薩は多摩市でも最も古い時代のもので、造立年は寛文3年(1663)7月。「関戸村 念仏講中」の銘がある。

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右の角柱型供養塔は念仏盟約塔と呼ばれるもので、「永大融通念仏盟約塔」の文字が刻まれている。父母の恩に報いるために「毎月一集、朝暮十遍以上」祈祷したのだろう。それ以外に正月、3月、10月にもそれぞれ13日に行われたようだ。女念仏講中の銘もある。造立年は寛成元年(1789)である。造立には府中の安養寺が関わっていた。

場所 多摩市関戸5丁目23-33

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2024年9月 3日 (火)

大栗橋の道標(多摩市関戸)

府中市から多摩市へは関戸橋を都道で渡るが、100年以上前は関戸の渡しという渡し舟で渡っていた。この辺りで多摩川に流下合流していたのが大栗川で、今の府中街道(川崎街道)が大栗川を渡る向ノ岡大橋あたりで多摩川に注いでいた。都道18号線はこの辺りでは大通りの西にある二車線の都道も同じ18号線として扱われているがこちらは一応旧道で、関戸の渡しだったころからここで大栗川を渡る橋であった。

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その旧道の大栗橋の北側に駐車場があり、その金網のわきに石塔が立っている。造立年は天明3年(1783)冬と刻まれている。正面には「南無観世音菩薩」と書かれており、脇には「右 ふちう道」「左 八わうじ道」とある道標である。

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かなり摩滅しているが文字は読める。この道標はこの位置ではなく昔は北の渡し場道の角にあったという。その場所は特定できなかった。関戸の渡しを過ぎて大栗橋を渡るとここからは山道に入っていく、そんな場所であった。おそらく山のほうから来た旅人が、この道標のところで二股になっていて、左が八王子、右が府中というのを知るためのものだったのだろう。

場所 多摩市関戸4丁目12-12

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2024年8月31日 (土)

有山の庚申堂(多摩市東寺方)

聖蹟桜ヶ丘オーパショッピングセンターの脇から小道を入る。現在は東西に都道20号線(川崎街道)が走り、その南をオーパ横から西へ向かう2車線の道があるが、どちらも新しい道である。昔はその一つ南の路地が東寺方へ向かう村道であった。

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100m余り西に進むと、綺麗な玉石の土台に載せられた堂宇がある。江戸時代から明治時代に積まれたこういう玉垣はいつ見ても見事だと思うが、現代ではその技術を持つ人が稀になってしまったようだ。堂宇の中には2基の庚申塔が祀られている。この辺りは昔、田んぼの中の小さな集落で、東寺方村の中でも有山という数軒の家が集まった離れのような集落だったようだ。

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右の庚申塔は櫛型角柱型と思われるが、中折れが酷い上に摩滅もかなり進んでいる。かすかな痕跡としては日月、青面金剛像、三猿の図柄のようである。多摩市の資料には解読困難とあるが、TATSUさんのサイトで読み解いておられた。「奉建立庚申供養塔」「寛政元年(1789)8月、有山講中」の文字があるようだ。左の駒型の小さな庚申塔は、明治9年(1871)12月の造立で、こちらにも「有山」の文字がある。

場所  多摩市東寺方1丁目8-5

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2024年8月28日 (水)

一ノ宮の地蔵庚申堂(多摩市一ノ宮)

京王線聖蹟桜ヶ丘駅から南へ下ると都道20号線(川崎街道)を横切る。駅ビルの別館オーパ(ショッピングビル)前の聖蹟桜ヶ丘駅前交差点から西へ川崎街道を進み、次の信号で路地を南に入ると、その先の辻に堂宇がある。ちょうど大きなマンションの裏庭のフェンスが堂宇のところだけ凹んでいる。

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堂宇の中には複数の石仏が祀られている。この辺りの古い地名は一ノ宮小字下向田。都道は後に取り付けられた大通りだが、元々この辺りは一面の田んぼで、戦後都道が開通した。ここはそれ以前の村道の辻だったのである。

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中央の丸彫地蔵は御影石製のごく近年のものだが、右の舟型光背型の地蔵菩薩像はそれなりに古そうである。ただし何も文字が確認できない。左の櫛型角柱型の石塔は、多摩市の資料によると庚申塔らしい。造立年は天保8年(1837)で、摩滅しているが「奉造立庚申供養」「武州多摩郡一ノ宮村」の銘があるようだ。

場所  多摩市一ノ宮3丁目4-6

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2024年8月25日 (日)

児童館前の地蔵堂(多摩市一ノ宮)

聖蹟桜ヶ丘にある小野神社は武蔵国一之宮という名前にあるように、中世では関東を代表する神社だった。当時の武蔵国の主要神社は、大國魂神社(府中)を別格として、一之宮がこの小野神社、二之宮があきる野市の小河神社、三ノ宮が埼玉の氷川神社、四ノ宮が秩父神社、と続く武蔵国の代表的な神社だった。その東隣には一ノ宮児童館があり、児童館の前に小さめの堂宇が2棟建っている。

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一ノ宮の地名の由来は当然ながら武蔵一之宮小野神社に帰来するものだが、神社のある地域は多摩川の河原と言ってもいいくらいの多摩川右岸の低地で、多摩川の水面から5mほどしか高くないこの場所に1000年以上も鎮座しているのが不思議である。一ノ宮地区にはかつての低地農地らしく水路や水路跡が縦横無尽に走っている。

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左の堂宇に祀られているのは舟型光背型の地蔵菩薩像。造立年は不詳。文字は摩滅していてほぼ読めないが、多摩市の資料によるとどうやら墓石、あるいは個人的な供養仏のようである。

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右の堂宇に祀られているのは角柱型の庚申塔で中折れが痛々しい。表面もかなり剥離が進んでいる。元は笠付角柱型だったと思われるが笠はない。痕跡として日月、青面金剛像、三猿があったと思われる。造立年は堂内の説明板によると寛延4年(1751)、実際に右側面に刻まれていた。左側面には「武列多摩郡一之宮村」とある。この庚申塔は昔は京王線と都道20号線の踏切のところにあったが、都道の拡幅工事でこちらに移設された。

場所  多摩市一ノ宮1丁目18-7

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2024年8月22日 (木)

西向庚申(多摩市永山)

多摩市永山は多摩センターと同じく高度経済成長期に開発されたベッドタウンである。1970年以前は山あいの集落で、乞田川の流程は蛇行しており、駅の北側にある日本医科大学多摩永山病院の辺りも山の中だった。ここには昔、村道が通っており、その道沿いには庚申塔があったらしい。

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現在は駅近ということで中層のマンションが並んでいる。乞田川に向かってはどの道も下り坂で、駅からは標高で20mほど下る。その坂のマンションの間に堂宇があり、西向庚申が祀られている。呼び名とは異なり堂宇は東向きになっているが、その経緯が書いてある。

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黒御影石に刻まれている文章は「多摩ニュータウン計画に伴う東京都区画整理が実施され、元来西向であったものをやむを得ずこの向きに鎮在することになりました。ここに之を記す。昭和55年11月吉日」とあることから、1980年頃の移転であろう。日月、青面金剛像、三猿の駒型庚申塔で、「奉造立町庚申供養諸願成就所」の文字と共に「乞田村瀧止」ともある。坂を下りきったところには「滝の上公園」があるが、おそらく無関係。昔の地形図ではこの辺りの乞田川は曲がりくねって両岸が崖になっていたようで、支流の小さな流れがその崖に落ちていたのかもしれない。

場所  多摩市永山1丁目12-11

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2024年8月19日 (月)

永山橋の地蔵堂(多摩市乞田)

多摩センターから永山を流れる乞田川。唐木田付近を水源にして約6㎞で聖蹟桜ヶ丘付近で大栗川に合流しやがて多摩川に注ぐ小河川。京王・小田急永山駅の近くの永山橋は橋の上にバス停がある珍しい場所。この永山橋のたもとには地蔵堂がある。

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地蔵堂は永山橋の方を向いている。方角的には東向きである。覆屋の中には、地蔵が2基と庚申塔が1基祀られている。手前にある黒御影石の大きな香台に「都市計画の為に此処に移転す、昭和50年10月吉日」と刻まれている。乞田川は以前は蛇行を繰返した流程だったが、都市開発で真っすぐな流路に付け替えられた。多摩センター周辺の開発が進んだ高度経済成長期の時代である。

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左から舟型光背型の地蔵菩薩で、「地蔵菩薩 武刕多摩郡乞田領内 念佛講 施主女十五人」とあり、庚寅とあるので、造立年は宝永7年(1710)か明和7年(1770)の3月。中央は笠付角柱型の庚申塔で、享保7年(1722)10月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、「武刕多摩郡乞田村」の銘がある。右は角柱型の地蔵菩薩で、文政7年(1824)12月のもの。こちらも「武刕多摩郡乞田村」の銘がある。乞田村は江戸時代の村で、明治になってから南多摩郡多摩村の一部となった。

場所  多摩市乞田1426

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2024年8月16日 (金)

沓切坂の庚申塔(多摩市関戸)

多摩市役所の中を通る道がバス通りに下る坂は沓切坂(くっきりざか)と呼ばれている。古い地図を見るとやはりバス通りがかつての鎌倉街道(大山道)で、多摩市役所に上る沓切坂は明治以降はサブルートのようである。ただそれ以前はこちらが鎌倉街道のルートだったようで、あまりの急坂に馬の沓(くつ)あるいは轡(くつわ)が切れたことからついた坂名。

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この坂を新田義貞軍が鎌倉攻めの折に上っている時に馬の沓が切れたという言い伝えもある。鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞(元弘3年:1333年)の分倍河原の戦いの時だという説と、足利尊氏を追った新田義興(正平7年:1352年)の説があるようだが、切通しの雰囲気が歴史を感じさせる。写真の右手の切通の上に1基の庚申塔が祀られている。

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林の中にポツンと立っている駒型の庚申塔だが存在感がある。造立年は書かれておらず不詳。日月、青面金剛像、三猿の図柄である。患部には「西念寺」の文字と複数の人名が願主名として刻まれている。

場所  多摩市関戸6丁目15番地先

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