2025年2月 9日 (日)

閻魔堂の石仏(西東京市向台町)

西東京市向台町(むこうだいちょう)は少し前までは田無市向台町だったが、2001年に田無市と保谷市が合併して西東京市となった。私は東西南北を安易につけるような土地の命名は愚だと思っているので、残念でならない。まだ田無保谷市のほうがはるかにいい。五日市街道から鈴木街道の道は古い道だが、向台町を東西に走る向台中央通りも昔からあった農道を広くした道のようだ。

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西東京市立田無第四小学校の向かいに向台墓地がある。路地を挟んで比較的新しい閻魔堂(十王堂)があり、境内には古い石仏が祀られている。閻魔堂(十王堂)は延享2年(1745)10月に開かれた小堂で、江戸時代は寺子屋が開かれたりして集落の中心的な存在だった。閻魔堂の中には閻魔様が祀られている。

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閻魔堂の向かって左奥にあったのは笠付角柱型の庚申塔。庚申塔の前には自然石の一面を磨いた石碑があり、「庚申霊」の文字があるが意味は分からない。庚申塔は享保6年(1721)10月の造立で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。「奉造立青面金剛尊 田無村」とある。また「武州多摩郡講中23人」という文字もある。

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道路寄りには2基の石仏があり、右の石仏は舟型光背型の聖観音像。「日本回国六十六部供養塔」とあり、造立年はゼニゴケで読み取りにくいがおそらく庚申塔と同じ、享保6年(1721)3月と思われる。左の丸彫の地蔵菩薩像については文字がほとんど読めず不詳。閻魔堂(十王堂)が開かれるより前の石仏が境内にあるということは、閻魔堂以前にはどこにあったのか気になるが、知る由もない。

場所 西東京市向台町2丁目13-14

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2025年2月 6日 (木)

招魂塔(西東京市新町)

五日市街道の武蔵野大学前交差点から真西に延びる道がある。標識には鈴木街道と書かれている。西東京市(保谷)と小平を結ぶ古い街道である。享保9年(1724)に小平の鈴木新田の開発に伴って開通した街道のため、鈴木街道という名前になったようだ。江戸時代には「江戸往来」とか「鈴木道」という名前だったが、近年は鈴木街道となっている。

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鈴木街道を西に150mほど進んだ南側に細長い墓所がある。その一番道路側には鉄囲いがあり、「招魂塔」が祀られている。説明版には「品川県社倉門訴事件の犠牲者の慰霊碑」とある。明治の初め、東京都が品川県だった時に、品川県が強行した社倉米の金納化に対して、武蔵野新田12ケ村の農民が明治3年(1870)正月10日深夜に集団門訴を決行したが、弾圧され多くの犠牲者が出たのを供養する目的で建てられたようだ。

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大きな角柱型の石塔で、正面には「招魂塔」背面には明治12年(1879)9月の建立年月があり、「武蔵国新座群上保谷新田 平井伊左衛門」の銘がある。明治の初期はまだならず者のような国や県の政治で多くの血が流れた。世の中では明治維新をきれいごとに語る傾向があるが、実は秩父事件やその他の事件のように、底辺の人々がこういう目に遭うことが多い時代だったことを忘れてはならない。

場所 西東京市新町1丁目2番

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2025年2月 3日 (月)

一の橋の石橋供養塔(狛江市岩戸南)

喜多見から狛江市にかけての世田谷通りの脇にはかつて川が流れていた。見た目は川だが六郷用水である。別名次太夫堀とも呼ばれる。もともとは野川の流程を用水路にしたもので、現在の野川は昔の野川とは大部分が違い場所を流れている。一の橋は世田谷通りの昔の名である津久井道(登戸道)の橋である。

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かつての六郷用水はちょうど上の写真の横断歩道の部分だったと思われる。ここに橋を架けたことで、石橋供養塔を建立したのだろう。角柱型で正面上部には弘法大師が彫り込まれている。造立年は文政6年(1823)6月とある。弘法大師像の下には「石橋供養塔」と書かれている。

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さらに下部には、「西 登戸 府中道」とあり、左側面には「北 ほりの内 高井戸道」「東 六郷 江戸道」とある。右側面には「武刕多摩郡世田ヶ谷領岩戸村」「南 〇〇道」などの文字もみられるので、道標としての役割があったようだ。

場所 狛江市岩戸南1丁目4-11

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2025年1月31日 (金)

駒井通りの地蔵(狛江市駒井町)

狛江市駒井町を東西に抜ける駒井大通りという道がある。見た感じ近年の開発による道路のように見えるが、実は古くからある駒井の幹線道路で、登戸の渡しから駒井を抜けて宇奈根、鎌田へつながる道であった。多摩川の河原のような場所を通るのでほぼ平坦で、微高地でわずかに曲がる程度でとても古道には見えないのである。

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駒井大通りに狛江六小南という交差点があり、その南の角に覆屋がある。覆屋の中には丸彫の地蔵菩薩坐像が祀られていた。地蔵の本体のみ新しいように見えたが、狛江市の1978年の資料によると、その時にはすでに再建後だったらしい。卒塔婆には「駒井北向き地蔵尊供養」とあった。

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江戸時代から変わっていないであろう基壇には、「奉造立地蔵大菩薩」とあり、右面には寛政5年(1793)10月の造立年が、右面には「武州多摩郡駒井村 願主 秋元磯右ェ門 高橋三右ェ門 念仏御詠歌講中」の文字が刻まれている。

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覆屋手前の道路ギリギリに建てられていた石柱も時代が古そうである。左側面には「寛政5年(1973)10月」とあるので、地蔵菩薩と同じ時に建てられたもののようだ。右側面には「武州多摩郡・・願主 秋元磯右ェ門 高橋三右エ門」とあり、地蔵の基壇と同じである。地蔵堂の標柱として建てられたものに違いない。

場所 狛江市駒井町3丁目13-11

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2025年1月28日 (火)

緒方三小通りの石仏(狛江市緒方)

緒方の垣根に鎮座する文字庚申塔の丁字路を南へ下る。この道のくねり方はいかにも昔の道という雰囲気がある。まもなく三小通りに丁字路でぶつかるが、その丁字路の塀に祠があり、石仏が祀られている。

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最初は交通安全のお地蔵様かと思ったが、近づいてみてみるとどうもそうではないようだ。残念ながらかなり風化が進んでおり、判別が難しい。この丁字路の三小通りもそれに出合う道も古道で明治初期から地図にある。三小通りは品川用水の田中橋から、ここを通って駒井の河原に抜けている。

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像形からすると地蔵菩薩像ではなさそうである。全体的な形は観音っぽい。左手に持っているものが何なのかがカギになる気がするが、そこがわからない。路傍の石仏は私のようなただの趣味人にはその正体がわからないが、それがまた魅力でもある。

場所 狛江市緒方1丁目4-7

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2025年1月25日 (土)

伊豆美の馬頭観音道標(狛江市中和泉)

狛江市を貫いていた筏道は、六郷土手で青梅奥多摩からの材木を紐解いて納品した筏乗りが山に帰るのに通った道である。狛江市内には複数の筏道ルートがあるが、その中でもメインだったのが狛江駅前の駄倉橋から伊豆美神社を通るルートで、分かれた道が合流するY字路には石仏が祀られている。

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三叉路の頂点にあるのは大気汚染総合測定室という建物らしいが、昭和時代の文献にも同じ名前の建物をランドマークにしている。このブログをご覧になっておられる方からここに石仏があるという情報をいただいて見に来た。実はすぐそばの伊豆美神社には何度かお参りに来ているので、完全なる私の見落としであった。

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石仏はかなり摩滅と崩壊が進んでいて判別が難しいが、狛江市の資料によると、三面六臂の馬頭観世音菩薩らしい。造立年は文政10年(1827)11月で、文字もいくつも刻まれていたらしいが今は読めない。

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脇にあった丸石のモニュメントに、馬頭観音道標に書かれていた文字がアルミニウム板にあった。「右 地蔵尊、渡し場道」「左 江戸青山 六郷道」反対側には「西 府中道」とある。資料では地蔵尊は「当村地蔵尊」で、渡し場は「玉川(多摩川)渡し場」というのが石仏の文字。また「武州世田ヶ谷領 上和泉村 願主 石井奥右衛門」の銘があったようだ。

場所 狛江市中和泉3丁目4-10

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2025年1月22日 (水)

千手院の石仏(狛江市東野川)

狛江市東野川にある千手院は三嶋山覚東寺という名。創建年代は不詳だが、江戸時代には存在したらしい。すぐ北を流れる多摩川の支流の野川は昔は千手院の南側を東に向かって流れていた。都道114号線にある御台橋は当時の野川の橋の名称である。明治時代の地図には千手院の南側に水車もあったようだ。

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現在の都道はほぼ大昔の鎌倉街道と重なっている。御台橋は鎌倉街道の橋なので相当昔からあったはず。昔は上覚東、下覚東に分かれており、京都に近いほうを上覚東、遠いほうを下覚東と呼んだ。覚東は昔は学堂で何らかの学び舎があったという説もある。また覚東と重複して小足立という地名もあり、古い豪族である強頸(こわくび)氏の館=強館(こわだち)から小足立になったという説がある。

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本堂から墓所に通じる通路脇に六地蔵の堂宇がある。地蔵菩薩は近年の再建ものできれいだが、もともとは寛政13年(1801)2月の造立。願主は鈴木嘉右衛門、内田勘左衛門らとされる。古い六地蔵はかなり傷んでしまったので平成2年(1990)10月に平成天皇即位を記念して再建したと記されている。

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その隣にある堂宇には舟型光背型の阿弥陀如来像が祀られている。これは古いもので、寛文8年(1668)正月の造立とある。覚東の念仏講中が祈念して建立したもので、「念仏講中男女46人」の銘がある。裏には栗山五右衛門の銘があるらしい。

場所 狛江市東野川2丁目4-2

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2025年1月19日 (日)

東野川墓所の石仏(狛江市東野川)

狛江と仙川を結ぶ都道114号(松原通り)にあるスーパーいなげや狛江東野川店の隣にやや広い墓所がある。この辺りは覚東というのが以前の地名である。いなげや側にある出入口は閉じられていたので、門の外側から石仏を拝ませていただいた。

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入口のすぐそばに覆屋がある。その下には3基の石仏が並んでいた。一番右の道路側にあるのが板碑型の庚申塔。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれており、寛保3年(1743)の造立年がある。正面には「青面金剛供養塔」の文字のほか「小足立村願主 庚申講中敬白」とあり、下部にある願主名は大半が栗山家、そして残りが田中家であった。

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中央の丸彫の地蔵菩薩立像と左の地蔵菩薩はともに近年の再建と思われるが、基壇や資料には再建前の情報がある。大きいほうの地蔵菩薩には「奉建立延命地蔵」「女中念仏講」の文字とともに、寛延元年(1748)9月の造立年が刻まれている。左の地蔵の基壇は読めなかったが、資料によると「奉造立延命地蔵」の文字と、「施主小足立村 栗山半兵衛」の銘、そして享保5年(1720)11月の造立年があるようだ。

場所 狛江市東野川2丁目20-16

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2025年1月16日 (木)

愛宕神社の庚申塔(多摩市愛宕)

多摩市愛宕はもともと山だったところを開発してできた住宅地。現在も一等三角点の標高は134.7mで、その尾根筋にある愛宕神社は北側の谷あいよりも40mほど高い。そのためバス通りから神社に行くには長い階段を上ることになる。

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息を切らせながら階段を上りきると社殿がある。庚申塔があるのは社殿に向かって左の奥、道路との間のネットに張り付くように立てられている。訪問時、1基だと思っていた庚申塔が2基あって、それもまた驚いたことであった。元からあったほうは舟型光背型の庚申塔で、日月、青面金剛像、三猿の図柄。宝永2年(1705)3月の造立で、「庚申供養」の文字と「武列多摩郡和田村」の銘がある。

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多摩市の資料にもなかったもう一つの庚申塔は角柱型の文字塔。「庚申供養塔」の文字があり、右面には天明元年(1781)6月の造立年が刻まれている。左側には「上和田領 石坂〇〇 日吉〇〇」の文字が見られた。調べてみたが、多摩市内のほかの地域にも天明元年の庚申塔はない。しかし上和田領とあることから愛宕から北側に広がるエリアに元からあったものだろう。

場所 多摩市愛宕1丁目64

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2025年1月13日 (月)

高橋家墓所の石仏(多摩市乞田)

現在の多摩市乞田は乞田川の流域の地名だが、元来乞田川は蛇行していたので、明治時代以来左岸(北側)が乞田、右岸(南側)が平戸という字名だった。1970年代に多摩センター周辺の大規模開発が進み、乞田川も直線に付け替えられた。今は少しさびれ始めたニュータウンという様子だが、鎌倉時代から南北に鎌倉街道が通る交通の要衝だった。

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府中と八王子を結ぶ都道158号線から一本入った裏道の擁壁下に高橋家の墓所がある。時代の流れを忘れたような区画で、一段高い敷地には複数の石仏があり、低いほうには墓石と板碑群がある。

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一番奥の擁壁手前には大きな3基の石仏。左は弘化4年(1841)10月造立の角柱型馬頭観世音菩薩。「武刕多磨郡 乞田村 貝取村」の銘がある。乞田村の南東に隣接するのが貝取村である。中央は駒型の庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿、さらにショケラも描かれている。造立年は享保7年(1722)10月。「武刕乞田村」「奉信敬青面金剛転禍為福」の文字がある。右は自然石の「土公神」で造立年は弘化4年(1841)11月。

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向かって右側に並ぶのは、背の高い丸彫の地蔵菩薩が最左にあり、台石には享保4年(1719)8月の造立年と「岩船地蔵念仏供養 同行男女三百弐拾人余」「武刕多摩郡柚木領乞田村」の文字がある。隣の小さいほうの丸彫地蔵菩薩は台石が傷んでいるが、資料によると文化2年(1805)8月の造立。右から弐番目の角柱は馬頭観音で、造立年は天保11年(1840)11月。「願主有山常八」とある。一番右の小さな角柱も馬頭観音である。造立年は慶応4年(1868)7月で明治維新の年。小磯氏の銘がある。

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一段低い高橋家の墓地の奥には多数の板碑が祀られている。一か所にこれだけ集められているのは極めて珍しい。主に1300年代の板碑のようだが、重ねるように立てられており、確認はできなかった。

場所 多摩市乞田1082-2

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