2016年2月 4日 (木)

本郷の坂 (3)

本郷三丁目の交差点から本郷通りを南へ歩く。  丸の内線の駅があるコーナーのビルはかねやすビル。 江戸時代に「本郷もかねやすまでは江戸の内」と詠われたが、やはりこの辺りが江戸時代には東京の北の端と思われていたのだろう。 かねやすは歯磨き粉を売っていた店だった。

Img_4257
本郷通りと壱岐通りのぶつかる壱岐坂上を南側に渡り、そこからは東京都水道歴史館への案内に従って歩く。 この歴史館は無料だが面白い。 休日もやっている。 江戸時代の水にまつわる様々な展示がある。

Img_4255
写真は明治初年の御茶ノ水駅付近、まだ鉄道はなし。 橋は掛樋(かけひ)で水道橋である(明治34年に撤去)。 何度も話に出てきた神田上水から江戸の町内に水を送る橋。 徳川の街づくりの凄さを感じられる。 そしてこの川も、実際には川ではなく、徳川秀忠が伊達政宗に掘らせた神田川の放水路である。 これによってもとからあった本郷台地はぶった切られ、駿河台と本郷台に分れた。 この写真1枚だけでも当時の江戸が世界最先端の街だったことがわかる。

Img_4258
水道歴史館を観た後はそのまま御茶ノ水方面へ下り、順天堂大学の渡り廊下の下をくぐる(今回は工事中だった)。 ここがわずかの高低差だが油坂(揚場坂)という坂。 油坂の由来はわからないが、揚場坂は神田川(放水路)に船をつけて荷物の揚げ降ろしをする場所だったことに由来する。

Img_4264
神田川に沿って走る外堀通りを右折して、順天堂大学の西側の路地に入る。 この坂が富士見坂。 同名の坂が都内には数多あるが、南向きのこの坂がなぜ富士見坂なのか首をかしげる。 富士山は西にあるのに。

Img_4267
富士見坂のひとつ西の路地が建部坂である。 西側は元町公園になっている。 元町というのはかつての本郷元町、もとはこの辺りは本郷村という江戸のはずれの村だった。 最初は弓を扱う同心の組屋敷だったが、それが大塚に移され、家康の故郷である三河から移って来た町人がここに住みようになった。  最初にこの辺りにできた町屋の拝領地だったので本郷元町となったらしい。 この元町公園が江戸時代は建部六右衛門の屋敷だったので建部坂と呼ばれた。 別名初音坂。この辺りの岸沿いには樹木が茂り最も早くにウグイスが鳴いたので呼ばれた。 ちょうど公園の前くらいにお茶の水の掛樋があった。

Img_4268
元町公園前から水道橋方面へ緩やかに外堀通りの下り、これがお茶の水坂。 かつてここにあった高林寺に美味しい湧き水があり、将軍に献上したのでそれが地名となりお茶の水となった。 (高林寺は本駒込駅近くの向丘2丁目に移転)

お茶の水坂を下ると後楽園、あの一帯は黄門様の水戸藩の屋敷だったが、その広さは小石川後楽園+東京ドーム一帯、よく東京ドーム何個分という表現をするが、広さでいうと4個分くらいある。 それだけ広いのが江戸時代の大名屋敷。 旗本屋敷でも下手をすると普通の運動場付きの学校よりも広いのである。

| | コメント (0)

2016年2月 3日 (水)

本郷の坂 (2)

炭団坂のあたりは真砂という古い町名。 明治2年に付けた町名だが、浜の真砂(海辺の砂)の様に絶えることなく町が栄えるようにという願いを込めたらしい。 写真の左の辺りに坪内逍遥が住んでいた。

Dscn2514
と、この辺りまで来たところでデジカメのSDカードが入っていないことが判明。 内部メモリにはこれまでの写真は残っていたので後で保存できたが、時々これをやってしまう。 もっともこの後はスマホ(iPhone 6s PLUS)で撮影。 この携帯のカメラがすぐれもので、普通のデジカメよりも綺麗。 しかしファイルサイズが大きくなるので、600万画素くらいにして使っている。

Img_4233
一旦菊坂に戻り、少し先の左に鋭角に切れ込む路地に入る。 実は炭団坂とはほぼ同一ライン上にあるが、菊坂が開かれる前はもしかしたら繋がっていたかも知れない。 その昔、大木の梨があったことから梨木坂と呼ばれた。 別説では、江戸の終わり頃この周辺は菊の栽培が盛んでそれが菊坂の由来なのだが、この坂のあたりから菊が無くなるので菊なし坂>梨坂>梨木坂となったという。 まあ、前者の方が可能性は高そうだ。

Img_4235
梨木坂を菊坂に戻り、少し本郷三丁目方面に向かう。 右手に広い坂があるが、これが本妙寺坂。 菊坂を挟んだ真向いの台地にかつて法華宗の本妙寺という寺があった。 この寺に向かって下る坂だったのでこの名が付いた。 本妙寺は明暦の大火(1657年)の出火場所だった。 その後巣鴨5丁目に移転している。 菊坂との交差点から2件目にまるや商店という店があり、そこの菊坂コロッケが人気。

Img_4239
ちなみに菊坂界隈の文人は極めて多い。 鐙坂の下には樋口一葉、坪内逍遥の居た炭団坂上には正岡子規、高浜虚子、炭団坂下には宮沢賢治、本妙寺坂周辺には石川啄木、宮沢賢治らが居た。 フランスの丘であるモンマルトルには沢山のアーティストが集まったが、やはり傾斜地のなせる何かなのではないかと思う節がある。

Img_4247
菊坂を上りきる(といっても傾斜は少ないが)と、本郷通りに出る。 菊坂脇を沢が流れていると書いたが、その川を渡る本郷通りの橋がかつてはここにあり別れの橋と呼ばれた。 北に向かって微傾斜があるがこの東大方面の坂が見返り坂。 反対の本郷三丁目交差点までの短い区間が見送り坂。沢の源頭は東大構内である。

その昔、ここが太田道灌(1432~86、室町時代に江戸を治めていた武将で江戸城を築城した)の領地の端で、追放される人がでたりすると、残る人が沢の橋の本郷三丁目側に立って見送り、追放された人が北の方へ向かいながら見送る人を振り返る様子から、見送り坂-別れの橋-見返り坂となったという。

昨今交通機関のスピードが速いので、いつまでも見送ったり、何度も見返ることはなくなった気がする。 そういう心の襞(ひだ)も土地の記憶として感じられるのは感慨深い。

| | コメント (0)

2016年2月 2日 (火)

本郷の坂 (1)

春日駅の西片側の出口を出て菊坂方面へ歩く。 菊坂下の分岐では少し先まで進み、新坂へ入る。 いきなりなかなかの急坂。 西の小石川台地との間に千川が流れ(今は千川通り)その東側から2本の沢が落ちてくる。 このうち北側から流れる沢と南から流下する菊坂脇の沢があった。 その二つの沢の出合の少し上に新坂はある。 名前は新坂と言っても江戸時代の坂。

Dscn2485
坂の上は大栄館という旅館・・・のはずだが、今回すでに更地化されてしまっていた。 貧しかった石川啄木が金田一京助の誘いで滞在していた旅館。 周辺には二葉亭四迷、尾崎紅葉、徳田秋声らが住み徘徊した一角なので、文学散歩をする人も見かける。

Dscn2490
坂の上から見下ろす。 右側の衝立が更地になった大栄館の跡。 小石川方面の眺めが良い。 ここには30戸の7階建マンションが建つ。建設主は話題の三井不動産レジデンシャルだった。 最初からかなりの傾斜地にあるのでたとえ傾いてもわからなかったりして、まあそんなことはなかろうが。

Dscn2493
一旦坂を下り菊坂に入る。 菊坂は本郷三丁目までゆっくりと曲がりながらわずかな傾斜で上って行く。 右手にもう一本道があって、それが昔の川の跡。 今は完全な暗渠になっている。 菊坂に入るや否や左手の路地に入る。

Dscn2494
胸突坂である。 坂上には風情ある旅館がある。 鳳明館本館とその向こう側の鳳明館別館で明治大正の雰囲気を残している。 本館は登録有形文化財である。 できる限り残してほしいものだ。 坂を下りて再び菊坂に入る。 右手に何か所か階段があるがその風情が良い。

Dscn2500
この階段は階段マニアには有名。 「菊坂・下見板町屋わきの階段」と呼ばれる。 この木造の外壁を下見板張りといい昭和時代には多くの町屋がこうだった。 階段下は暗渠。 降りたら右斜め先にある路地へ入る。 突き当たりに石垣があり、左に曲がると鐙(あぶみ)坂になる。

Dscn2501
この辺りに鐙の製作者の子孫が住んでいたとか、坂の形が鐙に似ているからとか、諸説あるが、雰囲気のいい坂なので文京区の「文の京都市景観賞」というものが与えられている。 よくわからないがナイスな坂という事だろう。

Dscn2509
鐙坂の坂上には金田一京助・春彦の旧居跡がある。 金田一京助は盛岡の生まれ、それで同郷の盛岡中学の後輩である啄木の面倒をよく見ていた。 文化面ではアイヌ民族の研究で有名。 京助の息子の春彦は辞書の編纂で有名だが、全国各地のアクセントを研究した国学者としても功績が高い。

鐙坂を坂下に戻り、暗渠の道を進むと右手に路地がある。 そのまま進むと階段が見えてくる。 炭団(たどん)坂である。 あまりに急なので階段の坂になっている。

Dscn2512
坂下の左手に古い家屋の跡がある。 これがあればもっと風情があるのだが残念だ。 この坂のあたりには炭団を売る人がたくさん住んでいたとか、あまりに急なので炭団のようにコロコロ落ちたとかの由来がある。 坂上には坪内逍遥の旧家跡がある。 台地の不思議は坂をのぼりつめたときそこに広がるのは、それまでの坂が何でもなかったように普通に平地が広がっていることだ。

| | コメント (0)

2016年2月 1日 (月)

春日・小石川の坂 (3)

春日通りを渡り竹早高校側を本郷方面に歩く。 春日通りは小石川台地の背骨を走る。 台地の北側は千川が流れていたが、今は千川通り。 南側は神田川で、台地の際を神田上水が流れていた。 上水は常に若干標高の高いところを流すように作られる。 そうでないと田畑や住宅地に水を供給できないからだ。 この小石川台地に切れ込むのが茗荷谷である。 実際に歩いてみると人が住み始めた数千年前の地形に触れる事が出来る。 実際にあちこちに縄文時代や弥生時代の遺跡は埋まっているが、さすがに東京は調査をすればその後開発に移る。

Dscn2420
東京学芸大附属竹早高校の先のセブンイレブンの角を鋭角に入ると三百坂への路地になる。 高校の敷地沿いに歩くと少しずつ高度を下げていく。 ここは学芸大の附属の前は女子師範学校だった。 しかしもっと昔、江戸時代は校庭一帯は茶畑。

しかしこの路地は江戸時代から続く道だった。 坂下に茨城の常陸府中藩(今の石岡周辺)の藩主松平播磨守の上屋敷があり、この藩の下級武士は集合に遅れると300文の罰金だったのでここを三百坂と呼ぶようになったという面白い由来である。

Dscn2421
三百坂を下り路地を抜けてさらに高度の低い方向へ進むと千川通りに出る。 前述のようにこの通りはかつての川筋、船がこの辺りには普通に入ってきていた。 千川通りの北側は再び台地に上って行く地形になる。 小石川植物園はこの台地の斜面にある。 共同印刷の昭和っぽい建物の先を左に緩やかに上がっていく道が吹上坂である。 途中右手の宗慶寺に吹上水という湧き水があってここが吹上坂になった。

Dscn2428
吹上坂を上って行くと再び春日通り、少し茗荷谷方面へ行くと右手に広い道路。 真ん中が遊歩道になっている。 桜の名所で有名な播磨坂である。 三百坂の所で出た松平播磨守の屋敷があったことにちなんで播磨坂と呼ばれた。 この道はとても立派な道だが、実は環状3号線の予定地だった。外苑東通り、目白通り、言問通り、三目通りが環状3号線の一部だが、小石川のあたりは完全に計画がとん挫している。

坂の中腹を少し入ると「石川啄木終焉の地」の碑がある。 マンションの一角にあってなかなか目に着かない場所。 その先の路地を茗荷谷駅方面に上がるのが、団平坂だ。

Dscn2431
文京区小石川図書館が竹早公園の一角にある。 明治の地図を見るとここはもっと急な坂だったようだが今はなだらかである。 米つき商売をしていた団平という人物がここに住んでいて団平坂の名が付いた。 一町人の名前が坂名になるのは珍しい。

| | コメント (0)

2016年1月31日 (日)

春日・小石川の坂 (2)

傳通院は徳川家康の母である於大の方を祀っている徳川家ゆかりの寺である。 さすがに広く立ち寄るには大きすぎるので今回はパス。

Dscn2373
傳通院前には日本指圧専門学校があり、懐かしの『アフタヌーンショー』に出ていた浪越徳治郎の創設だけに敷地内には浪越の銅像と浪越の指のオブジェがある。 そのまま真っすぐに南へ進むと幅広い安藤坂になる。 神田川が作った河岸段丘の坂だ。

Dscn2381
江戸時代は9段構えの急坂だったが明治時代(1909年)に路面電車を通すのになだらかにされた。坂の西側に安藤飛騨守の上屋敷があり、それで安藤坂と呼ばれた。 それ以前はこの坂の下まで入江が入りこんでいて、漁師が坂の上に網を干したことから網干坂と呼ばれたようだ。

Dscn2390
安藤坂は坂下で右にカーブして神田川の白鳥橋に至るが、このカーブの所を東側に入ると牛天神北野神社の参道の階段につながる。 1182年(鎌倉幕府の10年前)源頼朝が関東を制圧に来た際に、この下の入江に船を停め休んでいると夢枕に牛に乗った菅原道真(845~903)が立ち、目覚めると牛に似た岩があったという事から道真公の夢指示で頼朝がここに建てたということになっている。 で、この階段が男坂とするとその北側を回り込むのが女坂の役割の牛坂。

Dscn2393
結構な急坂で境内に上って行くが、江戸以前のここまで海が入ってきていた時代を想像するとこの坂の下に波が打ち寄せている景色が浮かんでくる。 実はこの牛天神の真下には丸の内線が走っている。 時代を凝縮させると頭の中が混乱しそうになるが、散らばった書類をページに合わせて揃える感じで整理していくとすべてがきれいに感じられてくる。

Dscn2404
安藤坂の西で丸の内線は地上に姿を現す。 丸の内線が神田川の河岸段丘の際を走っているから、ここから茗荷谷までは地上になってしまうのだ。

Dscn2402
永井荷風生誕地を見て進むと突き当りが金剛寺坂。 北に上がると春日通り、ここは南に下る。 金剛寺坂の由来は坂下の西側にかつて金剛寺という禅寺があったため。

Dscn2405

金剛寺坂を下ると水道通りに突き当たる。 この水道道路(巻石通り)は以前小日向の坂でも出てきたが、神田上水が流れていた筋。 水道道路を小日向方面へ向かい金富小学校脇を右折すると今井坂(新坂)の上りになる。

Dscn2410
今はとてもきれいな歩道もつけられて気持ちのいい道路だが、新坂という別名は江戸時代の新坂で、道ができたのは1711年~1716年頃。 名前の由来は変わっている。

坂上に蜂須賀孫十郎という武士の屋敷があり、そこに兼平桜という桜の巨樹があった。兼平桜は平安時代の武将今井四郎兼平の名にちなむのでこの坂を今井坂と呼んだという、どうも七面倒くさい由来で、説明書きを見てもすぐには理解できなかった。 坂の途中で再び丸の内線の跨線橋を渡り春日通りへ出た。

| | コメント (0)

2016年1月16日 (土)

春日・小石川の坂 (1)

文京区は春日駅で降りて春日通に出ると東西に坂がある。 道幅が広く交通量が多いが、昔からある坂。

Dscn2346
白山通りの東側を上る坂が東富坂という。一方西側は中央大学の前を上って行く坂、これが富坂(西富坂)である。

Dscn2347
富坂は元々はとび坂と呼んだ。 江戸時代に鳶が多くいた、といっても鳶職ではない、空を飛ぶあのとんびである。小石川の水戸藩屋敷の裏辺りは鳶が多く、女子供が手に食べ物を持っているとかっさらってしまうという。 いまでいう江の島から鎌倉の海岸の様な状態。

Dscn2352
今回は千川通りを北上、こんにゃくえんまの源覚寺を過ぎ左に入り、左折してさらにその先を右折すると堀坂の上りになる。 実は12月に手前の路地の細道をこの坂と思いこんで歩いたのだが、のちに間違いに気づいて歩きなおした。間違った坂が上の写真である。 あとで考えればただの路地に過ぎないが生活感があってよかった。

Dscn2615
こちらが歩きなおした堀坂。 北側にマンションがほぼ出来上がっている。 この地に住んでいた堀内蔵助(ほりくらのすけ)という旗本が管理補修した坂らしい。そのため堀坂と呼ばれ今に至る。

Dscn2362_2
堀坂上を右折してしばらく進むと下り坂になる。 これが六角坂。 旗本六角氏の屋敷があったので付いた名前。 六角坂は直角に曲がるがこの辺りが屋敷だったようだ。 坂下に下り左に行くと角に津和野町の東京事務所がある。 子供の頃毎月津和野の太鼓谷稲荷神社に祖母に連れられて通ったので懐かしい。

Dscn2366
津和野事務所を左に曲がり、左手の道を上って行くと善光寺坂になる。 途中に1602年創建の善光寺がある。 しかし江戸時代は違う名前の寺だったので、この名前が付いたのは明治以降。 坂上にはムクノキの古木がある。

Dscn2372
折れてしまっているので樹高は13mしかないが、推定樹齢400年なので江戸の初期からある古木である。 昭和20年の空襲で上部が焼けてしまったが、それまでは23mの高さがあったようだ。 この辺りは江戸時代には伝通院の境内だったようなので、伝通院の樹木だったのだろう。 戦火を潜り抜けてもまだ生き生きと伸びていく樹木は凄いと感心しきりだった。

 

| | コメント (0)

2016年1月14日 (木)

文京区小日向の坂 (3)

荒木坂を上ると右手に営団地下鉄丸ノ内線の車庫がある。 道を歩いても右側に延々と数mのコンクリートの壁が見えるだけ。 しかし突き当りを右折して丸の内線車庫の下をくぐるトンネルを抜けると線路の東側に階段が見えてくる。 庚申坂である。

Dscn2301

広尾の節に記したが、庚申とは中国の道教に端を発して日本の各地の民間信仰を混ぜてできたもので、庚申講という民間信仰が江戸時代に流行り、庚申の夜は三尸(さんし)という虫が体の中から這い出して天にその人の悪事を告げるという信仰からその夜は徹夜するという風習。 庚申講を18回重ねたのちに庚申塔を建てるのが当時の習わしだった。 その庚申塚がこの階段の下にあったので庚申坂と呼ばれた。

Dscn2300

この庚申坂を上ると坂上から丸の内線の車庫を眺めることができる。 地下鉄を地上で観るのも良いものだが、それ以上に車庫に並ぶ多くの丸の内線を見ると3分おきにホームに入ってくるだけより沢山の車両が必要なのだと思える。

Dscn2303

再び庚申坂を下り、トンネルをくぐって来た荒木坂方面の道を左に見てまっすぐに行くとその先が切支丹坂(写真の突き当りまで)になる。 ここに切支丹屋敷があったことに由来する。しかし実際にはキリスト教徒を取り調べする館だったので、あまりいい場所ではない。ある意味迫害の歴史である。 突き当りをそそくさと右へ。

Dscn2309

道の途中には2014年に発掘調査が行われた小日向一丁目東遺跡がある。 すでにマンションが建てられたが、縄文時代の竪穴式住居から弥生時代、奈良時代、平安時代と様々な時代の複合遺跡が発見された。 この小日向台地には数千年の住居の歴史があるわけである。 その突き当りには逆S字になった下り坂がある。 これが蛙坂。 坂下が湿地帯で蛙が大群をなしていたことからついた。

Dscn2314

蛙坂を下り右のトンネルを抜けるとそこに藤坂がある。 傍の伝妙寺に藤の銘木があって藤寺と呼ばれた。 そしてこの坂を藤坂と呼んだ。 坂上は春日通りでその先が桜の名所の播磨坂。 再び坂を下り、トンネルを戻る。 もう一つのトンネルをくぐると釈迦坂。
Dscn2323
両側に積まれた石垣がとてもいい雰囲気。 くねりながら上って行く。  脇にあるのは徳雲寺。  江戸時代からこの坂は両側に壁が迫り、この徳雲寺にあった釈迦の石像を眺めながら上り下りしたので釈迦坂と呼ばれるようになった。

Dscn2326

今は下りながらすれ違う丸の内線を眺められる。 坂を下り今通っていない残りの道を進むと拓殖大のキャンパス前になる。 正門前の向かいに深光寺への坂道がある。 そのまま進むのが茗荷坂。

Dscn2329

拓大の正門前から緩やかに茗荷谷駅まで上っていく。 途中線路側に崖があって高低差を前後左右に感じながら進んでいく。

Dscn2333

坂を上りきったところが茗荷谷の駅。 昔この辺りには茗荷の畑がたくさんあってそれで茗荷谷と呼ばれるようになったらしい。 今は拓大、跡見、お茶の水女子などの大学や高校がたくさんあって学生の街になっている。
<2015/12/12>
 

| | コメント (0)

2016年1月11日 (月)

文京区小日向の坂 (2)

鼠坂の坂上を真っすぐに進み、道幅の広い通りで右折すると大日坂の坂上になる。 大日坂は昔は坂上に在った田中八幡宮にちなんで八幡坂と呼ばれていたが、その八幡宮が音羽の谷下に移転してしまった。 そこで坂下の妙足院の大日堂にちなんで大日坂と呼ばれるようになった。 坂上の花壇には場違いな女性の彫像の土台にそのいきさつが銅板に刻まれていた。

Dscn2270
意外に道幅があるので急坂の印象は薄いが、実は結構長く下っている。 坂下は神田川の作った低地。 旧黒田小学校(前区立第五中学校で廃校、黒澤明の母校)の敷地の道路側から神田上水の遺構が出土している。 神田川と並行して江戸に水を給するインフラ。 その上に通っているのが巻石通り。 江戸時代この辺りは白堀(開渠)でおよそ江戸で使う水の2~3割を供給していた。 犬走りがガラス張りの床になっていて上から遺構を望めるようになっている。

Dscn2275
その先を左折すると真っすぐな上り坂がある。 これが服部坂。 坂上に旗本の服部権太夫の屋敷があったので名が付いたが、今は小日向神社になっている。 真っすぐな坂で近所に住んでいた永井荷風(かれも黒田小学校出身)の散歩道でもあったらしい。

Dscn2282
服部坂の坂上の小日向神社の向かいにある福勝寺の門前を下るのが横丁坂。 服部坂からは右折になる。 何という事のない坂だが、寺社があると雰囲気が良くなる。鉄砲屋敷の横丁にある坂という事でついた名前。

Dscn2285
横丁坂の突き当りを左折し、その先を右に入ると薬罐坂になる。 クランクとカーブがあっていいのだが傾斜と見通しが悪い。 崖の上は墓場。 江戸時代は暗い坂道で狐の化け物が出たという言い伝えもある。このあたりの地名小日向はこびなたと濁って読む。 下の巻石通りには下りずに寺町を歩く。

巻石通りは別名水道通りというが、これは元々先述の神田上水が流れていたため。ではなぜ巻石かというと、神田上水は目白台下の大洗堰で水位をあげることで神田川からこちらの神田上水に水を流す仕組みになっていた。 この水を真っすぐにたどると後楽園、当時の水戸藩の屋敷に届くのだが、明治になってこの開渠に石の蓋をした。その蓋を巻石蓋と呼んだので巻石通りとなった訳である。

Dscn2288
称名寺を小日向台に上る坂が荒木坂でその説明板に詳しく記されていた。小日向台地はこの荒木坂が東の端になる。 これより東は茗荷谷、茗荷谷駅周辺と拓殖大学のキャンパスあたりを源流とする小さな流れが谷を形成した。 その谷沿いを走るのでこの辺りは丸の内線が地上に出ているわけだ。

<2015/12/12>

| | コメント (0)

2016年1月10日 (日)

文京区小日向の坂 (1)

陽差しも低くなりいよいよ冬至が近づいてきたと感じる12月中旬の空の下、今回は江戸川橋駅を降りて小日向の坂を歩く。 小日向には坂道好きには堪えられない魅力的な坂がいくつもある。 今回は最初から一級品の坂道にアプローチ。

Dscn2242
城址の様な荘厳な石垣の脇からクランク状に上って行くのは鷺坂。 都市景観賞とまで謳ってあったが十分に値すると思う。 クランク度合いも違う世界に入っていくような錯覚を覚えさせそうな名坂だ。この石垣は元々下総関宿藩主の屋敷だった。 関宿は千葉県と茨城県の県境となる利根川と江戸川に挟まれた地域。 千葉の最北端にあたる。

Dscn2243
坂のクランクの所に案内板と石柱がある。 明治に関宿藩主の屋敷が住宅地に開発された折に堀口大学・三好達治・佐藤春夫らが命名した坂名。 そういえば佐藤春夫はこの鷺坂から見て護国寺参道の向こう側に住んでいたし、三好もこの辺りだったようだ。

Dscn2244
鋭角に切れ込むクランクは車で通るにはある程度の技術が必要になるだろう。 鷺坂はこの先もさらに高度を上げていく。 そして八幡坂の中腹に出る。 八幡坂は坂下の今宮神社から台地の上に上る坂。 クランクの角で鷺坂と出合うので上部は鷺坂と間違えそうだが、上部も八幡坂である。 今宮神社に下りる。 ここにはその昔田中八幡宮があったのでこの坂を八幡坂と呼ぶらしい。

Dscn2252
八幡坂は階段の坂。 前述のとおり上って行くと右手からくる鷺坂を合わせて左折する。 そこからもまだ階段の坂になる。

Dscn2249
この八幡坂の上もまた関宿藩主の久世氏の屋敷跡。 昔の大名の屋敷は学校程度の広さがあるから、現代の東京のマッチ箱に住む我々には想像が付きにくい。 八幡坂の坂上までは車が下ってくるが道幅は2m以下でとても狭い。ちょうどやってきた車はあまりの狭さに通れないだろうと思いきや、ミラーを倒して通るという離れ業をやってのけた。 地元の住民の慣れた感じの運転に感心した。

八幡坂をそのまま進むと左に鳩山会館がある。 ブリジストンで財を成した鳩山家の屋敷。 昭和中期の総理大臣鳩山一郎と共立女子大理事長の寺田薫(寺田栄の娘)が結婚して、その長男鳩山威一郎(元外務大臣)がブリジストン創始者石橋正二郎の娘安子と結婚。 この安子が鳩山由紀夫と邦夫に毎月1,500万円の巨額の小遣いをくれた母。 一言でいえばとんでもない金持ちだ。

Dscn2259
鳩山会館の先を進むと鼠坂の坂上に当たる。 ここから一旦鼠坂を下るが、この鼠坂がまた素晴らしい。  鼠でないと登れないくらいきついので鼠坂と呼ぶと記録したのは森鴎外。 別名を水見坂というがこれは音羽谷を流れていた弦巻川の流れを眺めながら下る坂だった為の名前。 上から見た風景は下の写真。

Dscn2264
いやはや名坂が集中しているのがこの音羽の久世山地域。 久世山というのは先述の関宿藩主の久世氏の屋敷の山なので地元でこう呼ばれる。 この音羽の谷はなぜか深い。 江戸時代の弦巻川がどんな流れだったのか興味深い。 その源流は池袋駅東口ロータリー辺りなのである。

<2015/12/12>

| | コメント (0)

2016年1月 5日 (火)

文京区関口・目白台の坂 (4)

日本女子大前を左折して次の公園脇を下る道が小布施坂。 江戸時代鳥羽藩主稲垣氏の下屋敷とその西側の岩槻藩主大岡氏の下屋敷の間にあった野良道を新道として1761年に開いたのがこの坂。 のちの明治時代にこの一帯に小布施新三郎という金持ちの屋敷があったので小布施坂と呼ばれるようになった。

Dscn2141
途中が一部階段になっているので車両は通行止。 しかしバイクなら通れる程度である。

Dscn2143
坂を下ったところに黒塀の懐かしい日本民家がある。 芭蕉庵のように名があるわけではないが、昭和を感じさせるいい景色である。

Dscn2145
坂下はもちろん神田川。 しかしこの小布施坂の地下をくりぬく計画で用地買収も進んでいる。 下の地図の真ん中あたりの富士山型になっている小道が小布施坂である。 坂は一旦トンネルで斜面を貫き、不忍通りにつながるようだ。

Kan4
坂下を右折して進み民家の間の道を右に入る。 下手をすると行き止まりになるのではと思うような住宅地の路地だがこれが次の坂の入口。

Dscn2149
この辺は何の変哲もない路地なのだが、次第に傾斜がきつくなり、最後には階段の道になる。日無坂である。 昔は樹木が生い茂り暗い坂だったことからそう呼ばれるようになったが、今では住宅の間を抜ける階段道。

Dscn2155
この坂の頂上は富士見坂(豊島区)との接合で終わる。 鋭角な角の家の塀が素晴らしいが、かなり傷んでいるのでいつまであるのか。 できればこのまま残してほしいものだ。 坂上で目白通りと不忍通りの丁字路。

Dscn2160
日本女子大前へ再び戻り豊坂とは反対の北側の路地に入ると緩やかな下り坂。 この道は幽霊坂と呼ばれるが、今はマンションと大学に挟まれたなんということのない路地。  幽霊坂を抜けると不忍通りでこの辺りは清戸坂と呼ばれる。 もともとは将軍の鷹狩への道。 明治時代はこのあたりは平田牧場という牧場で牛乳を売っていた。

Dscn2170_2
清戸坂を下り、裏道に入り窪田空穂(クボタウツボ)終焉の地を巡ってから、薬罐坂を下り再び不忍通りへ出る。 やかん坂のやかんは野犴(ヤカン)の意で犬やキツネを言う。野犬やキツネが出る道だった訳である。 そういう風景を想像するのは楽しいものだ。

Dscn2173
最後は大通りの交差点になっている小篠坂(小笹坂)。 ここも将軍鷹狩りルートの一部で、江戸時代は笹薮の重なる景色だったのだろう。 今は首都高速とと不忍通りが重なり自動車がひっきりなしに通る。 江戸時代の想像をした後に首都高の橋げたを見ると夢から覚めたような気持になる。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧