2020年1月29日 (水)

松が丘の地蔵堂(中野区松が丘)

狭めの道だが頻繁に路線バスの往来する新井薬師前駅西側踏切の哲学堂通りを北に歩く。350mほど進むと、西側の道路わきに地蔵堂がある。この一角はとても小さな三角地帯だが、ここは新宿区と中野区の区境。西落合二丁目がこの周辺だけ妙正寺川を越えている。地蔵堂脇から分岐する路地は江戸時代からある道筋で、ここは昔から辻だった。しかし大正時代以前は妙正寺川が村境で、こちら側が上高田村、川向うが片山村であった。

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この辺りは大正時代までは畑が広がり、路地の坂を上っていくと民家が数軒集まっているというような農村風景だった。堂宇を覗いてみると3基の石仏が祀られている。右から、板碑、地蔵、庚申塔の准である。右の板碑は、造立年などは不明。明治時代後半に片山橋東側の高台付近の農業施策地で土中から発見されたもの。片山橋というのは妙正寺川ではなく、路地が中野通りを越えるためのオーバーパスの橋。昭和の高度経済成長期に造られた。

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中央のいちばん背の高いのは地蔵菩薩立像。元禄年間から松が丘北野神社(妙正寺川の近く)にあったものを明治の初め頃この地に移した。この近辺は鼓ヶ原と呼ばれていたので、この地蔵も鼓ヶ原子育地蔵と呼ばれた。この地蔵は大正時代末期に大破し、さらに昭和20年の戦災も受けた為、地元の有志によって昭和25年頃再建された。左端は角柱型の庚申塔で、青面金剛像と三猿の図柄。これも昭和25年(1950)1月再建となっているので、地蔵と同じような経緯があったのだろう。

場所  中野区松が丘1丁目29-22

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2020年1月28日 (火)

新井薬師の諸仏(中野区新井)

中野区の新井薬師は区内でも最も有名なお寺。駅の名前も新井薬師前駅とあるが、実は500mほど離れている。参道は南東側からで駅からではない。当然鉄道の方が後からできたわけで仕方がない。この寺も真言宗豊山派である。中野区には豊山派の寺院が多い。梅照院(新井薬師)と並んで中野区最大級の寺である宝仙寺も豊山派である。やはり中野に犬屋敷があったことで綱吉の母を祀る護国寺(豊山派)の勢力が強かったのだろうか。

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境内には多くの石仏が集められているが、その中でひときわ目を引くのこの板碑である。残念ながら造立年などは分からない。上部に彫られているのはキリークで真言の意味のようだが、私にはまだ理解できていない。台石には興味深い文章が彫られている。昭和2年(1926)に武州北多摩郡砧村喜多見で水道工事の折に出土したような話である。東光寺の名もある。東光寺は新井薬師駅の反対側にある寺。どうも気になったが東光寺はいずれ訪問予定。

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板碑の近くの無縁仏等の集合体の中にいくつかの庚申塔や馬頭観音が埋め込まれている。上の写真は庚申塔で、唐破風笠付角柱型で正面金剛像と邪鬼・三猿・二鶏が描かれている。年代は元禄14年(1701)10月、「武列経多東郡新井村 願主 久保寺清兵衛 同行8人」とある。新井村のどこかにあったものが打ち捨てられここに拾われたのだろうか。

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庚申塔っぽいものが他にもあったが、刻時が全く読めない。上の写真の右側は比較的新しい時代のもののようである。こういう石仏を丸く集めてコンクリートで固めてあるが、個人的には固めるのは好きではない。もっとも盗難防止の目的はあるかもしれない。

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上の写真は左側が馬頭観音で、右側は庚申塔である。青面金剛像と三猿の図柄で、元禄7年(1694)11月、武刕新井村の銘がある。新井薬師の正式名は新井山梅照院薬王寺だが、巷ではほぼ新井薬師で通っている。創建は天正4年(1586)。本尊である薬師如来と如意輪観音像はなんと大きさが一寸六分(約5.5㎝)とまるでミニチュアの世界。写真では拝見したが12年に一度の寅年の御開帳のみなので、もちろん見たことはない。

境内には他の古い石仏もあるようだが、再訪して探してみたいと思う。

場所  中野区新井5丁目3-5

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2020年1月27日 (月)

沼袋2丁目墓所の地蔵尊(中野区沼袋)

新青梅街道の区立第七中学校から比較的幅のある道が南へ伸びていて、南下するとやがて新井薬師に至る。その道の途中に50坪ほどの墓所が残っている。墓のほとんどが矢島姓で実相院の墓所だと判る。この墓所には江戸時代の墓石がたくさん残されている。中には入れないが見ていて興味深い。

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墓石の供養塔だが唐破風笠付の立派なものがある。その墓所の道路寄りに、一基だけ墓石でない地蔵立像がある。資料によると、造立年は寛延3年(1750)10月、「奉造立地蔵尊為西国坂東秩父市刻八十八所供養 施主 矢島甚吾左衛門」とある。矢島家の誰かがはるばる行脚を遂げたのであろう。

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昔はこの地蔵立像の隣に庚申塔があったと記録されている。その庚申塔は唐破風笠付の角柱型で正徳5年(1715)造立のものだが、現在は実相院に移されている。「実相院の庚申塔」の項で最後に紹介した庚申塔である。「武刕多麻郡沼袋村」に加えて「願主 矢島六郎衛門 他10名」の銘がある。ここの墓所と実相院の間には禅定院もあり距離もあるが、矢島家は妙正寺川流域に大きく広がっていたのだろう。

場所  中野区沼袋2丁目10-1

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2020年1月26日 (日)

東福寺の諸仏(中野区江古田)

真言宗豊山派の東福寺は正式名を金峯山世尊院東福寺という。創建年代は不詳だが、天正年間(1573~1593)頃に江古田村の村民が始めたという言い伝えがある。江戸時代には鷹狩りに来た三代将軍家光も休憩に立寄るなどし、八代吉宗の御膳所にもなっていた。豊山派の総本山は五代綱吉の母桂昌院を祀る護国寺だから江戸時代は手厚い保護を受けて来たのだろう。

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山門を入ると左が斜面になっており丘の上が墓所、その斜面に数多くの石仏が並んでいる。もっとも目立つのが六地蔵で、その左脇に控えるのがこの地蔵菩薩立像だった。造立年は寛延4年(1751)であるが、光背の中に葵紋が描かれている。寛延年間というと九代家重の頃で、徳川家との関係がこの図柄になったのであろう。

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六地蔵の後ろには古そうな角柱型の庚申塔が立っている。独特のデザインで下部に細長い三猿が描かれている。側面には蓮の葉の浮彫があり、青面中央には「奉寄進庚申供養安樂也」とある。造立年は寛文8年(1668)11月で相当古い初期の庚申塔である。

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更に斜面を上ると大型の馬頭観音と思われる、唐破風笠付の角柱型石塔があった。造立年は寛保2年(1742)9月で、馬頭観音としてはもっとも古い時代のものかもしれない。側面に「武刕多麻郡中荒井村」と書かれている。馬頭観音のようだが三面上の馬頭は欠損している。平成時代に境内をきれいにしてとても明るい寺院になった。中荒井村は江戸時代から大正時代まであった村で現在の豊玉(上、北、中、南)にあたる。

場所  中野区江古田3丁目9-15

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2020年1月25日 (土)

お経塚(中野区江古田)

品川駅は品川区ではなく港区にあり、目黒駅は目黒区ではなく品川区にあるのは比較的知られている事だが、江古田駅も江古田にはない。中野区江古田(えごた)は新青梅街道を南端、妙正寺川を北端にした住居表示で、住民は東武東上線の江古田(えこだ)駅は使わない。より近い大江戸線の新江古田(しんえごた)駅を利用する人はいるが、新江古田駅も江古田ではない。もともと江古田村は多摩郡の東端の村だったが、明治以降は合併して野方村になっている。

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お経塚はそんな江古田の真ん中にある。南には現在リニューアル閉館中の中野区立歴史民俗資料館、北には江古田氷川神社がある。お経塚のある場所は、現在は五差路だが昔は三差路で、氷川神社の参道のような位置づけにある。説明板によると、大正時代までは人の背丈ほどの大きな塚があったという。大正期に塚の盛土を整備したら人骨と経筒が出土した。氷川神社の東にある東福寺が焼けた時に経文や過去帳などの灰を埋めて塚を築いたと言われる。

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屋根付きだが半ば吹きさらしの堂宇の右手にあるのが経塚地蔵と言われる舟型の地蔵立像。造立年は元文3年(1738)で「武州多麻郡江古田村 念仏講中」の銘がある。

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左にある小さい石仏は馬頭観音像。造立年は安永15年(1777)と馬頭観音としては相当古い部類に入る。頭上の馬の図柄はしっかりと残っているが、馬頭観音の顔は削れてしまっている。

前述の出土した経筒だが、資料によるとその中身を調べる前にいつの間にか無くなってしまったという。誰も中身を調べたものはおらず、経筒であったという確証はないらしい。一方の人骨は埋められて、この堂宇の下に眠っているそうである。

場所  中野区江古田2丁目14-5

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2020年1月24日 (金)

禅定院の庚申塔(中野区沼袋)

かつての野方村の本村(中心)は現在の沼袋4丁目で、現在の野方駅前商店街がほぼ本村の中程を通っていた。実相院は村の中心にあったわけだが、少し東にある禅定院は村の東に少し外れた場所になる。禅定院の正式名称は瑠璃光山禅定院薬王寺。真言宗豊山派の寺院で総本山は護国寺である。開山は貞治元年(1362)と言われ、実相院が矢島姓を大半とするのに対して、旧上沼袋村の伊藤家の菩提寺であったので伊藤寺とも呼ばれたという。

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比較的こじんまりした寺院であるが、山門を入ると六地蔵がならび、諸仏が迎えてくれる。その中にひときわ時代を感じさせる庚申塔が立っている。

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唐破風笠付角柱型の庚申塔は三猿のみの図柄でいかにも古い時代のもの。「奉供養庚申石塔二世安樂處」とある。造立年は寛文6年(1666)と都内でもかなり古い部類に入る。「禅定院」の銘も刻まれていることから、当時からここにあったものと思われる。江戸時代初期には青面金剛像がない庚申塔が多い。世田谷区最古の上馬の宗円寺の明暦4年(1658)の庚申塔も三猿のみ、世田谷区野沢のテコテン坂の寛文10年(1670)の庚申塔も三猿のみである。この時代は三猿のみが結構多い。

場所  中野区沼袋2丁目28-2

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2020年1月23日 (木)

実相院の諸仏(中野区沼袋)

実相院は真言宗如意山実相院世尊寺が正式名称。正平7年(1352)に新田一族が足利軍と戦った時に、その一派(子孫)が沼袋に土着したのが起源と言われる。沼袋と江古田には矢島姓が多く、檀家にも矢島家が多いので別名矢島寺とも言われるらしい。そんな実相院の山門を入ると両側に石仏がランダムに置かれている。

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右側にあるひときわ大きな地蔵立像は天和2年(1682)11月の造立。「奉建立地蔵菩薩・・・」とある。

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左の方には上部が一部欠損した馬頭観音がある。コンクリートのような表面だが石である。側面に大正13年(1924)9月の造立年が記されている。

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その少し山門寄りにあるのが如意輪観音像。 造立年は元禄4年(1691)11月とある。このほかにも、貞享元年(1684)10月造立の如意輪観音像、元禄15年(1702)1月造立の(おそらく)大日如来像などが並んでいる。墓所入口にも何基かあり、勉強になった。

場所  中野区沼袋4丁目1-1

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2020年1月22日 (水)

実相院の庚申塔(中野区沼袋)

実相院は西武新宿線沼袋駅の北、商店街から西へ少し入ったところに山門がある。山門をくぐると両側に石仏が並ぶ。本堂前でお参りをして、左の墓所の入口を見ると、両側に石仏が並んでいる。これらのうち5基が庚申塔である。墓所に向かって左側の5基のうちの4基、右側の列のうちの1基である。どれも素晴らしい庚申塔なので1基ずつ紹介したい。

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左列の一番手前にある唐破風笠付角柱型の庚申塔は、下部に三猿が描かれており、その上には「奉庚申供養 石塔二世安樂」と書かれている。左右側面には蓮華蓮葉の模様が彫られている。造立年は見当たらなかったが、笠付角柱型は江戸中期に多い。その隣は勢至堂菩薩のようである。

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その隣は笠付角柱型庚申塔。青面金剛、邪鬼、三猿、二鶏が描かれている。 脇に「武刕多麻郡沼袋村 奉造立庚申供養二世安樂所」と書かれている。造立年は正徳3年(1713)11月。

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その隣、右から二番目のひときわ笠の大きな笠付角柱型庚申塔は正面金剛像と三猿の図柄。こちらは「奉供養庚申待二世安楽所」とあり、造立年は元禄10年(1697)10月である。

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一番右は笠のない駒型の庚申塔。青面金剛像と三猿の図柄で、こちらも「奉造立庚申待二世安楽所」とある。造立年は、これも元禄10年(1697)11月である。

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反対側(墓所向かって右側)にある庚申塔もまた見事なもの。唐破風笠付角柱型で、青面金剛像、邪鬼、三猿、二鶏が描かれている。「奉造立庚申供養二世安楽所」「武刕多麻郡沼袋村」と銘があり、造立年は正徳5年(1715)11月となっている。どれも1700年前後の江戸時代最も華やかな時期の庚申塔で立派なものであった。

場所  実相院  中野区沼袋4丁目1-1

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2020年1月21日 (火)

沼袋4丁目の庚申塔(中野区沼袋)

新青梅街道の沼袋交差点周辺がかつての字丸山地区である。交差点の辺りから中野区立歴史民俗資料館の辺りまでが丸山の集落として多くの民家があった場所。妙正寺川の北側を東西に走る新青梅街道の道筋は江戸時代からの道である。この道は西に向かうと沼袋交差点から200mほど西で二手に分岐し、北側は所沢街道として籠原観音前を通って中村方面へ伸びていた。この分岐点の南に庚申塔を祀った堂宇がある。

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庚申塔は唐破風笠付角柱型の大きなもので、青面金剛像、邪鬼、三猿、二鶏の図柄がある。「武刕多麻郡江古田村 講中24人」の銘があり、造立年は正徳3年(1713)11月。 右側面には「右 中村道」、左側面には「左 さぎのみや」とあり、前述の分岐点で道標となっていたことがわかる。おそらく東向きに立っていたのだろう。

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中野区の資料でも、この庚申塔は新青梅街道の拡張計画に伴って、昭和12年頃現在の場所に移設されたとある。前の場所は、中野区江古田4-35-1。庚申塔の保存状態はとてもよく、長い年月大切に守られてきたことがうかがえる。

場所  中野区沼袋4丁目33-6

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2020年1月20日 (月)

籠原観音(中野区丸山)

野方駅の北、環七丸山陸橋以北のエリアの住居表示が丸山。環七の外側が丸山2丁目で内側が丸山1丁目になる。この辺りの旧地名は籠原という。籠原は南の妙正寺川と北の江古田川(妙正寺川の支流)の間の江古田川寄りの台地である。当時の丸山は籠原の東、現在の江古田4丁目辺りで、旧地名と現住居表示が違ってしまった残念なケース。

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旧籠原地区には中野区立緑野小学校と緑野中学校が南北に並ぶ。緑野小学校は少子化に伴って、丸山・沼袋・野方の3小学校が統合されたもので、緑野という地名は存在しない。中学校の敷地の北西端にある地蔵堂が籠原観音と呼ばれている。現在は堂宇に収まっているが、昔は草むらに点在していたという。緑野中学校は区立第六中・第十一中が統合されたもので、以前ここは第十一中学校であった。その第十一中学校が出来た昭和38年頃にこの一角に堂宇を建てて集めたらしい。(数字の学校名も味気ない)

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堂宇には4基の石仏があるが、2基は姿がない。もともと左側2基は聖観音像、右側から二番目は不動明王であったという。不動明王像は地元の不良中学生が壊してしまったらしい。今頃罰が当たっているかもしれない。左の端には聖観音像の丸彫座像があったようだが、現在はない。左から2番目の舟型座像の聖観音像、そして右端の馬頭観音のみが現存している。

聖観音像は「奉誦光明真言百万遍供養 西国坂東秩父百番順礼供養塔」とあり、寛政10年(1798)11月の造立。願主は隣りの無くなった償還音増の台石と同じで石川七兵衛とある。残された左の台石には、「右 中むら道 左 ほりのうち道」とあるが、これはこの前の道が旧所沢街道だったためである。右端の馬頭観音は、馬兼といわれた人が農耕馬を供養する為に建てたと言われる。

場所  中野区丸山1丁目16-16

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