今日はメタボ対策散歩。新宿駅を中心に都会の喧騒を離れるコースを歩いた。スタートはJR南口。甲州街道の南側の人工地盤の新駅舎は骨組みがほぼ出来上がっていた。街の変化は速い。
休日になると心なしか都会の空も澄んでいるような気がする。新宿は江戸時代は西の外れで江戸の外だったが、今では東京の中心のような存在感を持つ街に発展した。喧騒と言うよりも、騒音のデパート。
新宿高校の手前に雷電稲荷がある。歴史上の力士雷電とは関係ない。800年前からの氏神で雷様信仰の神社らしいが、花園神社に合祀された話などもある。ちょうどここは玉川上水の流れていた場所なので、水害を収めるために建てられたのだろうと勝手に想像した。江戸時代は新宿という小さな宿場町の南側の田園地帯だったはずだから。
新宿高校の頑丈な塀の内側には、かつての玉川上水の水道跡(岩を削って水路にした水道管)や橋の欄干が残されているが、一般人は塀の隙間から覗くだけ。その前には国道20号日本橋から8kmの道標。東京は電車で動くので距離感を失うが、歩けば2時間で東京駅にいけるというわけである。
新宿御苑脇に出来た新宿御苑散策路は木陰が気持ちいい。かつての玉川上水を再現したと言う水路がついているが、かつての玉川上水は牛馬も流されるほどの川だったので、気持ちだけ感がある。太宰治も玉川上水に入水自殺したくらいなのだ。
季節はちょうど銀杏の落ちる時節なので、気持ちのいい散策路だがいささか臭い。老夫婦が銀杏を拾っている。ホームレスと思しき男性がスダジイのどんぐりを拾い集めている。都心の里山の役割もありそうだ。水路の中には沢山の銀杏とシイの実が落ちているが、道には差ほどでもないので相当拾われているか、掃き捨てられたか。
大木戸門の前の区民センターには水道局が入っているが、ここにはいくつかの玉川上水の碑がある。それを眺めてから、かつて新宿御苑全体が御屋敷だった内藤家のエリアに踏み込む。多武峰内藤神社(とうのみねないとうじんじゃ)に御参りする。社務所の宮司さんと挨拶を交わして社殿へ向かった。
御苑全体以上の屋敷を内藤家が得たのは徳川家からの褒美だった。家康から「その自慢の駿馬で一息に回れるだけの土地を与える」と言われ、愛馬は四ツ谷、千駄ヶ谷、大久保、代々木を一息で回り、ここで息絶えて死んだ。社殿のそばには移設されたものだがこの駿馬を祭る駿馬塚(しゅんめづか)がある。
また神社脇の小さな公園の片隅に「鉛筆の碑」があり、これは明治20年にここで三菱鉛筆の前身の真崎鉛筆製造所が鉛筆を作り始めた場所とある。動力として水車を利用したのだが、玉川上水の分水として流れていた渋谷川があり、その流れを使って水車を回していた。その渋谷川の名残が今も外苑西通りの交番脇にある。
新宿御苑の東の端からもこの渋谷川跡は見られるのだが、外苑西通りにぶつかると川は南へと流れを変える。まさにその川を埋め立てた場所に交番がある。ところが2年前には無かった欄干が出来ていたのにがっかりした。
次の写真はちょっと角度が違うが、2年前に同じ場所で撮影したもの。季節は冬だが、石の欄干だけである。
このままで良かったのに誰かが2m下の段差に落ちて、つまらん対応をしたのだろう。なんとも勿体無い話である。
中央線総武線をくぐると明治公園、国立競技場である。なんだか自転車競技のヘルメットのような競技場に建替えようとしているが、無駄そのものだと思う。このまま補修拡張でいい。このエリアに奇を衒ったデザインの建築は似合わないし、税金の無駄遣いである。
ホープ軒でラーメンを食べようと思ったら満席だった。いかん、ダイエットで散歩しているのにそんなこってりラーメンを食ってはいかん。踏みとどまって裏手の瑞円寺へ入る。静かな境内には誰もいなかった。なかなかいい庭だ。
代々木方面に少し行ったところにこのあたりの鎮守、鳩森八幡がある。ここは富士塚で有名。数Mの高さだが意外と険しい。お年寄りにはきつい。あちこちに富士塚があり、富士講なる江戸時代の習慣の名残があるが、ここは東京でももっとも古い富士塚とされている。てっぺん付近のみ本物の富士山の溶岩で出来ている。
さて今日の最後はちょっとマニアックな史跡。写真の欄干は明治時代に明治神宮と神宮外苑が繋がっていたころの馬車道の欄干である。中央線沿いに首都高速が走りその下が駐車場になっているが、それとほぼ同じ場所に馬車道があり、皇族や近衛兵が通っていた。
実は都心から明治神宮まで、天皇家の土地だけで往来できたことになる。東京が現代でも緑の都会を維持していられるのは、明治時代の皇室のおかげなのだと言うことが垣間見えるが、10年後にもあるかどうかはわからない。
散歩も終わり代々木駅に向かって埼京線の踏切を渡る。都会の雑踏である。
最近のコメント